第2話 印傍
政治的実権はほとんど無いとはいえ項家は学問に秀でた家柄であり、白檀の父もまた皇城に勤める中級官吏であった。不幸だったのは彼女が八歳の時に父母を亡くし、その上後見となる親戚がいなかったことにある。他の寒門の娘と違って白檀が身を妓楼に売らずに済んだのは、妓女になるにはあまりにも色気のない彼女を進んで買おうとする店がなかったことの他にも理由があった。白檀の両親、特に父親は非常に教養豊かな人で、幼い頃から娘に読み書きや計算などを完璧に叩き込んでいたのだ。昔取った杵柄とはよく言ったもので、白檀は近くの学問所の採点の手伝いやら商家の帳簿の確かめやらをして駄賃をもらっていた。そうしてどうにか金を遣り繰りして一歳年下の弟・
白檀はその日、大量の書物を荷車に載せて雑然とした都の大通りを歩いていた。白檀たちが住む香国の都・
「姉さん」
「何?」
白檀は機嫌が悪い。素っ気なくそう言って荷車を曳いていると、後ろから両肩に書物の山を担いだ弟が走って追いかけてきた。頭の上で髪を団子状にまとめ、でかい図体で必死にこちらに駆けて来る様子はさながら大型犬のようである。
「それ、本当に質に入れちゃうの?」
「他に我が家に金目になるようなものがあった?」
ピシャリとそう言い放つと、宋薫は黙って俯いてしまった。
「……でもそれは父さんの唯一の……」
背後から未練がましく訴えかけてくる弟を一蹴する。
「あんたはその図体と剣の腕だけが取り柄なんだから、試験に受かることだけ考えてなさい。お金は私がどうにかするから」
知力に秀でた白檀とは対照的に、弟の宋薫は武力の方に秀でている。かつて香国軍で指南役を仰せつかっていたという武官――とはいえ現在は近所に住んでいる酒好きの好々爺にしか見えないが――にもその腕前を褒められたほどだ。なかなか良い線をいっているのだろう。
項家からもう一度官吏を輩出することは白檀の悲願でもある。役人になるためには二つの道が存在する。一つは家格に応じた位に世襲的に任命されること、そしてもう一つが香国の官吏登用試験「科挙」を受けること。しかし、家柄もコネも持ち合わせない宋薫は必然的に武官用の登用試験「武科挙」を受験するしかない。
(ああいうのは金があった方が良いからな)
身分を問わず才能ある若者を登用するための試験においても金がモノを言うのがこの国の実情である。白檀は現実主義者であり、根っからの商売人でもある。弟の未来とその俸給のためには初期投資は惜しまない。例え父親が自分に遺した唯一の形見を質に入れたとしても。だが、それだけでは大した金にはならないだろう。手伝いの仕事を掛け持ちすればあるいは受験費用に達するかもしれないが……。
ふと目を上げると、大通りの中心に何やら人だかりが出来ている。雲峰のような人混みをかき分けて見ると、触書が掲げられていた。触書の脇では役人が文字の読めない者たちのために内容を読み上げている。
此度後宮一新サレ、新タニ求ム宮女百人······
(後宮か……)
触書の頭にザッと目を通し、白檀は顎に手をやった。
皇帝の妻である后妃と、彼女たちの身の回りの世話をして後宮を管理する宮女とは一応区別されている。だが、後宮にいる女は須らく皇帝が自由にできる女である以上、その境界は極めて曖昧だ。宮女として後宮に出仕して皇帝の寵を受けた女性も歴史上には多く存在する。もしも運良く皇帝のお手付きになり、男児でも授かろうものなら、例えどんなに貧賤の生まれであったとしても一気に国母として重んじられるのだ。それ故、庶民の女性たちにとって宮女に選ばれることは夢物語への第一歩であり、白檀にとっても一攫千金の大出世の機会であるが……。
(絶対ありえないな)
彼女には皇帝の寵愛を受ける自信が全くなかった。白檀の名誉のために言い置くと、彼女は決して見目が悪いわけではない。ただ、女にしては背が高く体の凹凸が少ない痩せ型で、少年のように細い手足と意思の強そうな瞳、父親譲りの茶色がかった髪を持つ白檀はこの国ではあまり美人とは言われない。後宮にひしめく粉黛の中で、はかばかしい後見も圧倒的美貌もない白檀に勝算などあるはずがない。せいぜい皇帝の戯れで下級妃にでもなって、その後皇帝に会うこともなく一生を籠の鳥として終えるのが落ちだ。
それでは白檀が落胆していたかと言えば、そういうわけでもなさそうだ。触書を読み終わった彼女はにいっと不敵な笑みを浮かべた。
(目指すは女官長!)
そう、后妃になることなど端から白檀の眼中にはない。そもそも、この年まで金を稼ぐことしか考えてこなかった白檀には色恋に関することは完全に欠落している。だが、皇帝の寵妃に仕え、宮女として出世していけば、後宮における最高位である女官長だって夢ではない。皇帝の愛を巡って争うよりはその才覚をフルに活用して仕事の道で出世する方が白檀には遥かに向いているのだ。
「私、宮女になるわ」
頭の中で瞬時に算盤を弾いた白檀は曳いていた荷車の柄をぐっと握りしめ、ポカンとする弟を置いて近くにいた役人のところへと進み出た。
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