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荷物を全て積み込んでも、まだスペースが残った。
「本当にこれだけでいいのですか?」
マリナが心配そうにこちらをうかがう。
「いいですよ。いらないものばかり家にありましたから」
マリナに代わって俺がトランクを下ろした。
「さて、準備はいいですか? ここから長いですよ」
「あ、じゃあお手洗いだけ」
「ごゆっくり」
俺は先に運転席に乗り込んだ。
窓からかつての我が家を見つめた。特に感動はしなかった。そこまで高くなかったし、それにずっと一人暮らしだった。思い出はない。
しばらくしてマリナが助手席に乗り込んだ。
「ごめんなさい、遅くなりました」
「いえいえ。じゃあ、シートベルトを締めてくださいね」
マリナがベルトを締めると俺はすぐにアクセルを踏み込んだ。
我が家が遠ざかる。もう戻ってくることはないだろう。永遠におさらばだ。
マンションを退去することを決めてからは早かった。
家具は全て売り払った。本もまとめて売った。それから口座の預金も全て引き出した。手元に残った金はさほど多くはない。だが、残りの生活を考えれば十分だった。
この引っ越しのためにマリナを呼び出した。まともに知り合いといえる人がほとんどいなかったのだ。快く引き受けてくれたのはありがたかった。
レンタルしたバンは快調に高速道路を走っている。
「あの、本当にいいのですか?」
マリナはおずおずと訊ねた。
「いいって、何がですか?」
「その、引っ越してしまって……」
「いいですよ。僕はどこにいたって仕事はできますし。たまに東京に行くことはありますが、それほど遠くはないから平気です」
俺は故郷に向かっていた。生まれてから幼少期、高校生までを過ごした場所。そして、ユキが死んだ場所でもある。
これから俺もそこに骨を埋める。このことはマリナには秘密にしてある。彼女にはただ、そっちに引っ越すとだけ言った。説明が足りていないのは俺も分かっている。なぜ引っ越すのか、引っ越して何をするのか。きっと彼女は様々に想像しているはずだ。その中に、俺がしようとしていることが含まれていてもおかしくない。
申し訳ないとは思う。だが、この状況を招いたのはマリナだ。だからしばらく付き合ってもらう。
高速道路を降りると、田園風景が広がっている。背の低い山がすぐ横にあり、逆側はさっきまで走っていた道路が伸びている。
典型的な田舎の景色だ。一面が自然でのどかな雰囲気なんてのは幻想でしかない。廃れかけの土地に文明が容赦なく根を生やしている。
懐かしいと思っても、感動はしない。
隣を見ると、マリナは寝ていた。起こすのも悪いから、そっとしておこう。
俺はいつもよりゆっくりとアクセルを踏んだ。
地元のホテルに荷物を運んでレンタカーを返すところまで、マリナは付き合ってくれた。移動が大変だからということで、店から彼女の車で送ってもらうことになった。
マリナの運転は全てが丁寧だった。ハンドルの切り方も一定で、車体の揺れを全てコントロールしていた。それに、周りがよく見えている。周りが見えているから、スピードを出していても安心できる。
時間も丁度良かったから、通りかけの店で夕食を食べた。俺が中学校に上がったくらいに出来た回転寿司のチェーンで、今でも続いているのに少し驚いた。遠慮してなのか、マリナは一番安い皿しか取らなかった。会計は俺が全て払った。
ホテルの前に車を止めると、マリナはぼそりと言った。
「私、今は一人暮らしなんです」
眠たげな目を俺に向ける。暗い車内で、街灯に照らされて唇が艶っぽく光る。
「そういえばここのホテル、駐車場の予約はいらないようですね」
俺が答えると、マリナは赤いフォルクスワーゲンを残り少ない駐車スペースに押し込んだ。
つまりはそういうことだ。
愛はなかった。だが、それなりに歳を重ねても独り身だったせいか、互いに強く求めあった。
そのときだけは不思議と、ユキのことを考えなかった。
手入れの行き届いたしなやかな体躯を抱いているときだけは、俺は何事からも解放された気分に浸れた。
事が果ててからは静かだった。互いに一言も言葉を交わさず、同じベッドに入った。
天井を見つめながら、俺はユキのことを考えていた。それから、小説のこと。取り留めもないことがぐるぐると回っていた。それらはやがてぐちゃぐちゃなまま一つにまとまって、そして拳銃で粉々に砕かれる。
鞄に入ったままの拳銃が、どうしても気になってしまう。今はあれが俺の命を握っている。いつだって簡単に死ぬことができる。俺はその誘惑に耐えなければならなかった。
こんな静かなときに銃声が聞こえたらきっと、誰も気に留めないだろう。
当たり前だ。この国の人間にとって拳銃はフィクションの中にしかない。誰も本物を知らない。もし本物だったとしても、信じる人はごくわずかしかいない。俺がここで引き金を引いたって、夜中の雑音に紛れてしまうだけだ。
それは、とても、都合がいいことじゃないか。
本当に、やってしまおうか。
あれこれ考えて計画を立てるのも、もうどうだっていいのかもしれない。後に残るものなんて、死んだ俺には関係ない。どうせ生きていたって、ユキはもうこの世にいない。
これまでの人生をユキのために捧げてきた。小説を書いて、彼女に読んでもらうために生きてきた。それだけが生きがいだった。
ユキがいなければ、俺は何もできない。
彼女の墓を見たときと同じ感覚が襲った。
どうしてだよ。どうして死んだんだよ。
ずっと黙ったままで、これからもずっと黙ったままか。
ふざけるな。
死ぬのなら、俺に死ぬって言ってから死ねよ。してやれたことだってたくさんあったのに。
お前がその機会を全部捨てたんだ。俺は何もできなかったのに、自分だけ身勝手に。
そうだ、お前のせいだよ、ユキ。
お前が全部狂わせたんだ。人生を、俺自身を。
お前さえいなければ、俺は――俺は――
気づいたら涙が止まらなくなっていた。わけの分からない感情が胸に押し寄せてきて、それを処理しきれずにいた。子供に戻ったみたいだった。
墓参りをしたときは何ともなかったのに、今はどうしても抑えられない。
マリナが寝返りを打った。起こしてしまったようだ。
それでも涙は溢れてくる。嗚咽だけでもなんとか堪えようとしてかえって息苦しくなり、吐き出すように咳をした。
「泣いてるの……?」
不安げに瞳を揺らすマリナを横目で捉えた。
俺は答えなかった。一人にしてほしかった。
「もしかして……ユキちゃんのことを……」
俺は顔を背けた。みっともないと分かっていたが、構わない。
この気持ちは誰にも分からない。分かってもらってたまるものか。
俺だけの問題だ。俺一人が抱えていればいい。
そっと、マリナの腕が身体に回された。慈愛に満ちた手つきで、俺を包み込んだ。
「私にできることは少ないのでしょう。ごめんなさい」
彼女の身体がさらに密着する。触れ合った素肌から、体温を強く感じた。熱い。これはマリナの秘めているものだろうか。
「私も大切な友達を亡くしました。独りぼっちで、寂しさに耐えられなくなりそうだったこともあります」
そこでようやく、俺はマリナの目を見た。それは力強く開かれていた。
「気持ちが分かるとは言いません。けれど、これだけは言えます。今のオカモトくんは決して独りではない」
不意に心が揺れた動揺で、俺は再びマリナから顔を逸らした。
一瞬でも彼女を魅力的に感じてしまったことが悔しい。それは彼女にも筒抜けだろう。俺の身体も熱くなっている。
ユキに振り回されているだけの大人しい女の子だったのに。人はこんなにも変わるものなのか。
「マリナさん」
「……はい?」
「もしかしてそれも、ユキに吹き込まれたのですか?」
相当失礼なことを言ったと、口にした直後に気づいた。
顔の周りから急速に熱が逃げていく。
「オカモトくん」
「はい……」
マリナの手が俺の首筋を撫でる。するすると顎に移り、それから反対側の頬へ。
「もしそうだったとしたら、私の言葉は嘘になるでしょうか」
少し強い力で顔をマリナの方へ向かされた。ユキを思わせるような強引さだった。
「確かに、ユキちゃんからオカモトくんに伝えるように言われました。ですが私はユキちゃんの口の代わりではありません」
一瞬見せたそれは怒りだった。初めて見るマリナの感情だった。驚きはあっても、申し訳なさが先に立った。
しかしそれはすぐに穏やかな笑顔に変わった。それがマリナには相応しかった。
「ユキちゃんはオカモトくんをずっと愛していました。彼女の手にはいつも、オカモトくんの本がありました」
それからマリナは俺の知らないユキの話をしてくれた。
ユキは高校に入学しても、ボーイフレンドを一人も作らなかった。大学には進学しなかったが、その後に何をしていたかは教えてもらえなかった。俺の新作が出たときは、いつも一番に買いに行っていたそうだ。
俺の本がユキにも届いていたことを知ったときは嬉しかった。
だが、マリナの語り方はまるで、何かを避けるようだった。もっと重要な何かを、まだ隠し持っているようだった。
俺は、かつてあらゆる人にユキの行き先をはぐらかされたように、無力だった。
いつだって、俺にはどうしようもない。どんなに手を伸ばしても、自分では勝ち取れない。なのに、嘘みたいに気まぐれなときに、ふらりと向こうからやってくる。
もうたくさんだった。一度くらい、自分の手で得られるものがあってもいいじゃないか。
俺は再び決意を固めた。この死は、ユキの元へ行く最初で最後のチャンスだ。
会って話せなくても、俺はユキと同じ場所にいられればいい。
ユキのためならば、俺はどんな努力だってする。
「オカモトくん?」
いつの間にか、俺は隣で寝ている人が誰なのかも分からなくなっていた。
何かに抱かれていることだけを感じて、しかしそれに身を委ねることはしなかった。
宙に浮いているような、自分だけが世界と切り離されているような気分だった。
俺は生と死の狭間にいる。常に重力のように死の世界へ引き寄せられているが、生の世界から伸びる糸に絡めとられ、動けなくなっていた。今すぐにでも切ってしまいたい。
我慢できなくなるまでに、あとどれくらいの時間が残っているだろうか。
困ったことがあったらいつでも連絡してください。マリナはそう言っていた。
幸いにしてなのか生憎なのか、俺は誰の手も借りなかった。
とても、調子が良かった。
雑誌の連載を終わりまで全て書き溜めた。シリーズの完結編は二か月で書き終えた。
自分でも驚くほど筆が進んだ。書けば書くほど自分の中から言葉が溢れてきた。
俺が初めて小説を書いたときの感覚に、それは近かった。とにかく書くことが楽しくて仕方のない、あの感覚だ。
思えばプロになって初めて、ユキのことを考えずに書いた。ユキのために書く代わりに、不特定の誰かのために書いた。きっと、酷いものになっているはずだ。
だがそれでいい。これで最後なのだから。
身の回りの整理もほとんどついた。両親はとっくに死んでいて、ほとんど知人もいなかったから、さほど苦労はしなかった。出版社には何も言わなかった。
あらかたの準備が全て整ったのは、夏の真っ盛りのときだった。
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