Side story

第33話 井戸

 レーフールを沈め、ツヴァイをつれてレメラスを離れたセロは、その後のことなど考えてはいなかった。

 ただ遠くに行こうということだけを考えていて、それから先は深く考えていなかったのだ。それだけで、彼はツヴァイを連れてレメラスを離れた。


「……」

「……」


 セロの後ろをツヴァイは黙って歩く。

 交通機関もなく、行くあてもなかった二人は無言で歩き続けた。

 何日も何時間も歩き続けても、お腹が減ることもなければ、眠くなることもない。この時だけは、ベイルであったことを感謝した。


 時折振り返ってツヴァイの様子を見る。

 何年も、何十年もずっと会話をしてこなかった弟が、今、共に歩いている。それだけで、セロは嬉しい気持ちもあった。

 反対に、ツヴァイが抱くものは深く暗い。

 自分の存在も、やり方も。否定されたどうにもならない感情に押しつぶされそうになって、見えない心が重くなっていく。


 ツヴァイは考える。

 目の前を歩く、白いセロは何も変わらない。

 何にも染まらないその白が眩しい。

 多くの人を殺してきて、真っ黒に染まった自分を憎んでいるはずなのに。それなのにこうして一緒に歩いている。

 在変戦争の時から、変わっていない。それが酷く残酷なことに感じた。


 ふと、セロが立ち止まった。彼の視線の先を見ると、大きな橋があった。川があり、向こう岸には建物が密集しているのが見える。


「うーん。ここ、どこだろうね」


 ぽつりと呟く言葉にツヴァイは答えることができない。彼が知るわけがなかったからだ。

 セロは川沿いから、上流の方へと目を移す。

 日がひずんで来ており、見にくい状態であったが、セロは上流の方に廃墟の集まりを見つけた。

 何も言わないけれど、着いてくるだろうとセロはその方向へと向かった。


「ここ、こうなっちゃったんだね」


 月夜に照らされるのは、朽ちた建物の残骸や、井戸の名残。

 しばらく雨は降っていないが、足下は湿っているため、水位が上がると水没するのかもしれない。

 だが、この残骸から、かつて人が暮らしていた場所であることはわかる。


「ここ、多分、俺たちが一緒に来たことがあるところだよ。覚えてる?」


 セロが懐かしむように井戸の淵に座って言うが、ツヴァイは何も言わずにあたりを見渡す。

 人の気配はない。ここ最近人が立ち入った痕跡もない。

 一都市を廃墟にすることができるツヴァイは、数多の都市と街と、そして村を廃墟にさせている。ひとつひとつを細かく覚えてなどいない。ツヴァイにとって、どこも同じにしか見えなかった。


「その様子だと、覚えていないみたいだね。無理もないよ、俺よりずっと駆り出されていたんだから。でも、ここは思い出してくれたら嬉しいな――」


 そう言って立ち上がろうとしたセロだったが、バランスを崩した。

 セロの体は、暗い井戸の中へと落ちていく。

 その様子がツヴァイはスローモーションのように見えた。


 二人とも反射的に手を伸ばす。だがそれは空を掴むばかりで届かない。

 ドンッ、と重い音が響いてすぐに、井戸の底から悲鳴のような声が上がった。


「兄さんっ……」


 暗闇に落ちたセロ。井戸の中を覗いても、その姿は見えない。また、物音もしなくなった。


 セロの目がない今なら、このまま逃げることもできた。

 井戸を上って出てきたところで、ツヴァイの方が機動力がある。

 だが、ツヴァイは迷くことなく、軽々と井戸の中へと飛び込んだ。


 自分でも何を思ったかわからなかった。考えるよりも先に体が動いていた。

 次第に光が届かなくなり、暗闇に包まれた視界に恐れることなく、ツヴァイは落ちていく。すると、少し先にぼんやりと明かりが見えた。


 セロだ。

 ツヴァイと対照的な明るい光が、セロの力で作られ、井戸の中を照らしていた。


 途中で黒い閃光を操って足場を確認すると、ゆっくりとセロの傍に降り立つ。


「あ、来てくれたんだ。もう参っちゃったよ。落ちちゃってさー。あー、痛かった」


 相変わらずへらへらと笑って言う姿に、ツヴァイは苛立ちを覚える。


「なんでこんなところに入ったんです? 兄さんなら飛べるでしょう? 落ちる必要はなかったはずだ」

「だって、寂しいからさ。ツヴァイならきっと、助けに来てくれると思ったから」


 どうかな?、と答えるもそれがさらにツヴァイの怒りに火をつける。


「僕は別に助ける気なんてこれっぽっちもありません。兄さんがどうなろうが別に……」


 そう言ってツヴァイはセロから目を背ける。

 セロが落ちるときに手を伸ばした行動は、助けようとしたからであるはずなのに否定する。心と行動が一致していないのだ。

 それを見透かしているセロは、ほほ笑むにとどめた。


「ほら、さっさと上に上がりますよ。こんなじめじめした場所にとどまっていたくないです」


 井戸の中にあったであろう水はほとんどない。

 使われずに放置されたことで、干上がったようだ。しかし、雨水なのか漏れ出た水なのか、肌にまとわりつく湿気が不快感をもたらす。


「いやぁ、そうなんだけどさ」

「は?」


 ツヴァイは振り向く。

 すると、そこには先ほどまでの笑顔を崩さないセロが。


「ちょこっと冒険してみない?」


 そう言ってセロがツヴァイの手を掴んだ。


「は!?」


 驚きのあまり大声を出すツヴァイを他所に、セロは掴んだ腕を引いて駆け出した。


「離してくださいっ!」


 足を踏ん張るも、思いの外力が入らなかった。

 素の力で負け、セロは進む。その先には明らかな人工物があった。壁の一部だろうか、石で作られている。


「ちょっと……本当にやめて下さい!!」


 ツヴァイは力を振り絞るが、それでも止まらない。

 セロはどんどん前に進む。


「ああもう!!」


 ツヴァイは諦めて、抗うことをやめた。

 何を言ってもセロは止まらないとわかったからだ。

 しぶしぶ引かれるままに、セロについて行き、石の建造物に近づいた。


「やっぱり。ここだったんだ」


 そこは井戸の底よりも数メートル高くなった場所にあり、比較的大きく、頑丈に作られた建物のようであった。

 入り口らしき扉があったがすでに壊れているようで開いている。そこからセロは中に入っていく。


「ここ。俺がここに閉じ込められていたのを、ツヴァイが助けてくれたんだ」


 建物の中の光景を見てツヴァイは絶句し、記憶がよみがえっていた。

 そこにあるのは拷問器具のようなものばかりだ。ここで行われていたことが容易に想像できた。


「何年たっても、こういうのは残るんだね」


 セロはどこか悲しげであったが、それよりも好奇心の方が勝っているようだ。


「……思い出しました、ここのこと。でも、僕は兄さんがどうしてここにいたのか知りませんけど」

「あれ? 話してなかったっけ?」


 そう言うと、奥の部屋へと進んだ。

 そこには地下へと続く階段がある。

 薄暗く不気味な雰囲気を漂わせているが、セロが迷わず進むのでツヴァイもついていった。

 降りた先は、大きな空間が広がっていた。中央には祭壇のようなものがあり、上になにか乗っている。


「あの時はね、人間の観察に出てたんだ。見た目は人間そのものだし、うまくいくと思ったんだけど、この髪と目が人間じゃないって言われてさ。捕まっちゃったんだよね」


 その時のことを思い出したように苦笑いをするセロだが、ツヴァイは静かに聞いていた。


「何されるのかなって連れられてここに来れば、あらビックリ。先客がいたんだよね。みんな見た目で迫害されていたみたい」


 そこで初めてセロの声音に同情の念が感じられた。


「同じ人間なのにね。他と違うところがあれば、それを理由に石を投げるんだ。人間って醜いなって思ったよ」

「そう思うなら、殺せばいいだろ」

「まあまあ、続きがあるんだ、この話」


 ツヴァイの言葉をやんわり遮ると、続ける。


「その中にね、子供がいたんだ。小さい男の子。大人ばかりの中で、唯一の子供。見た目は普通の子なのに、どうして閉じ込められているのか不思議でさ。直接聞いちゃった」


 セロはその子供とのやり取りを思い出す。その瞳には怯えも怒りも宿っていないように見えた。


「なんて言ったと思う?」

「さあ。黙れとでも言ったんじゃないですか」

「もう……その子ね、ただ『強いから』って言ったんだ。びっくりするでしょ? ただの子供がそれだけの理由で大人に閉じ込められていて。俺たちからしたら、その強さなんてたかが知れてるのに」

「…………」


 ツヴァイは何も言わなかった。だが、心なしか、その表情が曇った気がした。


「それで興味がわいて、しばらく一緒にいたんだけど……。結局他の人間に殺されちゃった」


 そう言ってセロが見つめたのは、祭壇の上に転がされた小さな骸だった。

 小さな骨。それが子供のものだというのが見て取れる。


「……殺したやつはどうなったんです? 兄さんならすぐに殺せたでしょう?」


 ツヴァイが低い声で問う。

 それはいつもよりずっと重く冷たい響きをもっていた。

 セロは少しだけ考えるような仕草を見せたが、ツヴァイに答えた。


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