百六十五 外洋無双
色とりどりの
その鮮やかな彩を穢すように、青と赤の混濁するあぶくが湧き上がり全てを塗り潰してゆく。
激しく満ち引きする潮流ですら押し流し切れぬ、一面を覆い尽くす血と無数の肉片。
それらを押しのけて出現する多数の異形を、乱舞する
わずかに晴れた海中に垣間見えたのは、右手に紅い刀を下げた黒衣の人影。
絶世の美貌に仄かな笑みを浮かべ、波間を滑るようにして次なる獲物へ向かい、無慈悲な死を振り撒いてゆくのは、魚人軍の新たな増援と連戦に入った紅であった。
被害が増える度にぎゃあぎゃあと盛んに上がる奇怪な喚声と、彼方まで漂う血臭が、続々と新手を呼び寄せる。
「ふふ。なかなかの大漁のようで何よりです」
ごぼごぼと激しく泡立つ濁った水流が入り乱れる中、大小混合の大群が蠢く気配を察し、紅は嬉しそうに微笑んだ。
魚人の上げる呼び声は、法螺貝の音のように相当な距離まで届くらしい。
放っておいても増援が湧き続けるならば、紅としては願ったりである。
「そろそろ海中にも慣れて来たでしょうか。昨日よりは身体が軽く感じます」
途切れること無く襲い来る敵を迎え撃ち、縦横に刃を振るってたちまち海の藻屑と変えて行く紅の斬撃は、確かに陸での冴えに近付いていた。
とっくに万は斬ったと思われる魚人達との戦闘を経て、身体が温まって来たことも輪をかけているのだろう。
多少の重さは残るものの、それなりに思い通りの動きができるようになり、紅は上機嫌で海中の殺戮に興じていた。
前後左右に加えて上下までの全方位を取り囲まれると言う、地上ではありえない状況にも困惑一つせず、むしろ物珍しさに浮き浮きとしている様子である。
対する魚人軍は、すでにかなりの数を討たれたにも関わらず、意外なことに今だ士気旺盛だった。
防衛のために配置されただけあって精兵なのか、紅の猛攻を前に怯まず挑みかかる気概は見事と言える。
しかし攻勢こそ執拗にして苛烈であったが、その動きに一貫性は感じられず。
早い者勝ちであるかのように、隊列も何もなく押し寄せて来るのみ。
時折、前方の兵や死骸を隠れ蓑にして死角を突こうとする狡猾な者も混ざっていたが、紅の斬撃は周囲一円の有象無象を問わずに切り刻む。半端な小細工など通用する道理もなし。
一部の海獣や魚人兵に至っては、血の匂いに酔ったのかずいぶんと興奮しており、紅そっちのけで死肉を漁ることへ夢中になっている有り様。
テティスが話していた通り完全な統制が取れておらず、最早軍の体すら成していなかった。
「これでは戦と言うより、ただの狩りですね」
紅は半ば呆れながらも、容赦なく集団を抉り取る。
怒涛の勢いと数の暴力は脅威と言えるが、それは常識の範囲内でのこと。
水圧と言う枷を加味しても、紅が後れを取る要素は皆無であった。
わらわらと群がる魚人を一薙ぎしたところへ、ふと通常の二、三倍はあろうかという巨躯を誇るシャチが徒党を組んだ姿を見せる。
その瞬間、下方に陣取った面子がぼこぼこと大量の気泡を吐き出して攪乱を始めた。
水流をかき乱す騒音と、視界を覆う白濁に呑まれた紅が動きを止めると、十数頭からなるシャチが綺麗に隊列を整え一斉に突撃を始めて牙を剥く。
その息の合った動きは人魚もかくや。魚人も見習うべきであろう。
「ふふ。海の霊長たらんとする方々より、海獣の方が連携が巧みとは。何とも皮肉なものですね」
紅は海獣による計略に感じ入って微笑むと、猛然と迫るシャチの一党をまとめて三枚におろしていた。
実際シャチの狩りの手法は動物としては高等なものであったが、彼らにとっての誤算は紅の超人的な空間把握力であった。
視覚は元より使っておらず、音が聞こえにくくなっても嗅覚は誤魔化せない。
紅は海中に漂う独特な獣臭を嗅ぎ分け、シャチ達の正確な位置を割り出し迎撃して見せたのだ。
続く波状攻撃も難無く斬滅したのも束の間、四方から大物の気配が押し寄せる。
大海蛇の長大な尻尾が振り下ろされ、大いかの触腕が多数伸び、大うつぼの巨大な顎が迫っていた。
素早く反応した紅は、大海蛇の尻尾を蹴り飛ばして大いかの触腕を巻き込み、大うつぼの口内へ共に突っ込んだ。
その後、もつれ合った大海獣達へ斬撃一閃、一刀の元に両断する。
どうやら魚人軍はようやく紅の異常性に気付いたようで、海獣主体の攻撃に切り替えたらしい。紅を遠巻きに囲み、海獣達をけしかけながらさらなる増援を呼んでいる。
緩まぬ攻め手を喜々として斬り散らしていく紅は、ふとこれまでとは桁違いの大きさの存在を察知した。
魚人達が避けた空間へ悠々と姿を見せたのは、砦ほどもある分厚い巨体。
海亀のような甲羅に包まれた胴から伸びる長い首。脚の代わりに生えた大きなひれ。長くうねる大海蛇に酷似した太い尻尾。
まさに威風堂々。
海の主と言われても納得しそうな
これがテティスが口にした海竜だろうか。
紅がしげしげと観察する間に、知性を感じさせる眼光でこちらを射抜くと、間を置かずに大きく吸い込んだ海水を激しい水流へと変換して吐き出してきた。
その暴威は魚人の水槍とは比較にならず。
戦場を丸ごと薙ぎ払うかのような広範囲の激流を、紅はとっさに手近な海獣の死骸を蹴ってかわしていた。
しかしその余波は海域全体に及んでおり、逃れた先でも大きくうねる波に紅の細い身は翻弄される。
そこへ巨体に見合わぬ速度で海竜が突っ込んで来るのを察して刀を振るうも、不安定に揺れて狙いが定まらず、硬い甲羅に斬撃が弾かれてしまった。
姿勢を崩したところをあわや剥き出しにされた牙で噛み砕かれそうになり、辛うじて顎を蹴ってやり過ごすが、大した手応えはなく。
海竜は平然とした顔ですぐに立て直して追撃に移る。
「これはこれは。なかなかに頑丈ですね」
激しく波打つ海中で不自由を強いられた紅は、場にそぐわぬ華やかな笑みを見せて、珍しく刀を両手で構えた。
そして目にも止まらぬ速さで鋭い回転斬りを放つと、海を真一文字に引き裂くような紅い軌跡が走り抜け、直後に周囲の海流をかき乱す大渦潮を巻き起こしたではないか。
それもただの渦潮ではない。
不可視の斬撃を伴った、触れるだけで刻まれる具現化した死そのものである。
至近距離で直撃を受けた海竜は言うに及ばず。
遠巻きにしていた魚人軍をもたちまち吸い寄せては散り散りに細断していく。
嵐と呼ぶのも生温い災禍に呑まれ、付近に集っていた数万に及ぶ兵が瞬時に命を刈り取られた。
その地獄を作り出したのは、本来ならば陸に生息しているはずの者。
単独にて、水中に在る水棲生物をも凌駕する、人の形をした別の何か。
後方に位置し、ぎりぎりで渦の範囲から逃れて生き残ったわずかな魚人は、その事実を突き付けられてすぐさま泡を食って逃亡を始めていた。
本来なら逃げることなど許さずすでに斬り捨てているところだが、紅はこてりと小首を傾げて思案顔を見せる。
「はて。見付けた敵は皆殺しとするつもりでしたが。このまま泳がせれば、もっと多くの獲物にありつけるでしょうか」
一帯の魚人軍を壊滅させた紅は、良案を思い付いたとばかりに笑みを広げると、自ら作り出した海流に乗って残党を追い始めた。
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