第39話 バラギットの悪夢

 ライゼル軍が撤退を始めると、バラギット軍が追跡を開始した。


 少数ながらも卓越した指揮で包囲からの脱出を図るライゼル軍を眺め、バラギットは思う。


 殿しんがりを務めるライゼル・・・・の強さは確かに見るべきところがある。


 周囲の者に悟らせることなくあれほどの剣技を磨いたのもさることながら、前線で。しかも最も危険な殿で振るうというのは、それだけ自身の腕前に自信があり、度胸がある証だろう。


 だが、そこまでだ。


 この場でライゼルの首を獲り、アニエスを生け捕りにすれば、それでこの戦……いや、戦とも呼べない小競り合いは終幕だ。


 自分は晴れてバルタザール家当主の座に就き、領地の全権を手に入れることができる。


 いくらライゼルが謀略や戦略、武略の才に恵まれたとはいえ、今さら覆せるものではない。ましてこれだけの兵力差だ。逆転など万に一つもありえない。


 ライゼル自ら殿を務めるというのも、おおかた兵をいたずらに傷つけないためなのだろうが、今さらそんなことをしたところで意味はない――


 ――と、そこまで考えて、ふと違和感を感じた。


 ……なんだ。この妙な胸騒ぎは。


 自分は間違ってはいないはずだ。


 撤退する軍に追撃を仕掛け、大将首を狙う。


 それ自体は戦の王道で、古今東西の英雄たちもやっていることだ。


 おかしなことと言えば、その大将首自ら殿を買って出ているくらいで――


「――!!!」


 そうだ。なぜ本来守られるべきライゼルが殿などやっているのだ。


 戦いに負けたのなら、本来大将を逃がすべく、名のある将が殿になるというもの。大将自ら殿になるなど、どう考えてもおかしいではないか。


 それこそ、影武者を配置して大将が殿になったと偽装しているか、兵を守るべく殿になったとしか考えられない。


 バラギットがあらためて殿となった者を凝視する。


 ……あれは間違いなく、バルタザール家の家宝だ。影武者などではない。


 となると、あれはどう考えてもライゼル本人としか思えないわけで……そうなると後者、兵を守るべく殿を務めていることになる。


 では、いったい何のために……


「うわああぁぁぁ!!」


 バラギットの軍の右翼側から悲鳴と共に土煙が上がる。


 右翼だけではない。左翼側からも同様に、悲鳴と共に咆哮が響き渡る。


 左右の軍が隊列もなく敗走を始め、本陣目掛けてなだれ込んできた。


「なんだこれは……いったい、何が……」


 状況がわからず、呆然とするバラギットの元に、左右の軍の名のある将がやってきた。


「ラシドにザイール……なぜここにいる」


「……申し訳ございません。我が軍右翼から、突如新手の軍に襲われ、軍としての体裁を保てず、敗走を……」


「左翼も奇襲を受け、甚大な被害を受けております! 残った手勢で応戦しようとするも、敗走する味方の兵に阻まれ、思うように身動きがとれず……」


「なんてことだ……」


 戦いを終え、ライゼルの首を狩るだけの消化試合だったはずが、いつの間にかこちらが狩られる側に変わっているではないか。


「……誰か戦える者はいないのか!」


「それが……現場に残った者はバラバラで統制が取れず、各個撃破されております」


「くっ……」


 両将の話を聞くに、状況は最悪と言っていい。


 こうなれば、せめてライゼルの首だけでも持って帰らなくては割に合わない。


「……ライゼルは! ライゼルの首は獲れたのだろうなぁ!」


 バラギットが叫ぶと、前衛から伝令の兵が舞い込んできた。


「申し上げます! 敗走を続けていたライゼル軍も突如反転し、新手の軍に呼応し本陣目掛けて強襲しているとのこと……」


「……………………」


 伝令の言葉が理解できず、頭が真っ白になる。


 ……なぜだ。兵の数はこちらが圧倒的に多く、事実、先ほどの戦闘ではライゼル率いる軍を相手に勝利を収めていたではないか。


 戦力でも戦況でも、こちらの勝利は確実だった。この戦い自体、単なる消化試合だったはずだ。


 それが、なぜこうも一瞬で戦況がひっくり返されるというのか。


「あっ……ああっ……」


 ありえない。こんなこと。起こるはずがない。


「悪夢だ……」


 夢なら醒めてくれ。そう願わずにいられないバラギットなのだった。

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