第2話

 どのくらい時間が経った頃だろうか?

 不意に意識を取り戻した俺は、まだぼんやりとした視界の向こうに見慣れない天井が広がっていることに困惑した。

 ここは一体何処なのだろう? 確か自分は母を失って……。

 そこまで考えたところで、ようやく自分が見知らぬ場所にいるのだという事実を思い出す。

 慌てて飛び起きようとしてみたけれど、衰弱死寸前だった幼い身体では上手く力が入らない。仕方がなく首だけを巡らせて周囲を見渡せば、すぐそばには暖炉があり、パチパチという音を立てながら炎が小さく燃えてい様が見えた。

 あったかい……。

 どうやら俺はその暖炉の前で毛布に包まれているらしい。

 おかげで冷たい雪の中で凍えきっていた身体がゆっくりと熱を取り戻そうとしているのがわかる。

 まだ、生きてる。

 そう思った途端に安堵の気持ちが込み上げてくる。

 不思議な感覚だと思った。ついさっきまであんなにも寒くて苦しくて、孤独感に潰されてしまいそうだったはずなのに、今はこうして暖かい場所にいるだけで心が落ち着くなんて。

 そこで改めて自分が寝かされている部屋の中を観察する。とはいっても、部屋の照明は落とされていて頼りになる明かりといえば暖炉の炎くらいだけれど。

 仄暗い部屋の大きさは貴族の屋敷を連想させるほどに広く、至る所に豪奢な調度品が置かれており、壁側には大きな天蓋付きのベッドも置かれている。

 眼下に広がる優美な紋様が施された絨毯もしっかりと手入れが行き届いているようで、ふかふかしていて心地が良い。思わず短い前足を伸ばして肉球が付いた手のひらでふにふにと押してみると、重厚で柔らかな手応えが返ってきた。

「…………♪」

 ふに、ふに、ふにふに。

 仔犬特有の好奇心旺盛さが顔を覗かせたせいなのか、妙に楽しくなって何度も繰り返してしまう。

 すると、そんな時だった。

 ガチャリと扉の開く音がして何者かが部屋に入ってきた。

「……きゅっ!?」

 俺は咄嵯に身を固くする。小さな身体からちょろりと伸びた尻尾をめいっぱいピンッと立てて警戒態勢を取った。

「あ、よかった……目が覚めたんだ」

 しかし、聞こえてきた声の主がまだ年若い少女だということに気付き、すぐに緊張を解く。

「……?」

 あれ?……この声、どこかで聞いたことがあるような……。

 不思議に思いながらも、俺は恐るおそる顔を上げて声が聞こえてきた方向に視線を向けた。

 そこにはやはり一人の少女がいて、俺のことを按ずるような眼差しで見下ろしていた。歳の頃は十代半ばといったところだろうか。背中の辺りまである長い黒髪と、ぱっちりとした漆黒の瞳が印象的で可愛らしい女の子だ。

 誰だろう?

 どこからどう見ても初めて見る顔なのだが、何故か彼女に対して何処かで会ったことがあるような不思議な感覚を覚える。

「くぅん……?」

 でも全く見に覚えがなくて、わけも分からずこてんと首を傾げてみせた。

「……ンンッッ!!」

 すると、彼女が突然口元を押さえて悶絶し始めた。

 え、どうしたんだ?

 いきなりのことに驚いてしまう。

 だが、彼女はハッとしたように咳払いを一つしてから再び俺の方へ歩み寄ってくると、おもむろに俺を抱き上げた。

「怖がらないで……大丈夫だから……ね?」

「きゅー……っ!?」

 突然の行動に抗議しようと短い手足をジタバタと動かしてみせるが、小さな身体から振り絞れる力などたかが知れているもので、少女の細腕の中からですら逃げ出すことは叶わない。

「きゃんきゃん! きゃんきゃん!!」

「わっ、暴れちゃダメだよ。ほら落ち着いて、ね?……よーしよし、いい子だから大人しくしようね〜」

 彼女は、何とか逃げ出そうと必死になっている俺をなだめるように、何度も優しく撫でてくる。

 まだ発育途上であろう少女の胸はお世辞にも豊かとは言い難いが、それでも仔犬の小さな身体は彼女の胸元にすっぽりと収まった。

 あったかい……。

 生まれて初めて感じる人肌の温もり。

 全身がもふもふな毛に被われていた母犬のそれとはまた違う温か味は何とも言えない心地良さがあって、自然と身体の力が抜けていく。

「きゅぅん……」

 有無も言わさずに抱き上げられて少しびっくりしてしまったけど、どうにか落ち着きを取り戻した俺は無意識のうちに甘えた鳴き声を漏らしていた。

 すると、彼女はホッと安堵の息を吐いた。かと思えば、よほどそれが嬉しかったのか、今度は俺のことをむぎゅーっと抱き締めてくる。

「ああ、もう可愛い……! 本当に可愛い……!」

 何やら興奮した様子で俺のことをぎゅーっと強く抱擁してくる彼女に、少しだけ息苦しさを感じつつも、不思議とその温もりはちょっと満更でもないなと思ってしまう。

「あ、そうだ!お腹空いてない? 今ミルクを持ってくるね!」

 そう言うなり、彼女は俺をソファーの上へと降ろすと、忙しなく部屋を出ていく。

 そういえば、俺は一体どれくらい眠っていたのだろう?

 そんなことを考えつつ、ぼんやりと窓の外へと視線を向ける。相変わらず外は一面の銀世界だが、さっきまで際限なく降り続けていた雪は、だいぶ穏やかな振り方に変化していた。俺はずいぶんと長い時間を眠っていたのかもしれない。

 程なくして戻ってきた少女の手には、白い陶器製の皿があった。皿の中にはほんのりと湯気が立ち上るミルクが入っている。

「はい、どうぞ。熱いからゆっくり飲んでね」

「……きゅん」

「うん、良い子だね」

 彼女に見守られながら恐る恐るといった様子で舌を出してミルクを飲むと、口の中に優しい甘みが広がる。俺はかなりお腹が空いていたみたいで、一口飲んだら止まらなくなってしまった。

「美味しい?」

「きゅんっ♪」

「……ふふ、よかった」

 問いかけに対して短い尻尾をフリフリと揺らせば、嬉しそうに微笑んで頭を撫でてくれる。その感触がとても心地良くて、もっとして欲しいと思ってしまう。

「……それにしても、まさかこっちの世界で豆柴の仔犬に出会えるなんて思わなかったなぁ」

「……?」

 ……こっちの世界?

 今、彼女はと言っただろうか?

 ならば、この少女はこの世界とは異なる世界から来たことになる。そんな人間など、一人しかいない。

 そう、異世界から召喚された勇者だ。

「あ、ごめん。いきなりこんなことを言われても分からないよね。私の名前はシオンっていうの。……一応、この世界では『勇者』って呼ばれてるんだけど」


 シオン。

 勇者──シオン。


 ああ、……そうか。

 何故、忘れていたんだ。俺は──。

 その名を心の中で呟けば、脳裏にぼんやりとした記憶が蘇ってくる。

 そして、確信した。

 先程見た夢は、ただの夢なんかじゃない。あれは、俺の前世の記憶なのだ。

 そう、俺はかつて『魔王』と呼ばれ、人間達から怖れられる存在だった。名はアシュテル──魔王アシュテルだ。

 そして、今俺の目の前にいるこの少女こそ、魔王と呼ばれていた俺を神の加護の力をもって討ち滅した勇者シオンなのだ。

「…………んぅ?」

 そうか、勇者は女だったんだな。

 前に相まみえた時は全身をゴツい鎧を身に纏っていたからてっきり男だとばかり思っていたのだが。どうやらそれは俺の勝手な思い込みだったようだ。

 ……ん?まてよ?

 ということは、俺はこんな年端もいかない少女に打ち倒されてしまったのか?

 いくら彼女が神の加護が宿した勇者だとはいえ、数多の魔物達を従える魔王である俺が?……何だかちょっとショックだ。

 とはいえ、勇者シオンによって倒されたはずの俺は、どういう訳か小さな仔犬としてまた新たな生を受けている。しかも、天敵であったはずの勇者に拾われるとは、何とも奇妙な巡り合わせである。

 幸いにも、というべきか、皮肉にも、というべきか彼女は俺が魔王アシュテルだったとは気づいていないようだ。

「ところで、君の名前なんだけど……『マメ』って呼んでもいい?」

「きゃん……?」

 どうして『マメ』なんだろう?

 疑問に思って首を傾げれば、シオンはクスリとはにかんでみせた。

「実は、私が向こうの世界で飼っていた豆柴の名前『マメ』なの。だから……」

 豆柴、とはシオンがいた世界に存在する生き物のことで、どうやら仔犬となった今の俺の姿とよく似ているらしい。

 豆柴だから『マメ』、というのは何とも安直なネーミングセンスだな。

 そうでなくとも、かつての宿敵の飼い犬と同じ名前を付けられるというのは何だか奇妙な気分になる。

「ぅわう……くぅ〜……」

 とはいえ、人間の言葉を話せない仔犬では自分が魔王アシュテルだと名乗れないし、名乗れたところで気まずいことになるだけだし。なので、せめてもの抵抗として不満そうな声を上げておく。

「あはは、そんなに嫌そうな顔をしないでよ。可愛い顔が台無しだよ?」

「くぅん……」

「大丈夫だって。すぐに慣れるよ」

 そういう問題でもないのだが。まあ、いいか。

「それじゃあ、これからよろしくね、マメ」

「……きゅうん」

 シオンは再び俺の小さな頭を撫でて、優しく抱きしめて頬擦りをする。

 そんな彼女の腕の中はやっぱりとても暖かくて、俺は思わず目を細めたのだった。

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