第三話 インパール作戦
「無謀です。こんな作戦は必ず失敗しますよ!」
齋藤博圀少尉は、『インパール作戦』のことを知らされて、思わず、先生で、上官の小畑信良参謀長に食ってかかった。基地宿舎の裏庭である。夕方だ。
この作戦は補給や兵站を無視して、数百キロ離れたインドのインパールまでジャングルや大河やスコールの大雨の中、行軍して、のちに英国軍の基地があるインパールまで三週間で行軍してそこを攻め滅ぼす、という―――――――素人目にも無謀極まりない作戦であった。
「それはそうだが………これは我々参謀各位の考えた作戦ではなく、大本営からの〝御注進〟でな。大本営からの命令は、天子様、天皇陛下からの御命令なのだよ」
小畑信良参謀は困った顔を見せた。
「なら、兵隊たちに「死ね」とおっしゃるのですか?」
「………」
無謀の極みの『インパール作戦』は、一九四四(昭和十九)年三月に開始された。
ここのところの負け戦続きで、少しでも戦局が有利になれば、みたいな作戦であり、食料の補給も飲み水の補給もない。兵站というものを一切無視した愚かな作戦であった。
齋藤博圀少尉たちも、ジャングルをかき分け、飢餓や赤痢などの病気とも戦いながら、敵英国軍とも戦い、バタバタと斃れていった。
「……いかん。……もう駄目だ……もう歩けない。腹が…減った。…なんか食べ物を……」
「腹が痛い。……喉が渇いて乾いて……水たまりの水を飲んじまった……ぐああ」
「……俺が死んだら……俺の肉を喰え……おかあちゃん。陛下!」
日本兵たちが飢えと病気と疲労困憊で、次々に倒れて死体の山になり、それが白骨化して、その道程は〝白骨街道〟と呼ばれた。
「撃てー! かかれ!」
銃弾が飛び交う中、齋藤博圀たちは発砲しながら銃剣で突撃していく。
山田隊とは別行動になったが、ジャングル地帯をかき分けながらの戦争になった。
とても、戦闘や兵士の命どころではない。英軍は補給も十分だし、兵器も最新で、日本軍は蠅のように退治され続ける。
「くそう! くそったれ! 撤退―っ! 撤退!」
齋藤博圀たちは散りじりに、ジャングルに逃げ込んだ。
そこにも飢餓や病気で斃れた日本兵の死体が累々と沢山ある。
「くそう! イギリス軍め! やるな!」
大城(かいの)右衛門二等兵は裏切り行為で英軍に白旗を振るが、殺された。
「天皇陛下ばんざーい! 天皇陛下万歳! 万歳!」
天皇教のおっさん兵士は半狂乱みたいになっている。
「だまれ! やられっぞ! 糞、山田、お前は今どうしてる?!」
齋藤博圀は銃撃戦の最中思った。
兵士たちは怪我した同輩兵士たちに自決用の手りゅう弾を配る。
怪我した砂川中尉は行方知れず。砂川中尉もやられたか。
その頃、ジャングル岳では山田直夫上等兵と上杉中尉と少年兵士たちが英軍と戦っているところだった。少年ゲリラ部隊である。
「渡! 偵察に行け!」
「はい!」
しかし、陣営にロケット弾が飛来。「伏せろ、馬鹿!」
着弾!「ぐああっ!」少年兵をかばって上杉中尉は大怪我をおった。
「上杉中尉殿! …上杉中尉殿!」
「……くぐ。山田くん…介錯してくれ! 俺の怪我ではもう手遅れだ…頼む!」
上杉中尉はピストルを山田上等兵に、遺書を少年兵に渡し、割腹自決した。
「……おかあちゃん…天皇陛下…万歳!」バーン! 銃声!
みごとな最期であった。
この無謀で馬鹿げた作戦で、九万人のうち三万人の日本人兵士が犠牲になったという。
だが、齋藤博圀少尉(当時)と山田直夫上等兵(当時)は生き残って、生還して、戦後を日本で迎えることになる。
後藤勝之進参謀やウムボルトは戦死したのだという。何故、このようなくだらない作戦が実行されたのか?
次に、そのプロセスを掲載する。
インパール作戦。それは極めて曖昧な意志決定によって進められた作戦であった。
ことの始まりは1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに侵攻し全土を制圧。イギリス軍はインドに敗走した。当時のニュースでは〝皇軍ついにラングーンを完全に占領す〝
大本営はインド侵攻を検討するが、すぐに保留。しかし、戦況の悪化が計画をふたたび浮上させる(1943年)………アメリカ軍に連戦連敗。アッツやガダルカナルでも敗れる。
戦況は日々悪化。その頃、アジアでも体制をたてなおしたイギリス軍がビルマ奪還へ反撃に出ていた。1943年3月、大本営はビルマ死守のため「ビルマ方面軍」を新設。河辺正三(まさかず)が司令官へ。着任前、河辺中将は首相の東條英機と会っていた。陸軍学校の同期の仲であった。
東條英機は「ここのところ戦局が日本帝国の不振で連戦連敗である。これでは天皇陛下に申し訳が立たない……どんな無茶でもいいからビルマで大勝利を頼むぞ、河辺くん!」
「東條さん。まかせておけ、皇軍を率いての戦争だ。きっと勝つ!日本は尚武の国だ。」
「もし、危なくなっても最期には神風が吹く」
「そうさな。特攻作戦でやればいい。数万人くらい死んでもまだ日本人には本土決戦がある」
「……頼むぞ、河辺くん。」
「おう! まかせておけ、一発逆転だ!」
ビルマ方面軍・片倉衷 高級参謀「今、ガ島(ガダルカナル島)その他、みんな落ち目になっているから、せめてビルマで一勝をあげてくれというようなことをいわれたんですよ。それでそのことが頭にきていて、インパール作戦をできたらやりたい、と。(テープ肉声)」
同じ年、第15軍の司令官に牟田口廉也中将が着任。インパール作戦の実行を強力に主張するのである。ビルマ方面軍・後 勝 参謀「これ(インド侵攻)は大本営の希望だったし、牟田口さんはそれを手にしたわけですね。何としてでも大本営のご希望に添うようにやってみたいと。それはもう牟田口さんは何としてもやりたい、と。」
軍の上層部が作戦に前のめりになる中で、第15軍の反対意見はことごとくしりぞけられていった。牟田口司令官の直属の部下、第15軍・小畑信良参謀長は強行に作戦に反対した。小畑参謀長の娘の齋藤道子さん「「やらなくていい作戦だった」という父親の言葉を覚えている。父は本当に一生懸命だったんですね。」小畑さんは陸軍でも数少ない兵站(へいたん)の専門家だった。
牟田口司令官は「どうしてもインパール作戦の実行をしたい。」という。
河辺参謀も「俺も東條さんとも約束したし………今は陸軍の大勝利がなんとしても欲しい」
「インパール作戦の実行は無謀です。わたしは陸軍の兵站のプロです。その兵站からいってインパール作戦の実行は無謀で万が一にも勝ち目はありません。無謀な作戦で、断固反対したい!」
すると牟田口司令官が激昂した。「何だと?! この卑怯者め! これは大本営の希望なんだぞ!」小畑参謀長に鉄拳を加える。「それでも日本人か?! 卑怯者め! やらないうちから勝ち目がないとはなにごとかー!」
「しかし……この攻略路をわずか数週間の兵站だけで突破して攻略することなど……無謀!」
「小畑―っ! 貴様―っ!」鉄拳制裁である。
小畑参謀は左遷させられ、ビルマを去った。インパール作戦では、上層部の意見が、大多数の反対派の意見を蹴散らすような形で、実行された。
1944年2月、作戦開始の二ヶ月前、ひとりの若者が配属されてきた。
第15司令部・齋藤博圀少尉………インパール作戦の生き証人で、現在(2017年度)老人ホームで車椅子で生活してインパール作戦の無謀さを語る本当の〝生き証人〝である。
齋藤少尉もインパール作戦に反対した。
「無謀です! このような作戦はきいたことがない! 兵站を無視して強行進軍などあまりに……無謀! 自殺と同じです!」
すると牟田口司令官は「バカヤロー! 卑怯者め! 大和魂はあるのか!」と怒号をはっしたという。大河と広大な山峰を越えて……わずか三週間でインパールを攻略する……
まさに「絵に描いた餅」………。そしてその無謀な作戦での戦死者は約3万人……
話を戻す。
参加兵力
日本軍
5月上旬時点での参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計49600人、その他軍直轄部隊など36000人の総兵力約85000人であった。7月までの総兵力は、約90000人と見られる。
()内は通称号。
第15軍(林) - 司令官:牟田口廉也、参謀長:久野村桃代 第15師団(祭) - 師団長:山内正文 - 5月時点での兵力16000人
第31師団(烈) - 師団長:佐藤幸徳 - 5月時点での兵力16600人
第33師団(弓) - 師団長:柳田元三 - 5月時点での兵力17000人
第15軍馬匹 軍馬12000頭(専ら物資運搬に使役)
ビルマ牛30000頭(物資運搬及び食用)
象1030頭(専ら物資運搬に使役)
羊、山羊等を食用に交付 - 第15師団だけで約10000頭
第5飛行師団(一部部隊が作戦支援)
インド国民軍
6000人
イギリス軍
第14軍(英語版) - 司令官:W.スリム中将 第4軍団(英語版)(インパール方面) - 軍団長:G.スクーンズ(英語版)中将 第17インド軽師団(英語版) - 師団長:D.コーワン(英語版)少将
第20インド歩兵師団(英語版) - 師団長:D.グレーシー(英語版)少将
第23インド歩兵師団(英語版) - 師団長:O.ロバーツ(英語版)少将
第254インド機甲旅団(英語版) - 旅団長:R.スコーンズ准将
以下増援部隊
第5インド歩兵師団(英語版) - 師団長:H.ブリックス(英語版)少将
第7インド歩兵師団(英語版) - 師団長:
第50インド空挺旅団(英語版) - 旅団長:M.ホープトンプソン准将
第89インド歩兵旅団(英語版) - 旅団長:W.クローサー(WA Crowther)准将
第33軍団(英語版)(コヒマ方面) - 軍団長:M.ストップフォード(英語版)中将 第2師団(英語版) - 師団長:
他
戦闘経過
日本軍の攻勢
インパール作戦時のビルマの戦況と第15軍の作戦構想
物資の不足から補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は1個師団(第31師団)を要衝ディマプルとインパールの結節点であるコヒマに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみ(但しこれは連合軍側の重点防御地域でなく最初から放棄地帯とされ防御を固めたインパールへ日本軍をしむける罠)で、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開として考案した、牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。所々にある狭く急な坂では重砲などは分解し人力で運ぶ必要があり兵士らは消耗していった。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。
物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と電文を返していたとされる。また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を戦車、火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退した。これに加え、イギリス軍は迫撃砲、機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。
日本軍の攻勢に対して連合軍は、このころまでに確保しつつあったビルマでの制空権を存分に活用して対応した。連合軍航空部隊はイギリス軍第4軍団に近接支援を行う一方、日本軍の集結地点のほか、チンドウィン川に至る交通路を攻撃したが、雨季の到来もこうした作戦行動に影響を及ぼさなかった。また、連合軍は米英両軍のC-47を中心とする輸送機を動員して大量の人員や物資をインパールまで空輸したため、陸路で遮断されていたにもかかわらず補給線はかろうじて確保されていた。戦闘開始当初は、ビルマ戦線にあった連合軍輸送機の多くは援蒋ルートの中でもヒマラヤ山脈を越えて援助物資を輸送する「ハンプ越え(英語版)」に使用されており、しかもウィンゲート空挺団やアラカン方面の第15軍団の支援にも駆り出され、輸送機が不足した。苦心の末に3月中旬からハンプ越え用輸送機のうち20機を抽出してインパールへの空輸に振り向けたが、なおも不足した。パレル飛行場が酷使による滑走路破損や日本軍のコマンド攻撃で使用不能になったため、インパールの仮設滑走路が頼みの綱であった。第4軍団は食糧を定量の2/3に減らし、インパールに残っていた非戦闘員43000人を空路で脱出させるなどしてしのいだ。その後、イギリス空軍の輸送司令部の改編が効果を上げたことで、第4軍団への補給不足は解消された。
戦線の膠着
RAFのホーカー ハリケーンによる日本軍への攻撃
第15師団は4月7日にインパールの北15kmのカングラトンビまで到達し、第33師団は5月20日にインパールの南15kmのレッドヒルまで到達したが、連合軍の激しい反撃を受けこれ以上の進撃はできなかった。雨季が始まり、補給線が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。しかし、牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわり、
1.天長節マデニインパールヲ攻略セントス。
2.宮崎繁三郎少将ノ指揮スル山砲大隊ト歩兵3個大隊ヲインパール正面ニ転進セシム。
3.兵力ノ移動ハ捕獲シタ自動車ニヨルベシ。
と、作戦続行を前線部隊に命令した。しかし、この頃では、各師団は多数の戦病者を後送出来ないまま本部に抱えており、肥大化する戦病者と、欠乏した補給に次第に身動きが取れなくなっていた。中には武器弾薬が尽きて石礫を投げて交戦する部隊まで出始めた。
さらにこのような戦況をよそに、司令部が400キロも遠方のメイミョウに留まっていることに対する風当たりが次第に強くなったため、牟田口は4月20日インダンジーまで15軍司令部を進出させた。
第31師団は「山を越えてやってくるのは一個連隊が限度」と見ていたイギリス軍を一個師団丸ごとで急襲することに成功し(但し、31師団は戦力を抽出していたため二個連隊の戦力)、4月5日インパールの北の要衝コヒマを占領していた。コヒマはディマプルとインパールを結ぶ街道の屈曲点に当たる要衝で、コヒマの占領は通常ならばインパールの孤立の成功を意味するはずだが、連合軍はコヒマ南西の高地に後退し、大激戦となった「テニスコートの戦い(英語版)」(日本側呼称:コヒマ三叉路高地の戦い)において連合軍の駆逐に失敗したため、インパールへの補給路は遮断しきれず、豊富な航空輸送能力による補給も可能だったため、効果は薄かった。
実はこの時点で、最重要援蒋ルートの1つレド公路への要衝ディマプルまで、遮る連合軍部隊が存在しない状態であったために、日本軍が前進を継続していたらディマプルは陥落していた可能性が高いと、戦後のイギリス軍の調査で結論付けたものも存在する。ディマプルはベンガル・アッサム鉄道とコヒマ・インパールを結ぶ道路の結節点であり、そうしたところは通常、補給物資の集積所になる。もしここを陥落させた場合、英軍は敗走を余儀なくされ、対して日本軍はしばらくの間、補給の問題を解決でき、この作戦に勝利することができたと英第14軍司令官のスリム中将らは指摘する。戦後、この調査報告を知った牟田口中将は、反省を一転し、作戦失敗は佐藤の独断撤退によるという主張をするようになった。他方、日本軍の補給線は伸びきっていて、前線の部隊には一粒の米、一発の弾薬も届かないような状況であった。つまり、明らかに攻撃の限界点を超えており、日本軍はディマプル攻略どころかコヒマ維持も不可能な状態であり、たとえ強引にディマプルを攻略したとしても、そこで得られる物資が万一少なかったり、英軍の撤退がなく、戦いが長引いた場合には、敗走の運命は変わらなかったろうとする者もいる。また、記録によれば、牟田口中将もディマプル攻略を強く要請したわけではなく、作戦開始前に佐藤中将に一度示唆し、作戦中に上官の河辺中将に一度、要請しただけであった。河辺中将に作戦範囲でないとして断られると、なおも要請はしていないので、命令にはディマプル攻略は含まれていなかった。よって、第31師団がディマプル攻略をしなかったとしても、その責任が佐藤中将の抗命にあったとは言えず、その命令を明示的に下さなかった牟田口にもあると言える。
日本陸軍内の抗命事件
現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。
1.余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
2.余は第十五軍を救わんとする。
3.軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。
さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
日本陸軍の作戦中止及び退却
パレル近郊の伊藤山。決死の斬り込みで奪取した陣地も、連合軍の火砲と爆撃機により瞬く間に焼き尽くされ、奪い返された。
この時期、中国軍のインド遠征軍にアメリカ軍の小部隊を加えた空挺部隊及び地上部隊がビルマ北部の日本軍の拠点であるミイトキーナ(現在のミッチーナー)郊外の飛行場を急襲し占領しており、守備隊の歩兵第114連隊や援軍として投入された第56師団と激戦を繰り広げていた他、ビルマ東部では中国軍雲南遠征軍が怒江を渡河して日本軍の守備隊のいる拉孟や騰越を包囲していた。このためインパール方面の戦線は突出していた。
6月5日、牟田口をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止を逡巡している間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。
7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。杖を突き、飯盒ひとつで歩く兵士たちは、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」という、撤退の視察に乗馬姿で現れた牟田口の怒号にも虚ろな目を向けるだけで、ただ黙々と歩き続けた。だれも自分を省みないことを悟った牟田口は、泥まみれで悪臭を放つ兵たちを避けながら帰っていった。
7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「'白骨街道」と呼ばれた。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病に罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した他、日本軍によって動けなくなった兵士を安楽死させる〝後尾収容班〝が編成された。また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者に乾パンと手榴弾や小銃弾を渡し自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている。
悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、佐藤の命令で配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め多くの将兵の命を救った。
牟田口ら第15軍司令部は、指揮下の部隊の撤退に先行する形でチンドウィン川を渡って、シュエジンへと移動した。さらに牟田口は、7月28日ころに副官のみを伴って司令部を離れ、さらに後方のシュエボへと向かった。牟田口によれば、シュエボへの先行は同地にいた方面軍兵站監の高田清秀少将との撤退中の食糧補給に関する打ち合わせのためであった。しかし、部下よりも先に後退するこの行為は将兵の強い不満を招き、河辺方面軍司令官も牟田口らを非難した。牟田口は、その後、8月4日頃にシュエボ北西で軍主力の退路に予定されたピンレブ付近を視察、シュエジンに戻る途中でシュエボまで後退中の第15軍司令部に出会い合流した。
一方、イギリス軍は、第33軍団を投入して追撃戦を行った。雨期に入っていたため、イギリス軍もマラリアなどの戦病者が多発する結果となった。イギリス側は、追撃を強行したからこそ日本軍の再建を有効に阻止することができたと自己評価している。
8月30日に牟田口軍司令官と河辺方面軍司令官はそろって解任され、東京へ呼び戻された。
日本軍の苦戦の様相
優位に立つ連合軍は日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺塹壕にずっと潜り込んでいるしかなく、反撃などは夢の又夢であった。そのような状況下で雨季が到来すると、塹壕は水浸しになった、塹壕構築のための資材など満足に支給されるはずも無く、ありあわせの道具や素手で各自が掘った塹壕では排水溝の設備など望むべくもなかったからである。砲撃のため水浸しの塹壕から抜け出ることができず、ずっと水に浸かっていたために皮膚が膨れ、損壊する塹壕足となる兵士が続出、感染症が広まる原因となった。このため前線では日英双方にマラリアや赤痢などが蔓延し、祭師団長の山内正文中将は重病により担架の上で指揮を執らなければならなくなった。幕僚が病身の師団長のためにパンを焼かせたり、洋式便座を担いだ侍従兵を連れさせたりしたがこの様子を見た将兵の士気は下がった。6月10日に山内中将は病気の悪化を理由に柴田夘一中将と師団長職を交代するも二ヶ月後に収容先のメイミョウで客死した。
日本軍の伝統として補給が軽視されており河舟、車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった。偶さかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により餓死寸前の前線に食糧が届けられることは乏しく、糧食は集積所に放置され腐るに任されたとされる。そのため前線の兵士は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という、もはや戦闘どころではない状態に置かれた。ある部隊では、野砲はあっても砲弾の割り当ては一日にたった2発だったという。また第15師団の生存者が証言するところによれば、弾薬が尽きた部隊は投石で抵抗するしかなくなっていた。作戦梃子入れのため、弓師団に着任した田中信男少将は早速配下部隊を視察した、しかし、ある中隊長の軍刀を抜くと真っ赤に錆びていた。彼は中隊長を叱責し、その場にいた全将校の軍刀の検査を行ったところ、ほぼ全員の軍刀が錆びている事が判明した。激怒した彼は、部隊長に今すぐ部下に軍刀の錆びを落とさせるよう命じた。しかし、誰一人として軍刀を磨き錆を落とす将校はいなかったと言う。連日の豪雨と泥に浸かり続ける戦場で軍刀を維持する方法は無いと分かりきっていたからである。
食料は現地民から軍票との交換により入手しようとしたが、現地は小さな村が僅かにあるだけで部隊をまかなえるだけの食料を入手するのは不可能だった。飢餓に苦しんだ日本兵は、力尽きた味方の死体を食べるなどして飢えを凌いだ。作家の火野葦平はインパール作戦に従軍取材をしたが当時のメモに「前線にダイナマイトを100k送ったら50kしかないと報告がきた。兵隊が食うのである」と書き記した。
撤退中はさらに悲惨な状況となり、第31師団の兵士は補給地点が村にあると信じて急な山道を選択したが、ここでインドヒョウに捕食されたり、弱った状態で倒れた者がハゲタカに襲われるなど動物による被害を受けた。また村にたどり着いても補給はなく徒労に終わった。撤退中の兵士達は既に武器を捨てていたが、食糧が手に這った場合に備え飯盒だけは手放さなかったという。
航空戦
補給・偵察・攻撃と航空機を活用したイギリス軍に対して、日本軍の航空支援は皆無だった。「制空権がなく航空作戦は無理」という陸軍第5飛行師団に対して、牟田口が「それならばチンドウィン渡河まででよい」と、むしろ支援を断る結果になったためである。
しかし、作戦中補給を求めても、空返事しか返さない牟田口に業を煮やした各師団は、指揮命令系統を超えて第5飛行師団に窮状を訴えた。第5飛行師団もそれに応じて、敵制空権下を突破して手持ちの食料医薬品を投下したが、襲撃機の武装を外しても輸送できる物資はわずかであり、全くの焼け石に水だったという。
両軍の馬匹運用
本作戦に第15師団に陸軍獣医(尉官)として従軍した田部幸雄は、英印軍の軍馬の使用について次のように分析している。日本軍は平地、山地を問わず軍馬に依存した。作戦期間中の日本軍馬の平均生存日数は下記。日本軍の軍馬で生きて再度チドウィン川を渡り攻勢発起点まで後退出来たものは数頭に過ぎなかったと言う。
騾馬:73日
中国馬:68日
日本馬:55日
ビルマポニー:43日
現地民から軍票と交換で入手した牛も山道を移動中、崖崩れで失われていった。
これに対して英印軍の場合、途中の目的地までは自動車で戦略物資を運搬し、軍馬は裸馬で連行した。自動車の運用が困難な山岳地帯に入って初めて駄載に切り替えて使用していたという。また使用していた軍馬も体格の大きなインド系の騾馬だった。これらの騾馬は現地の気候風土に適応していた。なお、田部は中支に派遣されていた頃、騾馬は山砲駄馬としての価値を上司に報告した経験があったと言う。
話を少し戻す。
当時のアメリカ大統領はフランクリン・ローズベルトだった。
この老獪な政治家は、一方で策士でもあった。
(副大統領はのちの大統領、ハリー・S・トルーマン)
当時のアメリカは日本に対しては表向き中立を保っていたという。日本は、イタリアやドイツと反共同盟を結んでいた。
そのナチス・ドイツがヨーロッパ中を火の海にし、イギリス、フランス、ソ連は出血多量で虫の息だった。
ローズベルトは「なんとかアメリカ軍をヨーロッパ戦線に投入し、ナチス・ドイツをストップせねばならない」と信じていた。
しかし、第一次世界大戦の後遺症で、アメリカ国民は極端に厭戦ムードであったという。
「この厭戦ムードをなんとかせねば…」
ローズベルトはホワイトハウスで、書類に目を通しながらいった。
「…このままではナチスにしてやられる」
部下は「一発はらせるのはどうでしょうか?」ときく。
「……一発?」
「そうです。OSS(当時の情報機関、CIAの前身)からの情報があります」
「情報? どんな?」
「日本に関することです」
「この厭戦ムードを断ち切って、国民世論を参戦にもっていくにはよほど衝撃的なことがおこらなければならないのだぞ」
ローズベルトは目を上げ、強くいった。
……強くインパクトのあるものが必要だ。
「ナチス・ドイツ第三帝国がヨーロッパを牛耳れば必ずアメリカ本土もターゲットになる。そうなればアメリカは勝っても相当の苦戦を強いられるぞ」
ローズベルトは情勢にも明るかった。
当時ドイツの科学者は世界一優秀といわれていた。だから、ローズベルトの心配もまんざら根拠のないものでもなかった。
潜水艦ひとつとってもドイツのUボートに匹敵するようなものはなかった。
「ドイツの科学者は世界一優秀といわれている。十分な時間を与えてしまえばドイツはその頭脳を駆使してとんでもない兵器を作りあげてしまう可能性は高い」
ローズベルトは危機感をもっていた。
「そうなるまえに手をうたねばならぬのだ」
「まったくです」
ローズベルトはいった。「まず黄色いジャップ(日本人の蔑称)をなんとか刺激して、アメリカ国民を激怒させるような行動をおこさせるのがてっとり早い。
ABCDラインで日本を資源市場からシャットアウトすれば、ジャップは必ずその挑発にのってくるだろう」
「……それなのですが…」
「まず相手に一発張らせて戦闘が当然だと米国人たちにわからせるのだ」
「それにはジャップは乗りました」
部下はにやりとした。
「とうとう」ローズベルトは勝利の笑みを浮かべた。
「とうとうジャップは動いたか?」
「はい」
部下は礼をして「ハワイ沿岸に日本の空母が接近中です。このままジャップはハワイの真珠湾を奇襲するというOSSからの情報です」
「そうか…」
ローズベルトはにやりとした。
「いいか?! 箝口令を敷け! ハワイの太平洋艦隊指令部にはいっさい知らせるな! ジャップの攻撃を成功させるのだ」
「…しかし…」
「もし知らせれば、わが軍が応戦して、ジャップの卑劣な行為を国民に知らせられない」「大勢が犠牲になります!」
部下は反発した。
それにたいしてローズベルトは、
「国益を考えたまえ」といった。
「戦争をはじめるのにはインパクトだよ、インパクト!」
かくして、日本の戦略のなさを露呈する奇襲(相手のトップは知っていた)が開始される。一九四一年十二月八日、日本の機動部隊はハワイのパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。百対一以下のギャンブルに手をつっこんだ。
「よし!」
真珠湾に日本の戦闘機・ゼロ戦が多数飛来して、次々と爆弾を落とす。
米国太平洋艦隊は次々と撃沈、また民間人への射撃により負傷者が続出した。
その中には、パイロットとしてハワイにいたマイケルの姿もあった。
「くそっ! ジャップめ!」
マイケルは右脚を負傷して倒れ、道路に倒れ込んだ。
スイス人医師、マルセル・ジュノーは、その頃、赤十字の派遣医師としてエチオピアに、さらにスペインへと転々としていた。
内戦の中、野戦病院で必死に介護治療にあたっていた。
「なに?! ハワイに日本軍が奇襲?! 馬鹿なことを…」
ジュノーは激しく感情を剥きだしにして怒った。
いつも冷静な彼には似合わない顔だった。
彼は長身で、堀の深い顔立ちである。ハンサムといえばそうだ。しかも痩せていて、腕も脚もすらりとしている。髪の毛もふさふさで、禿げではない。そんなハンサムな彼が苛立ったのだ。感情を出した。
「とにかく、大変なことだよ」
マルセル・ジュノー博士は若さからか、感情を剥きだしにした。
……日本がアメリカ合衆国と戦って勝てる訳がない。
ジュノーは医師ではあったが、立場上、国際情勢にも詳しかった。
「また無用な血が流れる」
ジュノーは涙声でいった。「日本がアメリカ合衆国と戦って勝てる訳がない」
「きっと日本は悲惨なことになる…ナチス・ドイツよりも…」
「よし! でかした!」
パールハーバー(真珠湾)攻撃を喜んだのは日本人ではなく、ローズベルトだった。これは説得力がある。当時のアメリカは日本との外向的話し合いを極力さけていた。
せっぱつまった近衛内閣がトップ会談をほのめかしてもローズベルトは冷ややかだったという。
ヒステリーが爆発した日本は軍部のさそいにのって真珠湾攻撃となってしまった。
当時の日本人の考えは極めて単純だった。
まず、諸戦でパールハーバーにある米国艦隊に壊滅的大打撃を与える。
これによって軟弱なアメリカ人たちはパニックになる。
日本では国民に総動員をかけられるが、自由の国アメリカではそれができず個人が言いたいほうだいのままバラバラになる。
士気は日本のほうが優れている。
アメリカ本土からの機動部隊を太平洋で迎撃するが、それも長くはつづかない。
そのうち、アメリカ人たちは戦争に嫌気がさして、講和に持ち込んでくる。
日本人が有利な形で講和を結べる………
このごく幼稚な希望的観測で戦争をはじめてしまったのだから恐ろしい限りだ。
まさに〝井の中の蛙、大海を知らず〝。
もちろん山本五十六のように米国に滞在し、アメリカの力を知っていた軍人もいた。しかしその声は、前述したように狭い世界しか知らぬ蛙たちにかき消されてしまう。
当時の商工大臣だった岸信介はこういったという。
「普通一プラス一は二だが、それを精神力によって三にも四にもできる」
大和魂のことをいっているのだろうが、アメリカ人にだって魂がある。
「ジャップめ!」
「ナチスとふっついた黄色いのを撲滅しろ!」
日本人の希望的観測はものの見事にくつがえされた。
軟弱だったヤンキーたちは真珠湾奇襲に激怒し、次々と軍隊に入隊、女性たちも銃後の仕事についていった。軍事工場はフル稼働、兵士という雇用で失業もなくなった。
アメリカは敵・日本だけでなく、ナチスとも戦うことを決意した。
結局、日本はヒステリーを爆発させて真珠湾奇襲をし、アメリカ人の厭戦ムードを一掃させ、巨大な〝軍産複合体〝を始動させてしまった。「この日は屈辱の日である」ローズベルトは演説でいう。軍産複合体が動き出す。
しかも、ローズベルトが大統領就任以来かかえていた失業をはじめとする問題も解決してくれた。
ローズベルトは笑いがとまらなかった。
何億ドルという広告費をだしてもできないことを日本が勝手にやってくれたからだ。
「よし! まず日本よりもドイツだ!」
ローズベルトは初めから日本ではなくドイツを一番の敵と考えていた。その証拠に戦争時投入された八百万人の陸軍機動部隊の七十五パーセント以上はヨーロッパの対ドイツ戦にそそがれたという。
真珠湾攻撃からさかのぼること三十五年前、アメリカは『ウォー・プラン・オレンジ』という戦略を練っていたという。オレンジとは日本、ちなみに米国はブルー…
いつの日か日本との戦争が避けられないとして三十五年も前から戦略を練っていた米国、それに比べて日本は希望的観測で戦争に突入した。太平洋戦争ははじめる前から日本の負けだったのだ。
真珠湾攻撃からさかのぼること三十五年前、といえばセオドア・ローズベルト(のちのフランクリン・ローズベルトのいとこ)が米国大統領だった頃だ。
その当時、大統領は親日家で、ロシアとの交渉であたふたしていた日本に優位な姿勢をみせたという。ポーツマス講和では、日本は金も領土も得られないような情勢だった。が、アメリカの働きかけで、ロシアは樺太の南半分を日本に譲渡する……という交渉をまとめてノーヴェル平和賞にかがやいている。
その頃から、対日戦略を考えていたというのだ。
こんな状況下のもと、例のパールハーバー攻撃は起こった。
こうして日本帝国は破滅へ向かって突き進んで、いく。
3 エリザベスとローズベルトの死
「大変です! 副大統領閣下!」
合衆国ニューハンプシャー州に遊説のために訪れていたトルーマン副大統領に、訃報がまいこんだ。それはあまり歓迎できるものではなかった。
「なに?!」
トルーマンは驚きのあまり、口をあんぐりと開けてしまった。
……フランクリン・ローズベルト大統領が病いに倒れたというのだ。
ホワイトハウスで病の床にあるという。
「なんということだ!」
ハリー・S・トルーマンは愕然とし、しきりに何かいおうとした。
しかし、緊張のあまり手足がこわばり、思う通りにならない。
「とにかく閣下……ホワイトハウスへ戻ってください!」
「……うむ」
トルーマンは唸った。
トルーマンの出身地はミズリー州インデペンデント。人口は一万人に過ぎない。1945年わずか三ケ月前に副大統領になったばかりである。
ホワイトハウスでは、ローズベルトが虫の息だった。
「大統領閣下! トルーマンです!」
声をかけると、ベットに横たわるローズベルトははあはあ息を吐きながら、
「ハリー…か…」と囁くようにいった。
「閣下!」
トルーマンは涙声である。
「…ハリー……戦争はわれわれが…必ず…勝つ。センターボード(原爆の暗号)もある」「センターボード?」
ローズベルトはにやりとしてから息を引き取った。
1945年4月のことである。
すぐに国葬がおこなわれた。
トルーマンは『原爆』について何も知らされてなかった。
「天地がひっくりかえったようだ」
トルーマンは妻ベスにいった。「わたしがアメリカ合衆国大統領となるとは…」
「…あなた……ついにあなたの出番なのですね?」
「そうとも」
トルーマンは頷いた。「しかし、センターボードとは知らなかった」
「センターボード?」
「いや」トルーマンは首をふった。「これは政府の機密だ」
……センターボードこと原爆。その破壊力は通常兵器の何百倍もの破壊力だという。
「ドイツに使うのか? 原爆を」
トルーマンは執務室で部下にきいた。
「いいえ」部下は首を横にふった。「ドイツはゲルマン民族で敵とはいえ白人……原爆は黄色いジャップに使います」
「どれくらい完成しているのだ? その原爆は…」
「もう少しで完成だそうです。原爆の開発費用は二十万ドルかかりました」
「二十万ドル?!」
「そうです。しかし……戦争に勝つためです。日本上陸作戦もあります。まず、フィリピンを占領し、次に沖縄、本土です。1945年秋頃になると思います」
トルーマンは愕然とした。
自分の知らないところで勝手に決められていく。
部下は続けた。
「七〇万人もの中国にいる日本軍を釘付けにする必要があります。原爆は米軍兵士の命を救う切り札です」
トルーマンは押し黙った。
この後、トルーマンとスターリン・ソ連首相とで〝ヤルタの密約〝が交わされる。ドイツ降伏後、ソ連が日本に攻め込む……という密約である。
…………これでいいのだろうか?
トルーマン大統領は困惑しながらあやつられていく。
4 中国へ
スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。
国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。
当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。
当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。
米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。
大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……
ひどい状態だった。
武器、弾薬も底をついてきた。
もちろん一部の狂信的軍人は〝竹やり〝ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。
なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?
それはけして、
……米国軍人の命を戦争から守るために。
……戦争を早くおわらせるために。
といった米国人の詭弁ではない。
つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。
ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか?
それはドイツ人が白人だからである。
なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。
だが、日本も日本だ。
敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。
もう負けは見えていたのだから、
……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。
とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。
しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。
信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。
日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。
只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。
それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。
その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。
また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。
そこに軍部のマインド・コントロールである。
小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、
……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。
……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。
といった調子のものであったという。
日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。
第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。
日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。
そういう幼稚な精神で戦争をしていた。
しかし、現実は違った。
日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。
そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。
あげくの果てに、六十年後には「侵略なんてなかった」「慰安婦なんていなかった」「731部隊なんてなかった」
などと妄言を吐く。
信じられない幼稚なメンタリティーだ。
このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。
一九四五年六月………
マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。
怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。
あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。
やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。
ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。
「やめるんだ!」
ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。
日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。
……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!
マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。
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