小説 戦後78年最大のドキュメント   大河小説 インパール作戦~戦慄の記録~最期の真実

長尾景虎

小説 戦後78年最大のドキュメント   大河小説 インパール作戦~戦慄の記録~最期の真実

小説 戦後78年最大のドキュメント

  大河小説 インパール作戦~戦慄の記録~最期の真実

運命の分かれ道 - 慟哭のインパールで繰り広げられた歴史的な愚戦

              ~耐え難きを耐え忍び難きを忍び~


                  裕仁 ひろひと しょうわてんのう

                ~昭和の象徴・昭和天皇の人生!

                 わが心の昭和史~

                 total-produced&PRESENTED&written by

                   NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎

         this novel is a dramatic interpretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.

        〝過去に無知なものは未来からも見放される運命にある〝

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



     ーwith history the final judge of our deeds, let us go

      forth to lead the land we love asking his blessing and

      his help, but knowing that here on earth god’s work must

      truly be our own. ー   JFK


  〝歴史をわれわれの究極の審判とみなし、神の恵みと助けをもとめながらも、

  この地上では神のみわざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ  愛する祖国を導き、前進していこうではないか〝

                     ジョン・F・ケネデイ

                      1917~1963

          あらすじ


 昭和天皇は1901年に生まれた。明治天皇が裕仁と名付けた。そんな明治天皇も死に、乃木希典は後追い自殺を……裕仁は嫡男として皇太子に。しかし、病弱だった大正天皇はすぐに死んでしまう。時代は昭和へ。日露、日清戦争で勝った日本帝国は野望をもち中国などを侵略していく。時代は黒闇の戦争へ……

 昭和天皇は軍部のパペット(あやつり人形)と化して太平洋戦争を黙認する。しかし、日本に勝ち目はない。やがて原爆投下で日本は敗戦。天皇は「人間宣言」をして巡幸してまわる。やがてそんな天皇は八十七歳で崩御……時代は平成へと移る。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊……冷戦終結…時代は新たな一ページを刻む。

 昭和天皇はいう。

「戦争がさけられないのならばせめて治療法のない兵器は使わないでください」

2014年8月21日に2億円もの費用をかけて『昭和天皇実録』と称する裕仁の87年余の全生涯の研究実録書数十巻(60冊1万2000ページ)が平成天皇皇后に上程された。

                                    おわり

         

『人物表』大河小説インパール作戦~戦慄の全記録~

齋藤博圀少尉…  牟田口廉也司令官…

小畑信良参謀長… 後勝参謀… 山川正徳参謀… 

元・日本兵・山田直夫… 持田為太郎…

平山良昭… 昭和天皇裕仁…… 畑中健二……

阿南惟幾…… 迫水久常…… 下村海南……

下村の妻・ふみ…… 鈴木貫太郎首相…… 石原莞爾……

小磯国昭…… 山本五十六…… 辻政信…… ウムボルト…

小畑参謀長の娘…

 他


  

  1 天皇誕生と戦争



 戦後78年経て、終戦へのプロセスは戦後最大のドキュメントである。

『降伏(敗戦・ポツダム宣言無条件受諾)』か?『本土決戦(一億総玉砕)』か?

1945年8月15日、日本のもっとも長い一日がそれで、ある。

この物語の主人公は、まず昭和天皇(裕仁)平和を追求する偉大な天皇である。「国民は苦しんでいる。もうじゅうぶんではないか?」そして、それを阻止し、本土決戦・一億総玉砕の道に、戦争継続を謀る陸軍少佐畑中健二「決起すれば全軍が立ち上がり本土決戦・一億総玉砕でも最後には皇国日本軍が勝つ!」、そして陸軍大臣、阿南惟幾(あなみこれちか)「御聖断は下ったのである!御聖断に納得出来ないならこの阿南を斬れ!阿南の屍を越えていけ!」、そして、書記官長の迫水久常「最後の一兵まで戦うしかないのでしょうか?」そして、第二十四代内閣総理大臣鈴木貫太郎「この戦争はこの内閣で決着です」、そして、下村海南(号・海南・かいなん、本名・宏)「なんとしても陛下の玉音放送しかないのではないでしょうか?」

 これは終戦までの最大のミステリーに迫る物語で、ある。

 

かつて、『侵略戦争と罪と罰』というような〝かつての日本軍・日本兵は全部、悪であり、ナチスと同じだった〟〝侵略・虐殺〟、というような自虐史観があったと思う。

 まあ、確かに、ある程度の虐殺行為も侵略行為も強姦などもあっただろうが、すべて日本軍だけが極悪だった……などはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)によるアメリカからの洗脳でしかない。

 では、日本軍だけが悪で、連合軍の、都市無差別爆撃や広島長崎への原爆投下は悪ではないのか?

 確かに、数十年前はみんな騙されていた。ひたすら、日本軍・日本だけの〝悪・戦争犯罪〟だけを言及したのである。だが、もうそのペテンは通用しない。

 と、同時に、韓国や中国の、「(かつての侵略戦争の)謝罪をしろ! 賠償金を払え!」というのも違うのではないか? と思うのだ。

 韓国には1965年の日韓請求権交渉・国交正常化交渉で、日本は国家としての謝罪もおわっているし、その当時、5億ドル(1860億円・現在の価値7700億円)の賠償金も韓国政府に払っている。慰安婦・徴用工の賠償金も「韓国政府」がその金で払うのが本来正しい。

 また、中国へも国家的謝罪も日本はおわっており、賠償金代わりに中国へのODA(政府開発援助)で、5兆円も払っている。もう、おわっているのだ(北朝鮮はまだ独裁国家なので、払えない)。

また、かつての戦争(太平洋戦争・大東亜戦争)でも物凄い欧米人達のアジア人・日本人差別があったことは否定しようがない。欧米人は日本人をイエロー・モンキー(黄色い猿)イエロージャップ(黄色い日本人野郎)と呼んでいた。

東京や大阪などの無差別大空襲や、広島・長崎の原爆投下もその差別からのものである。

原爆で30万人が死に、大空襲でも数万人が死んだが、〝黄色い猿〟と思っていたからこそ躊躇なく攻撃できたのである。しかも、被害者は非戦闘員で、子供や老人や女性だらけ。

前にアメリカの外交筋の馬鹿が、「ローズベルト大統領が真珠湾攻撃を知っていた……なんてふざけるな!」とか激怒していたが、「お前ら原爆を落としただろう!」と言いたい。

米大統領が真珠湾攻撃を知っていたことはもう常識レベルの歴史の事実だ。それでも外交官か!欧米での日本人捕虜の虐待は『アーロン収容所』という本に詳しい。

映画『グレムリン』というのがあるが、あの小さくてうるさくて水で凶暴化するギズモーグレムリンは、「日本人」がモデルだとか。そうまで馬鹿にしているのである。

だが、日本軍は〝差別主義者〟の欧米兵士に勝った! とまでは言わない。

けしてあの戦争は『正義の戦争』ではないからだ。ある程度の虐殺も、ある程度の侵略も、ある程度の強姦もあったのだ。日本国のために戦い、戦死なされた英霊たちには失礼だが、過去の日本兵や日本人を英雄やヒロインにしたところで、何も変わらない。

我々は現実を見よう。〝アジア人差別〟〝黒人差別〟はなくならない。

だが、憎しみあっても意味がない。それに最近の日本人だって外国人差別をしているではないか。アメリカ兵は原爆で大虐殺をしてもまったく裁かれない。

ベトナム戦争時でもアメリカ兵は酷いことをやったが、何も裁かれない。

だが、日本だけが過去に〝自虐的〟になって、何でも、「謝罪しよう」「賠償金を払おう」というだけでは何一つ解決しない。

 過去の謝罪も賠償金もおわっている。(北朝鮮へは独裁政権が崩壊してから)

まずは、現実をしっかりと見よう。現実に立脚して戦略を練ろうではないか。



 


インパール作戦(ウィキペディア参照)


第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 南方作戦 > ビルマの戦い > インパール作戦

インパール作戦

Imphalgurkhas.jpg

日本軍を撃退しに向かいインパール-コヒマ間の路上を進撃する、M3中戦車を伴ったグルカ兵

戦争:太平洋戦争/大東亜戦争

年月日:1944年3月8日〜7月3日

場所:イギリス領インド帝国 ビルマ州 インパール

結果:連合軍の勝利

交戦勢力

大日本帝国の旗 大日本帝国

Flag of Azad Hind.svg インド国民軍 イギリスの旗 イギリス

イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国

指導者・指揮官

大日本帝国の旗 河辺正三

大日本帝国の旗 牟田口廉也

Flag of Azad Hind.svg スバス・チャンドラ・ボース イギリスの旗 ウィリアム・スリム

イギリスの旗 ジェフリー・スコーネス(英語版)

イギリスの旗 ジャック・ボールドウィン(英語版)

戦力

92,000 〜150,000

損害

戦死:26,000

戦病:30,000以上 死傷:17,500

戦病:第33軍団のみで47,000

ビルマの戦い南機関 -

日本軍の進攻 -

第一次アキャブ -

泰緬鉄道 -

チンディット -

第二次アキャブ -

フーコン -

インパール -

ミートキーナ -

拉孟・騰越 -

イラワジ -

ラムリー -

ペナン沖 -

シッタン



インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦(ウごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。この記事はコヒマの戦い(英語版)も併せて解説する。


日本軍作戦立案の経緯

二十一号作戦


インドへの侵攻作戦という構想は、ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった直後から存在した。インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって、連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。

日本の南方軍は、「二十一号作戦」と称して東部インドへの侵攻作戦を上申した。1942年(昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待した大本営は、この意見に同調して作戦準備を命じた。参加兵力は第15軍の第18師団を主力とする2個師団弱とされた。イギリス軍の予想兵力10個師団に対して著しく少ないが、ビルマ戦の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのである。

しかし、二十一号作戦の主力に予定された第15軍及び第18師団(師団長:牟田口廉也中将)はこの計画に反対した。現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張した。

現地部隊の反対に加え、ガダルカナル島の戦いの発生もあったため、同年11月下旬、大本営は二十一号作戦の実施保留を命じた。ただし、あくまで保留であったため、現地では作戦研究が続行されるべきことになった。


武号作戦


1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになった。1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示された。ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想された。

日本側では太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていた。そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍(ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となった。これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなった。

第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになった。かつては攻勢反対論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えていた。より西方のチンドウィン河に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻を封じることができるだけでなく、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていた。名目上も保留中の二十一号作戦を自らの手で行おうというこの構想は、盧溝橋事件に関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。

牟田口は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内のチンドウィン河西方ミンタミ山系に進めることを考えた。イギリス軍の反撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武号作戦」と呼称した。しかし、小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン河西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどから、武号作戦に反対した。まもなく実際に雨季が近付いたため、作戦実行は時期的に不可能となり、作戦案は自然消滅となったが、小畑参謀長の消極意見は牟田口の強い怒りを買った。また、小畑が軍司令官に直言せず隷下の田中新一第18師団長を通じて翻意を促した点は、統率上問題であると田中師団長が進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭を決心した。小畑参謀長は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免された。


ウ号作戦


1943年(昭和18年)5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。河辺ビルマ方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張したが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていた。会合の結果、南方軍全体としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥当という点で一致したが、稲田正純南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戦を採るべきという方針だった。

この会合での決定に基づいて翌6月にビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局はイギリス軍との全面会戦になると予想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下った。同席の南方軍・大本営参謀らからも攻勢防御案に異論は出なかったが、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本営参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評し、また中永太郎ビルマ方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示した。しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには反対するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなった。

しかし、こうした懸念にもかかわらず、8月、大本営陸軍部はインパール攻略作戦の準備命令を下達した。このときも南方軍は限定攻勢とする修正を指示したが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視された。また、アッサム侵攻はこの作戦案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていた。第15軍参謀の木下大佐は、この際の作戦準備要綱で方面軍が作戦意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想した。しかし牟田口司令官は当初のアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には隷下の各兵団長を司令部に呼び、作戦準備を命じた。このとき牟田口司令官は、「もともと本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。糧は敵によることが本旨である。」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。」と発言し、列席の兵団長は司令官の本心を疑ったという。

本作戦案は、1944年(昭和19年)1月に大本営により、その実施が南方総軍司令官に発令(大陸指令第1776号)されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。この上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。第15軍内部で作戦に反対していた小畑参謀長が1943年(昭和18年)5月に更迭されたのに続いて、ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戦実施に強硬に反対していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭された。こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになった。

また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が、1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれた。この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられることはなかった。


連合軍の作戦立案の経緯


連合軍の場合、欧州の戦況を睨みつつ、東南アジアに向けての反攻をどこで実施するかと言う観点から、多岐にわたる選択肢が議論された。

1942年(昭和17年)3月のローズベルト大統領の提案により英米両国は4月にその担当戦域を分割して、英国の担当はインド洋、中東および地中海と決められた。インド洋、中東での指揮権については、陸海空三軍指揮官の権限は同格扱いであったが、陸軍指揮官が指導的立場にあることは認められた。

その後、戦局の進展に応じて幾つかの計画が立てられては消えていった。英国は日本軍にビルマから駆逐された当初はビルマ地域での反攻計画に積極的だったが、やがて欧州反攻を重視し1943年秋には消極的に変わっていた。


ビルマ作戦


1943年(昭和18年)に構想されたビルマへの反攻作戦には、ANAKIMという呼称が与えられた。中華民国軍の指導に当たっていた米陸軍のスティルウェル中将はこの計画に強い関心を持っていた。1943年5月の第3回ワシントン会談に参加したスティルウェルは持論を説き、米海軍のキング作戦本部長も同調したが、スティルウェルが英国側に嫌悪されていたことや、チャーチルが必要性を認めなかったこと、身内の米陸軍からもマーシャル参謀総長が実施不能と否定的見解を示したことでお蔵入りした。


ビルマで攻勢を実施する利点としては中国本土で航空基地を作戦させていた関係上、政治的には魅力のあるものと映り、ローズベルト大統領の側近には第1回ケベック会談の際にこの話を蒸し返す者が居たが、そのための兵力を調達しなければならないのは英軍であったので、欧州反攻を重視していた英国は反対していた。


東南アジア指揮地域の分離


第1回ケベック会談ではビルマ戦域の指揮権についても議論された。将来的にはインド指揮地域から切り離して東南アジア指揮地域(英語版)を設定し、その範囲をビルマ、セイロン、タイ、マレー半島、スマトラを包含することとし、米軍より副最高指揮官(Deputy Supereme Commander)を迎え、最高指揮官と連合幕僚長会議との間に英国幕僚長会議(英語版)を挟むこととなった。同会談での第2回全体会議の最終報告では下記のように述べられている。

スティルウェル将軍は東南アジア指揮地域の連合軍副最高指揮官となり、その資格で、ビルマに向かって作戦する中国軍と、東南アジア指揮地域におくことを許される米国の航空部隊と地上部隊とを指揮する。ビルマに向けて作戦する中国軍の作戦指揮権は、英国陸軍の全般的計画に従って、連合軍最高副指揮官または中国軍と同所にいる彼の代表者によって行使される。

— 第1回ケベック会談連合幕僚長会議最終報告

これに従って1943年8月25日、チャーチルはマウントバッテンを東南アジア連合軍最高指揮官に任命した。


英国の守勢方針


1944年(昭和19年)10月に、チャーチルはマウントバッテンに次のように指令している。

貴官の第一の任務は日本軍に執拗に繰り返し繰り返し接触し挑発し続けて日本軍を疲れさせ、特にその航空戦力を消耗させることだ。そうして太平洋正面からビルマ正面に日本軍の戦力を吸引することである。

— John Ehrman, Grand Strategy ⅴ (London: Her Majesty’s Stationery Office, 1956), p.148(荒川憲一による訳。)

この指令を受け、英印軍にとってビルマ戦域での作戦は支作戦となり、11月以降は最小限の兵力で日本軍を誘出、拘束することが目的となった。荒川憲一は、日本軍が攻勢をとる為に兵力を増強すればするほど「思うつぼ」だった旨を述べている。


カイロ会談


その後、1943年(昭和18年)11月のカイロ会談では東南アジア作戦は主要議題とすることが議事日程で予告され、会談の前段としてスマトラ作戦とアンダマン作戦の2つを比較して参加国で検討が行われた。チャーチル以下、英国側はいずれもこれらの作戦に乗り気ではなかった。これらの作戦はオーバーロード作戦後を予定していたが、OVERLORD後にはイタリア西部に対する上陸など地中海での作戦を切望していたからである。OVERLORD後に直ちにこれらの作戦のいずれかでも実施された場合には、地中海での作戦が台無しになると考えたのである。

一方、米国側は英国側の地中海での作戦提案を信用せず、スマトラ作戦、アンダマン作戦のいずれにしても中国に対する連合国の援助の保証として重要性が認められ、これらを断念することは蒋介石政権の弱体化に繋がると考えた。なお、カイロ会談には中華民国も参加していたので、英米は会談中の討議において中華民国に対しても外交上の配慮が必要であった。

なお、中華民国がこの会談で要求したのは下記の3点である。

1.ヒマラヤ山脈を越えて実施中の空輸作戦(英語版)(月間10000トン)はビルマ作戦に関係なく継続すること

2.TARZAN作戦(下記)は雲南の地上部隊のラシオ進撃と呼応する為、マンダレーを目標とすること

3.海軍作戦は陸軍作戦と同調するように開始すること


スマトラ作戦


スマトラ作戦にはCULVERINというコードネームが与えられた。

カイロ会談においては、本作戦は北部スマトラに対する進攻として扱われたが、米国幕僚長会議は11月8日、本作戦に対しては必要な援助を与えることが出来ないから、アンダマン作戦を早期に開始することに同意したが、「ビルマ南部の日本軍を釘付けにするために、更に別個の陸、海、空の作戦を実施することが出来るものと信ずる」とマウントバッテンにこの問題を研究するように勧告した。


アンダマン作戦


アンダマン作戦にはBUCCANEERというコードネームが与えられた。アンダマン諸島を攻略しベンガル湾方面の制海権を握ることを直接の目的にしている。本作戦を押していたのは上記のように米国側および中華民国であり、1944年3月に実施できる確固たる保証を欲していた。しかし、11月8日の米国幕僚長会議による勧告は英国幕僚長会議にとっては英軍が主導する作戦地域への不当干渉と映った。そのため英国側は、対日戦の主戦略が決定されるまで、東南アジア作戦についての取扱を延期しようと図った。


チンドウィン川渡河作戦


チンドウィン川渡河作戦にはTARZANというコードネームが与えられた。スマトラ、アンダマンと同時期に計画されたものであり、北部ビルマでの攻勢を企図したもので、チンドウィン川を渡って概ね南東に進撃し日本軍を駆逐する。中華民国側が関心を示した。しかしカイロ会談にて、マウントバッテンは、

1.ビルマでの大規模な攻勢作戦を実施すれば中国への空輸には打撃となる

2.マンダレーへの進撃は航空機500機の増援を必要とするがその入手には期待出来ないという説明を蒋介石におこなっている。

これを受けた蒋介石は選択を迫られ、次のように回答した。

1.TARZAN作戦の目標についてはインド=カーサ(英語版)の線で妥協する。

2.ビルマ作戦の成功は、陸上での攻勢と同時に実施する海軍の協力如何で決まる

これに対し、チャーチルは次のように回答し、蒋介石の上陸作戦実施要求を拒絶した。

1.海軍作戦は必ずしも陸上作戦とは関連しない

2.1944年3月までには適当な艦隊をインド洋に準備するが、上陸作戦の確約は出来ない

しかし、蒋介石にはローズベルトと言う援護者が居た。ローズベルトは「次の2、3ヶ月以内にベンガル湾を超えて」相当規模の上陸作戦を実施する旨を中国側に約束していた。そのため、翌11月のテヘラン会談の際、英国側は追い詰められた。結局、12月5日の連合幕僚長会議による協同覚書では

英側提案:BUCCANEER作戦延期

米側提案:TARZANおよび連接する上陸作戦は政治的にも軍事的にも必要性大

とそれまでの要求が併記されるに至った。ローズベルトはBUCCANEERを断念することで対立状況が打開できると決心し、「欧州における作戦のために、ベンガル湾において大作戦を行う余裕がない」ことを名目とした書簡を送り、自身が蒋介石に行った約束を破棄した。マーシャル、キングはBUCCANEER実施を前提に議論を展開してローズベルトを補佐してきた為、新見政一はローズベルトの専断的な決定例と説明している。

1944年(昭和19年)1月に米国幕僚長会議はTARZAN作戦自体も渋々取り下げるに至ったが、その頃にはスティルウェルは自身の成功により、米国内での声望を高め、英国側は不利な立場になった。


レド公路の建設計画


その後も議論は僅か数ヶ月の間に紆余曲折を辿った。テヘラン会談後の議論の焦点はスマトラでの作戦に戻った。マウントバッテンは1944年1月に新戦略を考案し、それはマクシオムと呼称された。それはマッカーサーの援護であり、ビルマでの攻勢ではなく、チャーチルの支持するスマトラ作戦と同じ方向性のもので、ビルマ戦線に集積した軍事的資源を転用する内容だった。ただし、マウントバッテンはスマトラでの作戦には洋上の艦隊の支援にしか頼ることが出来ないことを理由として、敵陸上戦力の5倍の兵力を要求した。チャーチルはこの要求は過大であると考え、アメリカが太平洋で実施した島嶼上陸の事例を挙げて反論した。

また、どの作戦を実施するにせよ、シンガポールに駐留する日本艦隊に連合艦隊主力が加わった場合など、出方次第ではインド洋方面からの攻勢に必要な海軍戦力が大幅に増強を迫られる為、この点もネックになった。

また、米国は1943年(昭和18年)以来、B-29による中国からの日本本土戦略爆撃の計画に執着しており、援蒋ルートの増強を求め、レド公路の建設と作戦用燃料のパイプライン建設計画を立てた。これらの建設には毎月26000トンの資材と43000人の人員を必要とした。インド北東部での準備はインド司令部の後援により1943年11月に開始されたが、本格的な着工には米国の熟練した土木労働者が必要であり、1944年(昭和19年)1月の開始であった。米軍の求めに応じ、最初の計画では、1944年(昭和19年)11月までに昆明まで一方通行、1945年3月までには両面通行可能なものとするとされ、パイプラインは1944年11月までには完成して、1945年(昭和20年)7月までに全能力を発揮可能なレベルに整備されることになっていた。しかし、東南アジア作戦の規模が縮小決定されたことと予期しない工事遅延により、昆明までの公路完成の予定は一方通行が1946年(昭和21年)1月、両面通行が1946年(昭和21年)6月とされた。なお、公路での輸送力は一方通行で毎月8000トン、両面通行で20000-30000トンと見積もられていた。パイプラインは1946年(昭和21年)4月より送油を開始して、10月に全能力に達するとされ、その量は開始時13000トン、全能力で6万3000トンと見積もられた。このような遅延があっては実用上の役には立たないため、マウントバッテンは空輸の強化を勧告した。公路の建設を中止すれば、ビルマ北部の広大な領域を奪回する必要性も無くなるという計算もあった。


評価の修正


米国幕僚長会議はマウントバッテンが1月に提出した新作戦計画によりビルマ北部戦域の優先度が引き下げられることを危惧し、1944年(昭和19年)2月17日に、英国幕僚長会議に北部作戦の再開を要求した。元々ビルマでの攻勢に消極的な英国幕僚長会議は、マウントバッテンの意見があるまで回答を差し控えたが、その回答を要約すると

既に全兵力をビルマに投入している

スマトラでの作戦の為の戦力は何も留保していない

従って米国の目標を達成することは出来ない

米国幕僚長会議はスティルウェルに引きずられている可能性があるのでマーシャル参謀総長による保証が必要というものだった。

なおローズベルトも米国幕僚長会議同様にミイトキイナの占領要求をチャーチルに打電したが、チャーチルは欧州戦終結前の実施は不可という従来の回答を繰り返した。

1944年3月になると、アラカンおよびフーコン峡谷で日本陸軍を撃破したことで、連合国側での日本軍に対する評価は下方修正された。 またこの時点で航空偵察などの情報を総合し、日本軍の目標がインパールであることを察知していた。その顕著な例は3月21日の米国幕僚長会議決定で、英国側に北部ビルマでの活発な作戦行動を求める内容となっている。また、太平洋方面で英艦隊の増強が不要となったことも新材料であった。

これらの情勢を勘案し、チャーチルは国内の論争を裁定するための案を出した。その内容は東洋艦隊の増強と東南アジアでの新たな攻勢計画の立案の提示が主であり、英統合計画幕僚委員会は「中間戦略」と称してこの具体化を進めようとした。オーストラリア=チモール=セレベス=ボルネオ=サイゴンを軸線とし、マッカーサーの全般指揮の下その進撃を支援する内容で1944年7月頃まで議論されたが、実現には至らなかった。


サーズデイ作戦による兵力分散


なお、ウ号作戦が実施されようとしていた直前の3月3日、オットー・ウィンゲートの指揮する6個旅団は2度目のビルマ遠征のため空挺降下(第16旅団のみ陸路)を実施していた。この目的は、英印軍主力のビルマ進出を支援するものでも、ウ号作戦のため進出して来る敵を包囲する為のものでもなく、日本軍の第18師団、雲南方面の第56師団を孤立させ、レド公路の建設を支援する内容であった。そのため、インド最高司令部(英語版)のクルード・オーキンレック将軍はこの作戦には反対であった。投入する戦力と航空機を手元に残置しておけばアラカン方面での戦力比は更に圧倒的になるからであった。


 インドとミャンマー(旧・ビルマ)の国境地帯。

川はば600kmにもおよぶ大河と2千メートル級の山々がつらなる。今から70年以上前、日本軍はこの山岳地帯を越え470kmの行軍をするという前代未聞の作戦を決行した。

目指したのはインド北東部の町インパール。しかし、誰一人この地にたどりつけなかった。

およそ3万人が命をおとした。これが〝太平洋戦争でもっとも無謀〝といわれたインパール(IMPHAL)作戦である。

日本と戦ったイギリス軍に10時間を越える映像が残されている。三週間の短期決戦をもくろんだ戦争は数ヶ月にも及んだ。補給を度外視したため日本兵たちは飢えと病にたおれていった。

元日本兵「水を飲むでしょう?そうするとアメーバ赤痢で一日か二日でみんな死んじゃう。」

元日本兵「日本人同士では、殺してさ。(ひとりでいると)肉切って食われちゃう」

兵士が戦いをしいられたのは〝世界一の豪雨地帯〝。飢えた兵士たちが行き倒れた道は〝白骨街道〝と呼ばれた。敗走した兵士達は濁流(だくりゅう)と化した大河を渡れないまま命を落としていった。元日本兵「(仲間を)置き去りにしていったから、それがいちばんつらい。」

作戦決行した陸軍上層部(東條英機ら)、戦後もその責任に向き合おうとしなかった。

イギリスで発見されたインパール作戦についての膨大な極秘資料。

大本営(服部卓四郎)→南方軍(沼田多鉾薫、綾部隆樹)→ビルマ方面軍(河辺正三、中永太郎、田中新一、木村兵太郎、片倉衷)→第15軍(牟田口廉也、久野村格代、吉田喜八、片村四八)→第15師団(栞田柳一)→第31師団(佐藤幸穂、宮賀篤三郎、沼田駿太郎)→第33師団(田中信夫)。

戦犯2717人を尋問調書していたが誰ひとり責任を負おうとしない。自らを正当化していた。

第15軍司令官中牟田廉也中将「戦況の潮目を変える有効な計画だという強い信念が私にはあった。」ビルマ方面軍中永太郎参謀長「インパール作戦はいかなる犠牲を払っても精神的価値として続ける意義があった。」


話を戻す。


  立憲君主と大元帥……

  慈悲深い立憲君主と大元帥……                  

 これが昭和天皇・裕仁(1901~1989)の名称である。

 しかし、実のところは白馬にまたがり軍部の前であやつられるパペット(操り人形)に過ぎなかった。日本人には驚きだろうが、かの昭和天皇は、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の大悪人のひとりなのだ。                             

 しかし、崩御(死亡)のさい、日本のマスコミはこのことにまったく触れなかった。

 ……死んでしまえば「いいひと」とでもいいたげにお涙頂戴の報道に徹した。

 NHKを初めすべての報道局が昭和天皇の死を報道したが、戦争犯罪に触れたものはひとつとしてなかった。世界はこれに呆れたことだろう。

 先の戦争でも昭和天皇は「もう一度戦果をあげるのがよろしそうろう」などと沖縄戦の一ケ月前に「お言葉」を述べている。

 太平洋戦争末期に出来た近衛内閣の近衛文磨首相は「最悪なる事態は遺憾ながら早々必要なりと存候。一日も早く戦争終結を申し候」と述べた。

 しかし、神の子・天子である天皇は人間らしいことは何もいえない。只、「無駄な血が流れなければよいが…」と他人事のような「お言葉」を述べるだけだ。

なお、この作品の参考文献は、堺屋太一著作、落合信彦著作、藤子不二雄(A)著作、さいとう・たかを著作、小学館SAPIO誌などです。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作、無断転載ではなく「引用」です。

 熱しやすい軍部は暴走して、「一億総玉砕!」などと泥沼にひきずりこもうとする。

 これは太平洋戦争の二十数年前に遡らなければならない。


ここから数行は漫画家・安彦良和著作『虹色のトロツキー』(中公文庫)から引用する。

昭和十三年六月満州(まんしゅう)――新京(しんきょう)(長春(ちょうしん))、日本の建国大学に旧・満州国旗がはためく。五族同和のシンボルである。

時代が時代なだけに西部劇などで出てくるようなベンツのクラシックカーが蒼天の元、大学正門にやってくる。参謀旗章の黒いやつだ。

大学内で野良仕事をしていた学生たちは「すげい、ベンツだぞ!」「誰なんだ?」「げ!鬼辻!」等とひそひそ噂している。

辻(つじ)政信(まさのぶ)――関東軍参謀(建国大学創設主任)後ノモンハン事件、シンガポール戦、ダガルカナル戦等の作戦指揮。強引・専断・無情――鬼参謀として知られる。背が低く、痩せていて、丸ぶち眼鏡に大きなネズミのような鼻の軍服の小男。戦後、衆議院議員、ラオスにて行方不明

――鬼辻はあるモンゴル人と日本人のハーフの〝将校チョッキを着た〝ウムボルト(安彦良和先生の『虹色のトロツキー』ではウムボルト)、ここではジョルダビドが降り立った。「なんだあいつ?」「学生じゃねえの?」「軍の車で?偉そうに?」

「ジョルダビド、こい」

辻政信は建国大学の学長に、そのモンゴル系の男子参謀候補生を「例外的に六か月間だけ入学させろ!」と、大声でまくしたてる。辻のくせは主張が強く、怒鳴り声のように要求することである。小心者だが、残虐性がある。この人物の存在がのちに『ノモンハン事件』を一層悪質なものにして、その陰湿で無残な敗北であるが故に、天才・歴史作家・司馬遼太郎(故人)をして「ノモンハン書いたら僕死んじゃうよ」といわしめた。

司馬先生は何千冊もの関連本をあたり、取材も行っていた。それでも書けなかった。

いや、書く(価値)にあたらなかった、のである。

〝建国大学〝五族協和の実現(石原莞爾が唱えた理想・五族とは漢・満・蒙・朝・日の五民族を指す)。辻政信は石原莞爾の心酔者。登張信一郎名誉教授、中山優教授、辻権作教授。〝建国大学〝――それは満州国国務院直属という位置づけで、昭和十三年に開学を見たばかりの大学だった。総長は満州国総理・張景(ちょうけい)恵(けい)の兼務。そして創設委員長は当時の関東軍参謀長・東條(とうじょう)英機(ひでき)……。

見事なまでの国策大学の図式だが、実態は少し違った。

総長職はお飾りであり、東条英機は創設に使なりと担がれた〝オミコシ〝にすぎなかった。

元々、建大の理想は東條英機のライバル・石原莞爾の持論『五族協和の実現』に立脚する。

石原莞爾は建国大学の演説で「ソ連との戦争は必ずあるが、すぐにではない。多分、日ソ不可侵条約を結ぶだろうが必ず日ソは戦争状態に突入する」と予言する。

現実に、日本が敗戦を発表した1945年8月15日の玉音放送後、ソ連軍は南下して進撃して樺太や満州国(日本国の傀儡国家・中国東北部)やクリル諸島を占領し、日本人を〝シベリア抑留〝した。天才の参謀・石原莞爾にはそこまで〝見えて〝いた、と描いた。

話を変える。安倍首相(当時)靖国神社参拝 第1次政権含め初、現職は小泉氏以来。安倍晋三首相(当時)は2013年12月26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。現職としては、2006年に当時の小泉純一郎首相(当時)が参拝して以来7年ぶり。第2次安倍政権発足からちょうど1年での決行で、首相としては初めてとなった。

首相の参拝を求める保守層に配慮したとみられる。

参拝後、首相は記者団に「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、手を合わせた」と述べた。中韓両国は、東京裁判のA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社への首相や閣僚の参拝に反対しており、反発は必至だ。

首相は第1次安倍政権のときに参拝しなかったことを「痛恨の極みだ」として、参拝への意欲を強調。12月9日の記者会見では「参拝するか否かを今、申し上げるべきではない」と述べていた。

首相は到着殿から拝殿を抜けて、本殿で参拝した。「内閣総理大臣 安倍晋三」名で白い菊を献花した。

26日に参拝した理由について、記者団に「安倍政権1年の歩みを報告し、再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのないよう決意を伝えるため、この日を選んだ」と強調。

「中国、韓国の人の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」と述べ、両国の首脳に直接説明したいとの考えを示した。また「戦争の惨禍や、苦しむことのない時代をつくるため、不戦の誓いをした」とも述べた。4月の春季例大祭では「真榊(まさかき)」と呼ばれる供物を、8月15日の終戦記念日には玉串料を私費で奉納した。

10月の秋季例大祭でも真榊を納めたが、それぞれ参拝を見送っていた。沖縄県・尖閣諸島や島根県・竹島をめぐり冷え込んだ中韓両国との関係改善に向け、首相は早期の首脳会談開催を呼び掛けてきた。だが今回の参拝により、会談は当面困難となりそうだ。

◎保守層離反に危機感。【解説】安倍晋三首相(当時)が靖国神社参拝に踏み切ったのは、これ以上先送りすれば自身を支える保守層の離反を招き、政権基盤に影響しかねないとの危機感があったためだ。仮に見送っても、参拝に反対してきた中韓両国との早期の関係改善は現状では難しいと判断したとみられる。

首相の思想や保守層の期待感がどんなものであろうと、一国のトップの行動が国内外に波紋を広げるのは避けられない。

政権発足1年の節目で自身の信念に固執した首相には、衆参両院で多数を握る権力者の高揚感さえ垣間見える。

参拝見送りを望む政権内の一部の慎重論は封じられた。首相は7月の参院選で幅広く支持を得る狙いから、4月の春季例大祭に合わせた参拝を見送った。

参院選後の終戦記念日や秋季例大祭でも、中韓両国との首脳交流再開をにらみ参拝を控えた。ただ、首相の足元では、参拝に期待した保守層を中心に不満が蓄積。就任前の昨年10月に参拝した首相自身も年1回の実施にこだわっていたとされ、年末も自重すれば来春の例大祭まで参拝のタイミングがなくなるため、周辺では待望論が高まりつつあった。日本と中韓の関係悪化を懸念する米国への対応を含め、首相は一層の外交努力を求められる。

「首相や閣僚の靖国参拝は憲法の政教分離原則に反する」との批判にも応える必要がある。<靖国神社>東京都千代田区九段北にある神社。国家のために命をささげた人々の御霊(みたま)を慰めることなどを目的に、明治政府が1869年に「東京招魂社」として創建し、79年に靖国神社と改称した。

第2次世界大戦などの戦死者246万6000余柱の御霊が祭られている。戦後、国家神道が廃止され、一宗教法人となった。

1978年には東京裁判のA級戦犯14人が合祀(ごうし)され、85年に中曽根康弘首相(当時)が戦後初めて公式参拝した。(産経新聞記事参照2013年12月26日木曜日) 

安倍首相の靖国神社公式参拝は、A級戦犯合祀が「戦争被害者への配慮に欠ける」という事だ。天皇陛下皇族の皆さまも1978年に東条英機らA級戦犯が合祀されてから一度も参拝してない。

安倍氏は保守勢力の票の為に参拝した訳だが愚かだ。国の為に死んだ英霊を弔うなら戦犯無縁施設建設しかない筈だ。今年も陛下とともに被災地に訪れられた上皇上皇后両陛下には一年でも長生きしてください、と思うだけですね。

また神社の教えは「神道(しんとう)」。八百万(やおろず)の神(いろいろな神がいる)という宗教。靖国神社が出来たのは明治2年(1869年)創設(当時は「東京(とうきょう)招魂社(しょうこんしゃ)」という)。

1879年(明治12年)に改名・「東京招魂社」→「靖国神社」へ。(靖は安全の安と同じ。国が安泰なようにとの祈りの神社。創設者、大村益次郎(長州藩士・官軍。戊辰戦争の(官軍の)戦没者の英霊を祀る為))。明治・戦前まで宗教は国家宗群(国家神道・天皇崇拝)を国是としていた。

戦後にそれらの神社は護国神社となる。国家神道の中心が靖国神社。靖国のご祭神(さいじん・多くの神)の数が「246万6000余柱」。(柱(はしら)は神様を数えるときの単位・ 第二次大戦の日本人英霊が246万6000人、ということ)。

高杉晋作・坂本竜馬・吉田松陰も祀られているが、西郷隆盛(吉之助)は、西南戦争を起こした為に祀られていない。「合祀(ごうし)」とは2柱以上の神を祀ること。別に遺骨を祀るのではなく、名簿に名前を記入するだけ。

A級戦犯合祀は密かに1978年におこなわれた。その為、1977年から現在まで天皇陛下(裕仁(昭和天皇)・明仁(平成天皇)含め)や皇室関係者は靖国神社を参拝していない。

海外では「YASUKUNI Shrine(シュライン・神社)」ではなく「War Shrine」と呼ぶ。

1985年中曽根首相(当時)が公式参拝して(原因①8月15日であった②内閣総理大臣という立場で公式参拝したこと)批判が中国・韓国含め海外からあがった。

解決策①A級戦犯の分祀(靖国神社反対)②靖国神社以外他の宗教祀る神社建設(例えば千鳥ケ淵戦没者墓苑)(靖国神社反対*戦没者の英霊が「靖国で会おう」というのに反しているから)。ちなみに全国の宗教法人は18万2253法人もあり、「税金の免除」「小学校や幼稚園の公益事業の運営の免税」等ある訳です。

学校法人・公益法人も同じです。宗教法人にも出来ない事があって、風俗業・カジノ・ギャンブル業・投資業です。

お守り・お札・おみくじは無税ですが、数珠や線香は課税されます。違いは神社以外でも売っているか?で「数珠」や「線香」はデパートや仏具店でも買えるから駄目なのですね(笑)。

伊勢(いせ)神社(天照大御神・アマテラスオオミカミを祀る)の式年(しきねん)遷宮(せんぐう)は20年に一度の神様のお引越し(戦国時代や戦後すぐの貧乏な時期は遷宮は延期されました。それどころではなかった(笑)訳です)です。

総費用は一回550億円。ちなみに天皇の三種の神器は「八咫(やたの)鏡(かがみ)(伊勢神宮の祀る神祇はこれ)」「草薙(くさなぎの)剣(つるぎ)」「八尺瓊(やさかたの)勾玉(まがたま)」です。また、神社に飾られている枝は「榊(さかき)」という神聖なもので巻かれているギザギザの紙は「紙(し)垂(で)」という稲妻をイメージしているのですよ。

沖縄の基地はまだ必要なんです。そのかわり沖縄でカジノ合法化とかどう?

北朝鮮・中韓問題を考えてね。

終戦戦没者慰霊日である。

とにかく学歴に拘らず外交戦略のある人材登用をするしかない。外交は戦争、とわかる人材が官僚政治家にいるか?

私にとって「島人(しまんちゅ)を舐めるな」等といった感情論は関係なくて、沖縄に基地が集中しているのは沖縄に貧乏籤を引かせている訳ではない。地政学上有利だから沖縄に基地が集中しているのだ。

例えば「非武装中立」等馬鹿でしかない。防衛力がなければやられるだけだ。北朝鮮というテロ国家・独裁国家、中国との尖閣諸島問題、韓国との竹島問題…パックスアメリカーナ(アメリカによる核の下による平和)…。もう少し大人になって考えることだ。

後、いっておくが本当の国防軍は在日米軍だ。

自衛隊などまともに戦えば3時間ももたない。在日米軍こそが防衛の要だ。よく考えろ。

今まで自衛隊が日本国を防衛したか?右翼政治家は軍国主義に走る。

このまま日本の外交・防衛は大丈夫か?

橋下徹氏が外国人記者クラブで「いわゆる従軍慰安婦(風俗と戦場の性の問題)」を他国でもあったし、慰安婦を正当化する訳ではないが謝罪する、といった。

自国が慰安婦つかっていたけど他国でもやっていたからいいだろう…というあまりに幼稚な話で賛成できない。

その意味で歴史家と政治家の歴史認識の乖離は恐ろしい。橋下氏は残念。またここでは「従軍慰安婦問題について詳しく教えてください」ということであるので少しだけ「慰安婦問題」をご説明しましょう。元々は戦前戦中には「慰安婦」とよばれていた女性たちは何故「従軍慰安婦」と呼ばれるようになったか?

まず一つ目の転機は1973年千(せん)田(だ)夏光(かこう)氏が三一出版から「従軍慰安婦」という著作を発表してから「慰安婦」が「従軍慰安婦」と呼ばれるようになります。

いまから80年前頃に戦場で性的慰安をしていた女性たちのことで、施設は400か所もあり、帝国日本軍が重要書類をほとんど焼却した為に証拠がほとんど発見するのは不可能です。

が、慰安婦は2万人から3万人(20万人から30万人との説も)当然売春婦もいたが甘言で慰安婦になった女性もいたそうです。

二つ目の転機は1991年に元従軍慰安婦であった韓国人老女・金学順(キム・ハクソン)さんが日本政府に謝罪と賠償金を求めて提訴したことです。何故1991年にやっと声をあげたのか?

1987年当時までは韓国は軍事政権であり、「慰安婦=売春婦」と差別を受けるから民主主義政権になり声をあげた訳です。

「河野(こうの)談話」とは1993年官房長官であった河野洋平氏が「いわゆる従軍慰安婦については、軍の強制連行や甘言による強制があった。おわびする」という談話のことです。

ですが最近になって朝日新聞社が「故・吉田清治氏による一連の従軍慰安婦報道は「誤報」で、日本軍による強制連行はなかった」とやっと謝罪しました。

そう強制連行でのいわゆる「従軍慰安婦」はなかったのです。

日本側は、1965年日韓基本条約で日本側が5億ドル(1860億円・現在の価値7700億円)の経済援助をするかわりに韓国側が「請求権の放棄」を約束した為に、「慰安婦問題は解決済み」というスタンスです。

だが、悪いと思ってか、1999年から2000年代にかけて「アジア女性基金」という民間の基金で、義捐金を民間から260億円募って、慰安婦というひとたちにひとり200万円と首相の詫び状が贈られています。

歴史的なことをいわせてもらえば日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「戦後賠償」は終了しています。

また条約加盟国でなかった韓国、台湾、インドネシア、フィリピン、タイなどの国へも戦後謝罪も賠償もおわっています。1965年には日韓基本条約で韓国に5億ドル(1860億円・今の価値で7700億円)払い、さらに民間の「アジア女性基金」で100億円払っています。

おかしいと思うなら国際政治裁判ハーグで訴訟にて話し合いましょう。

だが、韓国の慰安婦だけは韓国国内で「日本人に尻尾を振った売国奴!」と罵られるのをおそれて受け取りを拒否しています。結局政治なのですよ。

ちなみに日本の外務省は「慰安婦」のことを「Comfort woman(慰安婦)」と呼ぶが海外では「Sex slaves(性奴隷)」といいます。

20万人も拉致した事実はないが。結局政治なのですよ。

中国へは戦後賠償の代わりに、政府開発援助(ODA)を40年間で3兆6500億円払い、謝罪もおわっています。

2013年5月23日、韓国のあるジャーナリストもどきの不貞な輩が「日本の広島長崎への原爆投下は「神の懲罰」であり、ドイツは侵略戦争を謝罪したが「日本は侵略戦争も慰安婦問題も謝罪も賠償もまだだ。神が罰を下したのだ」」等と発言して反発されている。韓国の日本大使館も日本政府も抗議しているが、橋下氏や石原氏や小林よしのり氏らの「誤った侵略戦争否定論」のせいだ。

(日本軍=悪、侵略・虐殺は自虐史観。確かに悪いこともしただろうが、戦争下のことであり、すべて悪の東京裁判史観だけでは甘い。むろん戦争を美化する気はさらさらない。が、自分で資料に当たって「日本軍=侵略戦争を犯した」というみかたが正しいのか自分の頭で考えて貰いたい。例えば「南京大虐殺で30万人」も、「数が例え百人でも人を殺せば虐殺」とか。死者数が30万人でなければ間違っているということ。当時、南京には20万人以下しか中国人はいないのに、どうやって30万人殺したのか?従軍慰安婦の強制連行は正しいのか?「連行がなくても強制性はある。」とかふざけるな!数十年前の、「日本軍が何もかも悪かった」という嘘はもう通用しない。なら原爆や大空襲の米軍の虐殺行為は悪ではないのか? 頭を使って考えて! 自虐史観などに騙されないで!)

極めて遺憾だし、激しく抗議したい。

まず広島長崎の原爆被災者やその霊に謝罪して欲しい。話はそれからだ。

大体にして原爆被災者の写真を観た後に同じことが言えるのか?

頭のおかしな輩をジャーナリストにするな。

2013年5月13日、大阪市長で日本維新の会共同代表の橋下徹氏がいわゆる慰安婦に対しての見解として「慰安婦はけして正当化は出来ないが、他の国もやっていたように、兵士の戦闘の疲労を癒すための風俗施設は必要だったのではないか」という事を発言した。あまりに次元の低い見解であり、到底容認出来ない。

また慰安婦などとされた女性、というよりすべての女性の尊厳を侮蔑するものであり大変遺憾であり、激しく抗議したい。

国会議員が靖国神社を公式参拝した。

後述するがもっと中国韓国に反発されないような英霊たちを供養する施設は造れないものか?香港の活動家たちは何故上陸出来たのか?海上保安庁の目をかいくぐって何故上陸出来たのか?ニュースだけではわかりませんね。

多分、活動家のバックにお金持ちのパトロンがいてお金を出しているのでしょう(中国政府関係者も含めて)。だが、今回も強制送還で「正解」である。

何故なら国民も民主党議員や凡俗の政治家も知らないかつての自民党と中国側との昔の「密約」があったからです。

それは(1)中国は、実効支配の原則から尖閣諸島を日本領土として認める。(2)しかし一方で、中国も国内法では領土権を主張できる。というもの。

尖閣諸島で逮捕した中国人は「密約」によれば日本で裁判にかけることなく逮捕して中国側に引き渡すのが「正解」であり、「約束」なのです。

ゆえに、今回は中国政府も公式には大きく騒ぎ立てるようなことをしていないのです。オスプレイ問題もまた「「軍政」に関わることは米軍に従う」という日米安保条約ならびに「沖縄返還の条件」でもあります。

知らないのは国民と民主党政治家と無能集団だけ、というまたまた「お先真っ暗」な状態なのです。

ベトナム戦争や湾岸戦争などでも、日本の国防とは関係ない争いでも、米軍が沖縄を利用したのは「約束通り」に米国軍は「軍政」として沖縄をつかったまでなんです。日本政府(国)が合意しているのですから、米国軍人からみれば「当たり前じゃん」ということ。

沖縄県知事や県民や日本国民は「沖縄の軍政に文句を言う権限」など密約上ない、のです。

北方領土もまたしかり、です。北方領土に関しては森喜朗元首相がその辺を知っていますから森氏に任せるのが正解ですね。

残念なことに民主党議員も国民も無知で傲慢です。「脱原発」だの「沖縄に基地いらない」だの無邪気に強く主張はしますが、「外交感覚ゼロ」…まるで「集団ヒステリー」「農民一揆」「団塊世代の安保闘争」です。こういう密約があることさえわからないで、したり顔で主張してないで、ここはまず反省と熟考の余地を、という事ですね。

韓国の大統領が「日本の天皇(皇后両陛下)は訪韓して謝罪」するべきだ、とお冠です。

どうも国内の不満分子の「ガス抜き」のようなんですが。

改めて上杉の義と論語と算盤が必要ですね。

年8月15日は終戦(敗戦)月目ですですが、実は8月15日が終戦記念日なのは日本だけです。世界では1945年9月2日が終戦記念日(アメリカでは対日戦勝記念日(VJ Day))です。つまり、東京湾に浮かんだ米国艦ミズーリ号で日本が降伏条約に署名した日です。

何故日本では8月15日かは昭和天皇の玉音放送があったからなんです。もちろんラジオでです。当時の方にお聞きすると朝に「正午に天皇陛下からのお言葉がある」と知らされ正午に直立不動で「耐え難きを耐え、忍び難きを…」という玉音放送を聴く訳です。

が、当時のひとはよく意味がわからなかった、といいます。

その後のアナウンサーの説明でやっと「敗戦」と知り、大人たちは号泣した訳です。

日独伊三国同盟対60ヶ国で1億人の兵士が動員されました。ちなみに「第二次世界大戦」は1939年のナチスドイツのポーランド侵攻からのおおまかな大戦のことです。

「太平洋戦争」とはアメリカからみた戦争で1937年のABCD包囲網(米国、英国、中国、オランダによる日本への経済制裁)から1941年12月8日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃から見た対日戦争です。

「大東亜戦争」とは日本側からみた戦争で、当時帝国日本は「大東亜共栄圏」という神国日本がアジア諸国を占領から開放するという「侵略案」からみた戦争です。

1945年5月7日にはナチスドイツもイタリアも降伏。後は日本だけになり、「降伏書」が突きつけられますが、日本は「黙殺」。つまり無視して、トルーマンは「しめた。核実験が出来る」と広島と長崎に原爆を落とします。

その後、ソ連まで攻め込んできていよいよ駄目だな、とやっとポツダム宣言を日本がのむ訳です。

国連の議長と米英仏の大使が参列しました。

だが、実は米国では核の被害や死体やらが教えてられていません。

「原爆投下は戦争終結を早めた」という詭弁を教えています。またベトナム戦争での枯葉剤での奇形児も教えられていません。まあ、「臭い物に蓋」をしている訳です。日韓併合(侵略)から100年で菅首相(当時)は「痛切な反省と心からのおわび」を表明しました。

謝罪みたいですが謝罪ではないという訳のわからぬ表明です。賠償金はどうするのですか?戦争では850万人が戦死しました。民主党政権が靖国神社にかわる国立追悼施設を建設することが明らかになりました。まあ、新たなハコモノか?それとも靖国神社参拝へのアジア諸国からの反発を意識してか?わからないです。

長崎の原爆の日(8月9日)がありました。長崎市長は「すべての核武装国のトップは長崎にきてください」と宣言しました。これはオバマ米国大統領のプラハ宣言(核兵器保有国の核兵器廃棄宣言)を受けてのことです。

ちなみに「広島の原爆ドーム」は「広島県産業会館」というもので、今、平和公園となっている広場は「中島地区」という4400人が住む住宅街でした。それが、相生町のT字橋をターゲットに原爆を落とされ一瞬にして焦土と化す訳です。

何故アメリカが「原爆」を造ったか?はナチスドイツが原爆を開発中で、ドイツ系ユダヤ人のアインシュタインがローズヴェルト大統領に「原爆を開発中するべき」と手紙を送ったからです。

で、実験の為に日本に二回も落とした訳です。ですが、今、世界のひとを何億回も皆殺しに出来る程、1発で広島原発の1000万倍の爆発力です。

「これはいかん」と思ったのか、国連常任理事国(米国、フランス、英国、中国、ロシア(旧ソ連))が、核拡散防止条約(NPT)をきめこの5カ国以外「核兵器保有」を禁止します。ですが、加盟してないインド、パキスタン、イラン、シリア、北朝鮮などが保有もしくは開発中です。

南米でも特にブラジルとアルゼンチンがもめていて「トラテラルコ条約」が批准されブラジル、南ア、リビア、アルゼンチンが「核放棄」します。

86年レイキャビク会談でレーガンとゴルバチョフ書記長が会談して東西冷戦が崩壊します。「戦略核兵器(ICBM)」と「戦術核兵器(戦争下で使用される核ミサイル)」があり、「戦略核兵器」を米露が減らそうとしている訳です。

北朝鮮がいろんな悪辣なことをやると「日本も核兵器を。保有国になるべきだ」などというのが聞かれるが、馬鹿だと思う。核武装などしなくても、在日米軍基地にすでにある。

また私は戦争は悪だと思う。またやるべきではないし、自衛隊の「先制攻撃能力を」などという武装論などとんでもないことです。

この世界で「戦争が大好きだ」などという馬鹿はいません。が、自衛の為の戦いは自衛隊でなく在日米軍がやってくれます。だから日米安保があるのです。何の為の日米安保ですか?何の為に在日米軍に何十億円も払っているのですか?

例えば私はアメリカ軍が軍事行動をするのはおかしいって思いません。

例えばナチスドイツや帝国日本軍を連合軍が叩き潰さなければ今頃世界はどうなっていましたか?ユダヤ人や朝鮮人中国人は絶滅させられたかもしれない。が、だからと言って自衛隊がアメリカ軍やロシア軍みたいに戦える訳はありませんよ。自衛隊にそんな能力はありません。

よく考えてください。過去の日本人の「侵略戦争」の罪と罰です。

過去は過去という訳ありません。過去の日本人による罪と罰は妄想で過去の日本人や皇室天皇をヒーローやヒロインにしても変わらないって思っています。

「八紘(はっこう)一宇(いちう)」(皇国日本が侵略されたアジアを救うという建前論)や「大東亜共栄圏」だの言って、アジア諸国を侵略したのはどこの何という国ですか?例えば日本人は過去の戦争を「被害者」として語ります。が、本当に小林よしのりや櫻井よしこがいうような「過去の日本人」は「被害者」だったのでしょうか?

「新しい歴史教科書をつくる会」という右翼集団の教科書を横浜市の8区で採用していいのでしょうか?

確かに神風特攻隊や回天特攻隊やひめゆり学徒隊や広島長崎の原爆や沖縄戦やシベリア漂流など悲惨でしょうか。東京大空襲など悲惨です。

またエノラ・ゲイ(広島に原爆を落とした爆撃機)の元・乗組員のモリス・ジェンプソン氏(故人・87)がいまだに「原爆投下は戦争早期終結の為に必要だった」などという。確かに彼の立場ではそう言い訳するしかありません。だが原爆など投下しなくても戦争早期終結はなったと思います。

当時の日本は焼け野原です。誰しも戦う気力すらありませんでした。当然一部の軍人は竹槍でも戦うのであろうが、象に立ち向かう蟻です。が、では我々自身は日本人は被害者だったのでしょうか?何もしていないのでしょうか?

違います。

それから悲惨な体験を語り継ぐべきです。

また河村たかし名古屋市長が南京大虐殺を否定するなどとんでもないことです。確かに30万人のクレデビリティはわからない。が、戦後75年も経って今更蒸し返しても利益はありませんよ。まずは侵略戦争での謝罪と賠償金です。わかりますか?ならいいですね。

頑張ってくださいね。それからですよ。

まあ、韓国にも中国にも戦後賠償や謝罪はおわっているのですがね。中国には戦後賠償の代わりに、政府開発援助(ODA)を40年間で3兆6500億円払い、謝罪もおわっています。韓国には1965年の日韓基本条約で、韓国政府に5億ドル(1860億円)を戦後賠償の代わりに払い、謝罪もおわっています。「歴史を学べ」みたいな話なんです。


準備および戦場の状況

日本軍の状況


5月上旬時点での参加兵力は、第15軍の下記3個師団で計49600人、その他軍直轄部隊など36000人の総兵力約85000人であった。7月までの総兵力は、約90000人と見られる。ただし、チンドウィン川を渡河したのは2/3の約60000人に限られ、残りの人員は後方に残っていた。ただ、そのうち主力の一角の第15師団は、ビルマへの到着が遅れており、迅速性が要求される本作戦成功の障害となっていた。これは、本作戦に反対する稲田南方軍総参謀副長が、同師団にタイ方面の道路整備作業などを割り当て、故意にビルマへの前進を妨げた影響であった。

インパール作戦には、イギリス支配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれていたことから、インド国民軍6000人も作戦に投入された。

長距離の遠征作戦では後方からの補給が重要であるところ、当時の第15軍は自動車輜重23個中隊、駄馬輜重12個中隊の輜重戦力を持っており、その輸送力は損耗や稼働率の低下を考慮しなかった場合、57000トンキロ程度であった。しかしながら実際に必要とされる補給量は第15軍全体において56万トンキロ程度と推計され、到底及ぶものではなかった。なお、自動車中隊は、当時のビルマ方面軍全体でも30個中隊しかなかった。

この点は第15軍としても先刻承知の上であり、事前に輜重部隊の増援を要求したものの、戦局はそれを許さなかった。第15軍は150個自動車中隊の配備を求めたが、この要求はビルマ方面軍により90個中隊に削減され、さらに南方軍によって内示された数に至っては26個中隊(要求量の17%)へと減らされていた。しかも、実際に増援されたのは18個中隊だけにとどまったのである。輜重兵中隊についても、第15軍の要求数に対して24%の増援しか認められなかった。第15軍参謀部は作戦を危ぶんだが、牟田口軍司令官はインパール付近の敵補給基地を早期に占領すれば心配なしと考え、作戦準備の推進につとめた。


連合軍の状況


連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に、約15万人がこの地域に配備されており、オード・ウィンゲート准将のコマンド旅団が、ビルマ地域の日本軍の脆弱な補給線の破壊活動の分析を行い、また、暗号解析などにより1944年2月頃までに日本軍が三方向より侵攻する攻撃計画の全容を把握していた。そこで第14軍司令官スリム中将など連合軍司令部では、重火器装備をそろえた上で、空輸作戦による補給体制を確立する一方、英印軍部隊をインパールまで後退させつつ防御戦闘を行うことで後方兵站部隊の脆弱な日本軍を疲弊させ、その進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻に移る作戦を固めていた。

もっとも、ウィンゲート旅団参謀長だったデリク・タラク少将は、上記のインパールまでの後退が第14軍の作戦通りだったとする多数説には懐疑的である。タラクによれば、1944年2月末時点でも確固たる作戦計画が無かったのが実情だったという。


地理的状況


この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。

「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパールを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。

このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。



インドシナ半島の西に位置する国ミャンマー。かつてはビルマと呼ばれていました。

1944年に決行されたインパール作戦。ビルマからインドのイギリス軍の拠点インパールを攻略するという作戦でした。

インドとミャンマーの国境付近は現在も武装勢力がひんぱんに活動しているために今も外国人の立ち入りは制限されています。

ラム・ザ・チンさん(87)「日本軍の戦車のキャタピラのざんがいだよ。雨の日に地面に置くと滑らずに歩けるんだ。」

70数年以上前に日本軍が敗走したインパールから150キロの地点。かつては道もなく、周辺は少数民族の住居が点々としてある。

ヒューズィティーシング・ラオさん(85)「日本兵は向こうの川を渡り山を越えてこの村に来た」。

この周辺はイギリス軍の攻撃で約1000人もの日本兵が死傷したという。

現地人「この辺りには日本兵の霊がさまよっている。軍服を着た日本兵をよくみかけるが近づくと消えてしまう」

ペウ・カヌ・カップさん「多くの村人は70年以上前に突然やってきた日本兵のことを覚えている」

インパール作戦で13,577人の戦没者。どれだけ無謀であったか?(3万人のうちに日時ごとに戦死者をグラフ化したものがある)。

作戦は1944年3月11日に始まり2週間でインパールを攻略するはずだった。しかし日本軍はイギリス軍の猛攻により戦死者を大量にだしていく。~7月01日。インパールにさえ到達できなかった。作戦中止は開始から四ヶ月後………。

~12月31日(作戦中止後も死者→ほとんど病死や餓死)。戦死者の6割は作戦中止後の撤退中に死亡。無残な戦い。陸軍史上例をみない無謀な作戦を決行したのは牟田口廉也中将である。日中戦争のキッカケになった盧(ろ)溝(こう)橋(きょう)事件(1937年)では連隊長として作戦を指揮するなど強気な作戦参謀として知られていた。

牟田口中将の孫が(NHKの)取材に応じた。

牟田口中将の孫「父はアンチでしたが歴史資料として捨ててはいけないと思っていたんじゃないでしょうか。」

勲章や賞状や銀杯……「みたくはないけれど捨ててはいけない」

終戦いや敗戦から20年がたった1965年録音のテープ〝(牟田口がインパール作戦について語ったテープ)私の作戦の発起の動機は「大東亜戦争に勝ちたい」という一念にほかなりません。戦争成果の形勢が各方面とも不振である当時の形勢に鑑み、作戦指導如何(いかん)によっては戦争全方面を好転させたいとの念願をもっていたからである。〝




「またすいとん?」

物語は西暦一九四四年(昭和一九年)一月十五日晴れの満州国・哈爾浜の近くの住宅から始まる。

主人公の名は齋藤博圀少尉で眉目秀麗な色男で、十八歳である。

背は高い方ではないがきりりとした眉をした痩せた体に、短い坊主の髪型で、浅黒い肌である。このひとこそこの物語の主人公である。

父親はすでに先の支那事変で戦死している。リビングというか仏壇には父親の遺影がある。

母の名は、こう、といい、病弱で、ほぼ寝たきり状態である。

博圀には三歳年下の妹がいる。

名を齋藤梅子という。十五歳。

美人な方であると思われる。兄に比べて少しおっとりしている性格で当時は当然ながらもんぺに袴姿で、髪をおさげにしている。家事全般があまり得意ではないが、母親の、こう、が、病気である以上、おさんどんは梅子がやらざる得ない。

梅子は洗濯は好きだが、料理や裁縫が苦手で、いつも同じような料理ばかりつくる。

だから、博圀は冒頭のセリフを吐いたわけだ(笑)。

一家の収入は父親の戦災保険と日本軍人である博圀の僅かな給料代だけであるが、極貧というほどでもない。

けっこう敷地にこぎれいな畑をつくり、晴耕雨読とまではいかないがなんとか食糧に困ることはない。

親戚には酪農をやっている人種もいる。

だが、時代は戦時下の食糧難の一大事の暴風雨の最中、である。

梅子は高校生だったが、挺身隊と呼ばれる皇国日本帝国の為の勤労奉仕までせねばならない。

一家は早朝の朝ご飯の時間帯である。

 開拓地を求めて、満州国(現在の中国東北部)まで来ていたのだ。

「お兄ちゃん、文句言うんだったら兄ちゃんが朝飯つくれば」

「ぼくは文句をいってるんじゃないよ。でも、すいとんは此れで一週間毎日じゃないさー、もっと料理のレパートリーを増やさないといけない訳、じゃないと梅子はちゃんとしたところに嫁にいけんよぉ?」

「余計なお世話よ、兄ちゃん。それよりお母さんに御粥食べさせてやって。親戚のおばさんに果物も頂いたから、それも…」

「そうかあ」博圀は言った。「でもぉ、お兄ちゃんも元・学生でね、今度、親友が〝学徒出陣〝で行くわけさー」

「え?ああ、山田直夫さん?そういえば赤紙がきたって…」

「ああ、今日の朝に出陣式が山田の家の前である訳よ」

「あの山田直夫の兄ちゃん、左脚が悪いのに学徒出陣とかで、赤紙かぁ」

「ああ、ぼくは一足先に軍人だからなあ。学徒出陣で、いきなり少尉」

「兄ちゃんもちばりゃんとねえ。日の丸と天皇陛下の為に戦わんといかんもんねえ」

母は咳をしながら「これ梅子、食べながら喋っちゃ駄目よ、行儀悪りいよう」と叱る。

「そうだぞ、梅子」

兄の博圀は冗談交じりに梅子を叱る。むくれる梅子。母と兄はそれがおかしくて笑う。

博圀の親友の山田直夫も元・五族協和の建国大学生で十九歳、ある。

ふたりはあわただしく朝食を済ませると、近所の山田直夫の家に急いだ。

もう「万歳! 万歳!」とやっている。

「山田直夫くんの御武運と御出征を祈り、ばんざーい! 万歳―!」

辺りのひとやおっさんやおばあたちが日の丸を振る。…立派になった! 敵をやっつけるんだぞ! …まさに狂気の出陣である。

山田直夫は齋藤博圀よりは一歳年上だが、同じ元・建国大学生だった。

生まれつき左脚が悪い体質だったが、痩身でこちらも眉目秀麗で、黒縁眼鏡が印象的な男である。軍服をきちんと着て、周囲に礼をしている。

「おう! 山田! 遅れたで、すまんちゃ!」

博圀と梅子は走り込んでセーフだった。

「博圀! 梅子ちゃん! 俺もいよいよお国の役にたてるさー」

「山田、出征地は決まってんのが?」

山田直夫は「決まった! どうも東南アジアらしいんだわ。ビルマ? だけど、どうもゲリラ部隊(遊撃隊)の副訓練官らしんだが」

「ゲリラ―? なんねそれ?」

「遊撃隊さー、長州藩の高杉晋作の〝奇兵隊〝みたいなもんさー」

「ああ、奇兵隊(笑)よく百年も前の話ばするっとねえ山田(笑)さすが日本史歴史学専攻さーねえ?(笑)」

齋藤博圀は冗談を言った。山田直夫も笑う。梅子は頬を赤らめながら〝千人針〝を渡した。

「ありがとう、梅子ちゃん。」

山田は白い歯をみせて笑った。

「俺の心配は親と幼い妹の篤子のことだよ」

「そうか。大丈夫だよ。あっちゃん(篤子)、今度疎開するんだろう?それにのう、……実はなあ、俺も〝東南アジア〝なんだ。山田」

篤子とは、山田直夫の可愛がっている小学生低学年の可愛い顔の妹である。

「あんちゃん!」

「篤子―! あんちゃん行ってくるぞ」

 山田直夫は妹の頭をぽんぽんとした。

今度、一九四四年一月二二日満州国からの疎開船で児童ら一四〇〇人を載せて港を出る。博圀は隠しておいた命令書をはじめて山田直夫にみせた。「え?おい!大丈夫かあ?齋藤?」

「ぼくも東南アジア! 軍神さまよ! 死んだおやじの仇をとる! 七生報國さ(七回生まれ変わっても日本國を守る)!」

「え? お兄ちゃん? え? そんなあ」梅子は驚くより呆れた。なんて勝手な兄だろう。

「齋藤。山田。」

その男の声でやっとふたりは恩師の小畑信良(建国大学教授五十三歳・のちのインパール作戦での参謀)の存在に気付いた。

「あ! 先生!」

「あ! じゃない」まるでタレントの武田鉄矢さんみたいなおじさんの風体のひとである。

これで建国大学の名物教授というからおそれいる。汚れた背広姿だ。

この小畑教授の師匠的な人物が『東条英機』『石原莞爾』である。

当時、戦争末期にどういう活動をしていたか調べたがあまりわからなかった。運悪く明確な歴史文献に出会わなかった。だが、一九四七年には死刑と病死しているひとである。

当時は相当の切れ者だったことだろう。

「君たちねえ、死んじゃいかんよ。生きねばねえ。人間生きてなんぼさー」

「それは…そうですが先生、あまり大声ではいわないほうが…」

「そうですよ。非国民扱いを受けますよ」

齋藤博圀と山田直夫はひそひそ声でいった。

「だまらっしゃい! 命は宝じゃぞ。」先生は訊く耳をもたない。

ふたりの教え子がおそれるのは近所の〝反戦のおじいさん〝こと長沼久左衛門おじいみたいになることである。

もう耄碌で、今でいう認知症(能軟化)で、ボケていて、とにかく「戦争反対」。

平和な時代なら、それもいいかも知れない。

戦争世代からみれば「勇気のある気骨もの」に見えるだろう。

だが、このおじいさん、発言が戦争の最中で、ある。

白髪の長い髪と髭で、なんとなくジャーナリストの徳富蘇峰みたいな風体だ。もう八十数歳のおじいさん、である。ボケていて、近所を徘徊し、「戦争反対! 戦争反対! はんたーい!」とクレイジーに叫ぶ。ボケていると知っている人間ならいいが、時代は戦争末期である。

「なんだとこの非国民!」

「非国民! 非国民!」

群衆は非国民長沼久左衛門おじいさん、に投石したり、罵声を浴びせかける。

齋藤博圀や山田直夫たちは「このひとは痴呆症(能軟化)なんです! 病気なんです!」と庇うが、庇いきれるものではない。

非国民! と投石の流れ石が額に当たって流血した齋藤博圀を介抱したのが、小畑信良先生の一人娘の綺麗な御嬢さん、宮城洋子(十七歳)、であった。

まさかふたりに愛や恋心が芽生えるとは当の本人たちも思わない。

だが、朱に交われば赤くなる、である。最近は長沼久左衛門老人は徘徊が酷くなり、行方不明状態である。ちなみに小畑信良ものちにビルマに赴任し、参謀として活躍する。

「齋藤さん、東南アジアだってねえ? だいじょうぶ?」

「心配ないよ! ぼくはお国の為に戦う! 鬼畜米英さー! 天狗どもは糞食らえ!」

「……勝てると思う?」

「……」

「うちのお父さんも言うじゃない?〝命は宝〝って。死んだらおわりじゃない?」

「ならどうしろと?」博圀は教授のひとり娘・小畑洋子に食ってかかった。

意味がない。どうせ答えはない。只、死なないで帰ってきて程度だ。

だが、その愛情が『犬死』をためらわせた。

「齋藤君には生きて戻ってきて欲しいの」

「しかし…」博圀は用事で寄った大学の校舎で泣いた。只々、小畑洋子が愛しかった。


 一九四二年(昭和一九年)米軍が大軍勢を率いてダガルガナルを攻撃。日本軍は銃を撃ち尽くし、食糧もなく、熱病や飢餓で玉砕。米軍は島づたいでやってきた。

ペルルゥ島、ニューギニア島、ルソン島、フィリピン島、パラオ、そして沖縄へ。一九四四年七月七日、サイパン島玉砕。日本軍は米軍の侵攻は何処からか? と恐れていた。硫黄島から本土へ? ニューギニア島から中国本土へ? それとも島づたいに沖縄へ?

 大本営の軍議は踊った。小田原評定もいいとこである。沖縄は、第三二師団軍がおさえていた。司令官は渡辺中将。本土を守るために沖縄を〝不沈空母〝とするため。沖縄決戦で、本土決戦を遅らせる為の駐軍だった。

七月に第三二師団軍は完成だったが、遅れた。そんな中、〝サイパン玉砕〝を知る。渡辺中将は悲痛極まりない様子で、沖縄各地の学校や公民館で「沖縄決戦」のことを「抗戦すべし」と訴えてまわった。県民を激励していくごとに沖縄人たちの不安は高まる。軍とは名ばかりの第三二師団軍はわずかな兵と弾薬のみ。頭があっても手足がない。渡辺「全県民一丸となって沖縄玉砕の覚悟を!」

新兵(学徒出陣)行列(第九師団、第二四師団、第二六師団…)

渡辺中将が死ぬと、八月八日、沖縄の司令長官には牛島満中尉が任命された。サイパン、ニューギニア島の戦いで『鬼の牛島』と呼ばれていた。参謀は塚原仕官、八島軍師官は米国留学の秀才である。

軍のパレード行列。日本人たちは日の丸を振って「がんばれー!」「勝てよー!」と拍手喝采である。日本人たちは興奮していた。

そののち、狂気の愚策・インパール作戦が一九四四(昭和十九)年三月に始まる。

その頃までに、齋藤博圀少尉も、山田直夫上等兵も、小畑も参謀として、牟田口廉也は司令官としてビルマの現地に着任していた。

牟田口たちは軍議を開いた。

「このビルマの地から二週間で、このインドの国境付近のインパールまで至ろう。補給も兵站も関係ない。短期決戦で、三週間で、インパールに至る。そこで、味方の兵隊を数万で、敵英国人兵たちを蹴散らし、一挙にインドも支配する。これを『インパール作戦』という!」

一九四四年三月、大本営直属でビルマにビルマ守護軍が創設された。齋藤博圀も所属となった。大勢の兵隊たちの前で牟田口廉也・陸軍大将(ビルマ軍司令官)がスピーチというか訓示を述べた。齋藤と山田もマイクの前で訓示を述べる牟田口廉也を整列してみていた。

「天皇陛下と皇国日本国のために死ぬ覚悟で戦え!」等という。

けっこう狂人的な人格だった。主賓席には後藤勝之進参謀や部下の中村や杉山、佐古らサングラスの秘密部隊がテントの主賓席で座って、したり顔で牟田口の訓示を聴いている。

あるとき、日差しがまぶしく、主賓席のテント内でも東南アジア特有の暑さ、で後勝は不快な顔をした。兵士の小間使いのような者が冷えた水をもってきたが、兵隊たちの列の横で眩暈をおこして崩れた。齋藤や山田の横だったために、

「だいじょうぶか?」

と起こしたが、後藤勝之進参謀は激怒して鞭を打った。「貴様! たるんどるぞ!」

「やめてください! まだ少年です!」

齋藤博圀や山田直夫が庇ったが、考えてみればその眩暈で倒れた少年がのちの少年兵士だった訳だ。後藤勝之進参謀はふん、と不敵な笑みを口元に浮かべて、

「貴様ら、名は? 無冠ではあるまい。名前と兵隊の位をいえ!」

「はっ! 齋藤博圀、位は一応少尉であります! 学徒出陣です!」

齋藤・山田は敬礼をした。「同じく、山田直夫上等兵であります! 学徒兵士です!」

後藤勝之進参謀は「ほう。学徒の大学生か?! 私は帝国大学卒の兵士、後藤勝之進参謀だ!いいか、覚えておけ、敵軍兵士を一〇人殺したら貴様らも死んでいい。私や上官からの命令は天皇陛下からの命令と心得よ!」

「…は、はっ!」

ふたりは敬礼し続けた。貴様らも…? も?

すると驚愕した。後藤勝之進参謀は眩暈を起こして倒れていた少年兵士の頭に弾丸を撃ち込んだ。

「なっ!」ふたりは驚愕し、声を上げた。

「ふん! 虫けらめ! 少しは刃向ってくると思ったが、くだらん」

後藤勝之進参謀は不敵な男であった。

齋藤博圀たちは手も足もだせない。後藤勝之進参謀はいわゆる今でいうイケメンであり、痩身で、軍部の制服を着ている。若い年代だ。部下たちは意味ありげなサングラス制服部隊である。

だが、齋藤博圀や山田直夫たちには、憎しみ、だけが残った。

天皇陛下の為に戦う、のは当たり前だが、あの後藤勝之進参謀の為に死ぬのは御免だ。

怪しげな〝闇の陰謀家〝のような後藤勝之進参謀たちは姿を消した。

東南アジアでは日常茶飯事のスコールの雨がふってきて大雨になった。齋藤は大声で、

「わあああぁーつ!」

と大声をあげて少年兵の遺体にすがった。

まるで天が泣いているが如し、で、あった。

話を戻す。




 明治天皇は紙に主色のペンで、〝裕仁〝と書いた。

 それが病弱な嫡男の皇太子(のちの大正天皇)の嫡男の名前である。

 昭和天皇(裕仁)は、一九〇一年(明治三十四年)、四月二十九日に産まれた。父は大正天皇となる皇太子である。その他に妻(良子・香淳)、弟君が擁仁、宣仁、崇仁といる。こののちの昭和の息子が平成天皇明仁(皇后美智子)常陸宮正仁(妻・華子)であり、孫 徳仁(妻・雅子、子・愛子)秋篠宮文仁(妻・紀子、子・眞子、佳子、悠仁)紀宮清子(05年、民間に嫁いだ)などである。(妻(良子・香淳)平成12年6月16日死亡享年97歳) 昭和天皇が生まれたとき、時代は混沌としていた。苦悩する世界。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。

「私は天皇家の長男として生まれた。殿下の希望の天皇にもなった。父は非常に有能なひとであった。が、病弱ですぐに風邪をおひかれになられた。父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、日本の経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」

 1908(明治四十一)年四月、裕仁は学習院初等科に入学した。院長は日露戦争の英雄でもある乃木希典陸軍大将である。

 十歳頃になると、もう帝王学を習いはじめ、事務や税務、事業、憲法、もろもろの〝いろは〝を手ほどきをさせられた。会議、部下からの報告、打ち合わせ、中学生になるともっぱら事業で一日が過ぎてしまったそうである。

 大正天皇は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。

 皇后は、クラシック音楽が好きで、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。日本では第一号であったという。

 1912(大正元年)年、明治天皇が崩御した。それにあわせて乃木将軍は夫婦で後追い自殺を遂げている。裕仁の父は天皇……大正天皇となり、裕仁は皇太子となった。

 あわせて陸軍少佐にもなっている。

 裕仁は東宮学院で帝王学を学んだという。教えるのは東宮御学学問所総裁東郷平八郎である。帝王学と軍事兵法……

 1921(大正十)年、昭和天皇は皇太子としてヨーロッパを視察した。船でいき、第一次世界大戦後のヨーロッパをみてまわった。オランダ。ベルギー、イギリス……

 立憲君主として学ぶためだった。

 しかし皇太子は「……本当にこれでよいのだろうか?」と思っていたという。

 1926年(昭和元年)、つまり病気だった大正天皇が崩御して、皇位を継承した。元号は昭和となり、裕仁は昭和天皇となった。

 視力が悪くなり、眼鏡をかけ、国民の前にも姿を見せない。そんな天子さまは軍事色に染まっていく……

 1930年(昭和5)年4月、ロンドンで軍縮会議が始まった。このとき、「相当権干渉」と日本軍部が騒ぎ始めた。この頃から熱しやすい軍部と日本国民は軍事色の波にのまれていく。それはドイツでも同じであった。

  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。

 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。

 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。

 そして、〝宣伝〝という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。

 しかし、それはまだ先の話しだ。

 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。

「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。

 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!

 ヒトラーは屈折していく。

 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部〝己のため〝である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。

 そして、ヒトラーは〝武装蜂起〝を考えた。

 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……

 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。

 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。

 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!

 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!

  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。

 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。

 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。

 ヒトラーは意を決する。

「よし、〝武装蜂起〝だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。

 ナチスは人々に〝今日と明日のパン〝を約束した。輝かしい未来、〝ドイツ第三帝国〝をも……人々の飢餓に訴えたのである。

 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。

「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」

「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」

「売国奴! 楽隊、〝ホルスト・ヴェッセル〝をやれ!」

「ナチスを黙らせろ! 楽隊〝インター・ナショナル〝だ!」

 まさにカオス状態だった。

 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。

「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。

 ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」

「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」

「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。〝今日と明日のパン〝〝輝かしい未来〝をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」

 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」

「うむ」

「まず、人間の〝値札〝に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「〝値札〝とは人間のそれぞれのもつ欲求です」

「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。

「そうです。ある人間にとっては〝金〝でしょうし、また〝正義感〝、〝名誉〝、〝地位〝、〝女〝〝豪邸〝……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」

 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。

 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。

「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」

 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。

 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。

 一九三三年、ナチス・ヒトラーが政権を奪取…

 一九三六年、ドイツ軍非武装地帯ラインラント進軍…

 一九三八年、オーストラリア併合

 ……「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒトラー!」

  (ヒトラー万歳)という民衆がナチス式敬礼で興奮状態だった。


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