第21話 聖女様、再訪する
テレシアさんは豚骨ラーメンを平らげた後、言葉を発することもなく、覚束ない足取りで店を去っていった。
魂が抜けたような、ちょっと火照ったような面持ちが印象的だった。
……やっぱり聖女様には合わなかったのだろうか?
まあ清廉な人だしな。
オークの豚骨ラーメンはその対極にあるような料理だ。
合わなかったけれど、残すのは悪いと思って全部食べてくれたのだろう。だとすれば気を遣わせて申し訳ないことをしてしまったな。
頭の片隅にテレシアさんのことが残ったまま、俺は翌日以降も営業を続けていた。
今日も夜になると高架下まで屋台を引いていった。
その日はドロシーさんが来店していた。
「やっぱり飲んだ後に食べる、君の作ったラーメンは最高だね」
ドロシーさんはラーメンを完食した後、ご満悦にタバコを吹かしていた。
「――飲んだ後に〆の豚骨ラーメンを食べ、ゆっくりとタバコを吹かす……。これに勝る幸せがあるだろうか?」
いいやないね、と一人で呟いていた。
「なんでその生活で太らないんですか?」
ドロシーさんの体型はスレンダーだ。
肌も綺麗に見える。
普段の生活を聞くと、奇跡的なことのように思える。
「それはね、私が陰で努力しているからだよ」
「運動してるとかですか?」
「いいや、ただ単に朝と昼をほとんど食べていないだけだよ。一日一食なら、夜は好き放題しても体型をキープできる」
「健康に良くなさそう……」
栄養バランスも偏ってるだろうし。
「豚骨ラーメンの屋台を出してる俺が言うことじゃないですけど、たまにはちゃんとしたものを食べた方がいいですよ」
俺はさすがに心配になって告げた。
「何だったら休みの日とか、作りにいってもいいですし」
「お、それは遠回しなプロポーズかな?」
「え?」
「別に構わないよ、私は。君と過ごす生活なら退屈せずに済みそうだ。それにこう見えて意外と尽くすタイプなんだ」
ドロシーさんはタバコを咥えたまま、口元だけでニヒルに笑う。
「からかわないでくださいよ」
「からかってるわけじゃないさ」
「またまたー」
「マジマジ、大マジ」
「酔いすぎですよ」
「意地でも躱そうとする、強い意志を感じるね。つれないなあ。君はまだ私の魅力を十全に理解していないようだ」
そこでふと、ドロシーさんの動きがぴたりと止まった。
「――む。誰か外にいるみたいだね」
そう言うと、背後に振り返り、暖簾を掻き分けた。
「っ!?」
すると、人物が現れた。
俺たちに見つかると、ぎょっとしたような表情を浮かべる。
「テレシアさん?」
そこにいたのは聖女のテレシアさんだった。
「もしかしてまた食べに来てくださったんですか」
「……い、いえ。別にそのようなことは。たまたま通りがかっただけです。豚骨らあめんを食べたいなどとは全然全くこれっぽっちも」
そう言いながらも。
ちらちらと視線はスープの入った大鍋の方を向いていた。
頬を赤らめ、興味津々というように見える。
「立ち話もなんだし、まあ座りたまえよ」
ドロシーさんは隣の席をぽんぽんと叩いて促した。
テレシアさんはしばらく逡巡した後、席に腰を下ろした。
「以前、らあめんをいただいた時、お礼も告げずに店を後にしてしまい、店主様には大変なご無礼を働いてしまいました」
「いえ、そんなことは全然」
と俺は言った。
「むしろ、お口に合わなかったのに気を遣わせて完食してくれたのかなと、こちらの方が申し訳なく思ってました」
「……衝撃でした。この世にあれほど下品極まりない食べ物があったなんて」
「はあ」
「そして、それ以上に驚きました。下品極まりないあの豚骨らあめんを、これほどまでにまた欲している自分自身に」
テレシアさんは恥ずかしそうに呟いた。
「あれ以来、寝ても覚めても忘れられないのです。もう一度食べたい、濃厚な豚骨臭に身も心も支配されてしまいたいと」
そして自身を戒めるように表情を引き締めた。
「……ですが、私は聖女。自分の欲に支配され、快楽に溺れてしまうなど言語道断。常に自らを律し続けなければなりません」
「真面目だなあ、君は」
隣にいたドロシーさんがそう口を挟んだ。
「食べたいんだろう? なら、思う存分食べれば良いじゃないか」
「し、しかし……」
「人生は一度きりだ。後悔しないように生きなければならない。今際の際に食べたいと思っても、もう遅いのだから」
ドロシーさんは言った。
「君は聖女の身分でありながら、下品極まりないオークの豚骨ラーメンを、これでもかと言うほど啜りたいんだろう?」
「は、はい……」
「なら、その欲求に素直に身を任せれば良い」
ドロシーさんはテレシアさんの肩に優しく手を置いた。
それに、と続けた。
「君は聖女として、これまで散々欲求を律してきた。偉いじゃないか。少しくらい自分を甘やかしてもバチは当たらないと思うよ」
「……」
テレシアさんははっとしたように目を見開いた。
そしてしばらくした後、覚悟を決めたように口を開いた。
「店主様」
「はい?」
「……くっさいのを」
「え?」
「とびきりくっっっっっっさいのをお願いします……」
「あ、あいよぉ!」
俺は豚骨ラーメンを作ると、テレシアさんの前に丼を差し出した。
「くっっっっっっっっっさ……♡」
テレシアさんは濃厚な豚骨臭を前に、今にも昇天しそうな表情をしていた。強烈な匂いに悶絶しそうになりつつも、どこか嬉しそうだった。
「んんっ……あはぁっ……!」
はふはふ……ずるずるずる。
これでもかというほどに下品に啜っていた。
聖女とは思えない、獣のような食べっぷり。
けれど内に滾った欲望を解放させたその姿は、不思議と美しく見えた。
豚骨ラーメンを全て食べ終えた後、両手を合わせてごちそうさまと呟いた彼女は、まるで果てた後のように晴れ晴れとしていた。
「罪……とんでもない罪の味でした……。けれど、なぜでしょう? どこか清々しい心地にもなっています……!」
しみじみと呟いたテレシアさん。
そしてドロシーさんに向かってお礼を述べた。
「こんなに楽しい気持ちになれたのは、生まれて初めてです。これも全てあなたが背中を押してくださったおかげです」
「人生、楽しく生きたもの勝ちだよ」
ドロシーさんはタバコを吹かしながら、事もなげに呟いた。欲望に忠実に生きているので説得力が凄いなと思った。
「けれど、まだまだ欲望の解放の仕方が甘いね」
「え?」
「君はどうやら、相当欲求不満のように見える。このままではいずれ、爆発して取り返しのつかないことになるかもしれない」
「それはそうかもしれません。しかしどうすれば……?」
「簡単なことだよ。適度にガス抜きをすればいい」
ドロシーさんはテレシアさんに向かって、ふっと微笑みかけた。
「私が本当の欲望の解放の仕方を教えてあげよう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます