第三十六幕 日付変更線
日付が変わって、時計の針は午前零時半を指した。いよいよ始まるときだ。
野口さんは、薫を起こさないように心配りしたのか、病室の窓際にパソコン用の台を作ってくれた。なぜか、彼は先ほどから樹氷の画面に目が釘付けとなり、そのときが来るのをただ待ちわびている様子だった。
根本さんたちの樹氷の里へ冒険する光景が、画面に映し出された。俺もちらっと視線を送ったが、神々と対面できるのは、あと少し先なのだろうか……。
「沢渡さん、始まったよ。はやくおいで」
「ありがとうございます」
彼の誘いを聞いて、寄り添っていた薫のそばを一旦離れた。
思っていたよりも、色鮮やかに見えた。映像や音声もリアルタイムで届いてきた。まるで、小百合さんと根本さんがそばにいるようだ。これは、彼女のカメラが送ってくれたライブ映像だろうか。それとも彼のものだろうか。
画面には、黒いシルエットの山並みと静寂に覆われる白銀の森が映っていた。森に立ち並ぶ樹氷は、雪に覆われたクリスマスツリーのようだ。
最初に目を引いたのは、透明度の高い宝石や水晶みたいな氷華の世界だった。画面を見ながら先のことを想像すると、胸がドキドキした。でも、同時に、少しだけ悲しくてやるせない思いが心にのしかかってきた。
根本さんたちから届く美しい映像と音声の世界に無心となり、のめり込んでいた。まるでそこを自ら歩いているようだ。
光る六角形の氷の塔が虹色に煌めき
白い絨毯に氷華が咲いて風に舞い散る
夢見るような世界に迷い込んで
空を見上げれば雪風の歌声が聞こえる
寒さも忘れてただ見惚れている
氷の舞に心奪われて呟くひとりごと
美しくも儚い森には、氷の塔が立ち並び、彼らが手にするランタンに映えて虹色に輝いている。白雪の上には、氷の華が咲き乱れている。時おり吹く風に乗って、それらは空へと舞い上がり、星空に溶け込んでいく。
思わず空を見上げた。耳を澄ませば、しんしんと冷え込む風音が聞こえてくる。凍てつく寒さが体を襲っても、俺は気にも留めなかった。この場所から動きたくなかった。昇華する氷の舞に心を奪われて、ひとりごとをつぶやいた。
「なんて美しいんだろうか……」
俺は言葉に詰まった。それ以上言葉にならなかった。自然の美しさに感動しても、それを表現するには不器用だった。自分など、大自然の前ではちっぽけな存在に過ぎないと思うと、恥ずかしくなった。
隣にいる野口さんは、自分の顔をじっと見つめている。樹氷について詳しかった。
それは、神々からの贈り物とも言える氷と雪の芸術品で、人間の手が触れられない場所でしか見られないものだという。樹氷が見られる場所は、世界中を探しても数えるほどしかなく、温暖化の影響で危機に瀕しているという。
そんなことを話してくれたが、彼自身はどう思っているのだろうか。樹氷を見て、何を感じているのだろうか。
「野口さん。これが、神々の棲む里ですか」
「いや、まだだ。ここは、駐車場から雪原に入ったばかりだろう」
やはり、根本さんたちが神々に出会えるにはまだ時間がかかるらしい。俺は野口さんの話に興味深く聞き入った。さらに樹氷にまつわる様々な知識を披露してくれた。
古代ギリシャ人が樹氷の森でクォーツの結晶を見つけた際に、「神の氷」と呼んだという。俺にとって新鮮な話だった。
人の命よりも長く続く氷に、彼らはどんな夢や希望を抱いたのだろうか。その話には胸が締め付けられるような気持ちになった。
やはり、十和里山伝説「命をつむぐ時計」の舞台は、幻となる樹氷の里だ。根本さんたちが神々を求めて奥に進むにつれて、樹氷の数が多くなり、そのサイズも大きくなった。もう、画面から目を離せなくなった。
彼らの音声や梢から届く自然の音色を漏らさないように、聞き耳を立てた。暗闇の中に浮かぶ樹氷の姿は、神々の化身のような形をしていた。ライオンや魔神や恐竜など、想像力をかき立てられるものが次々と現れた。
それらはまるで生きているかのように見えた。恐怖と畏敬の念を抱いた。野口さんはそれらをスノーモンスターと呼んだ。
突然、薫のことを思い出した。彼女が元気なら、この光景を見て喜ぶだろう。きっと、エビちゃんのしっぽや座敷わらしと言って、笑顔で見つめるだろう。
「野口さん、本当にきれいですね」
「いや、これからもっとすごくなるよ」
野口さんも以前に訪れたことがあるのだろうか。真冬の雪原というのに、周囲を夜光虫のような輝きが乱舞して画面に映り込む。俺には初めて見る景色だ。彼は、ヘッドライトが銀世界に乱反射を起こしているのだと教えてくれた。
言われてみれば、カメラが揺れ動くのか、彼らの足元を映し出す。ピンク色のスノーシューが見えた。色合いからして、小百合さんのものだろうか。
今夜は雪の状態が軽いのか、樹氷の間を縫うように歩いて行くらしい。スノーシューを装着していれば、重い荷物を背負っていても、ちょっとやそっとでは沈まない。アイゼンのツメを効かせながら快調に登れるそうだ。
彼らの足元から、ギュッ、ギュッと雪を踏みしめる音や俺たちには聞かせたくない内緒話の声まで鮮明に届く。
お父さん、もっと先だよね。この方角で正しいの? 方向音痴だから心配なんだ。なんで、母さんのことを好きになったの?
これは、きっと根本さん親子のやり取りだろう。彼の顔は映っていないが、返事も出来ないところによると、困っている様子が手に取るように伝わってきた。
どこからか、鈴の音色も聞こえて来た。チリーンチリーンと長く響き渡ってくる。けれど、俺たちの病室からではなかった。
ときどき、強い風が吹いているのか、画面上の視界がザザーと見えなくなる。野口さん曰く電波まで妨害するホワイトアウトだという。ひとりだったら、泣きそうになってしまう状況なのだろう。
彼らは手を繋ぎながら、樹氷の森を歩いている姿が画面に映し出されている。そうした親子の仲の良い仕草が時折映り込むと、見ている方が少し恥ずかしくなる。
画面に映る景色は樹氷だけでなく、雪に覆われた山々や谷間も幻想的だった。深夜というのに月に照らされる雲がはっきりと見え、その動きはかなり速い。
時おり、雪が白い蝶のように舞うが、彼らは目的地へ向かう歩みを一度も止めなかった。
「あそこに見えるのが、樹氷の神が棲むところだ。一度来たから知ってるんだよ」
根本さんが指さした先には、石畳の階段があった。それは深い谷に囲まれた神秘的な空間で、彼らは滑らないように一歩ずつ近づいていく。
その奥には断崖絶壁が控えており、聖堂は人目を避けるように青白く輝く氷瀑で覆われていた。氷の裏手に入ると、小さな建物が見え、その中に「命をつむぐ時計」の持ち主となる神々の棲み家があった。
俺の心の中で、どこかでこの光景を見たことがあるような気がした。やはり、自分の心の中では、彼らとずっと一緒に歩いていたのかもしれない。
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