第8話 酒場
僕はただ、次々に開けられる大きなジョッキを洗ってはカウンターへと戻す。シェリルの店での仕事はそれに尽きた。
「カテナ! 間に合ってないよ! もっと急いで!」
五つのジョッキを抱えて、シェリルは大勢の客の間を縫って酒を運ぶ。あちこちから威勢のいい、大男たちの声が飛んでいる。それぞれ、つばのない帽子を被っていた。
「坊主、それが終わったらピッツァを三枚とカモのローストを、あのテーブルへ運んでくれ」
そう言って額に汗を流すのは、シェリルの叔父だというグスタだ。赤茶けたあごひげが、その身体の逞しさを増して見せる、長身の男性だった。
なんとかジョッキを洗い終えた僕は、不器用に椅子の間を抜けては料理を運ぶ。たちまち、
「なんだ。新しい雇い人か」
「そんな細い身体でジョッキが持てるのかい」
あちこちで冷やかしの笑いが起こる。とはいえ、誰もが人は
カウンターとテーブルを何往復もする。酒場は当然、酒の匂いに満ちて、それだけで酔いそうだった。ウルスヴの酒の何倍も強そうな酒だ。大柄の客たちは、それを次々と空けてゆく。
忙しさが落ち着いたのは壁の時計が十一時――僕の世界の感覚で――を周った辺りで、今は腕自慢の男たちが大きな樽の上で腕相撲に興じていた。皆が皺くちゃの紙幣を投げている。賭けが行われているのだろう。僕は開いたジョッキをカウンターへ運ぶ。
「坊主。カテナと言ったな。珍しい名前だ。どこの国から来た。黒髪のところを見ると、ヤハンナかソウズか」
シェリルはグスタに僕のことを詳しく伝えていないようで、彼は首にかけた手拭いで汗を拭き、小さめの樽に腰掛けると、
「ニッポンっていう――小さな島国です」
すると、
「聞いたことないな。まあ、この世界、名前のない島はいくつかある。そのどこかだろう。もしも国に帰りたくなった時は、その辺りに詳しい貿易商に頼むといい」
彼は煙を吐き出した。
店が終わるのは時計の針がてっぺんで重なった時で、あちこちに酔いつぶれた客が突っ伏している。それを起こして回るのはシェリルの役目のようだ。
「ほらガルム! 早く帰って嫁さんに謝りな! スウォンも一緒だ!」
僕は大量の食器を片付けながら、その様子を横目に見る。帰りが遅くなって母に起こられる時の自分を思い出していた。
僕のいなくなった世界では何が起こっていたのだろうと考える。ウルの森から三日ぶりで戻った僕に、教室は平然としていた。何もなかったように。『いないことが当たり前』の世界になるのかと思えば、僕が消えた世界ではその間も存在が認識されていたということになる。來未が亡くなったことは現実として残したまま――。
その瞬間、僕の頭には恐ろしい事実が過った。來未は転生していないのかもしれない。どの世界にも。
そんなはずはない。彼女は生前、力強く言ったのだ。
――「魂はね、死なないの。この世界の肉体が滅びてしまっても、魂だけは別の世界で生まれ変わって新しい人生が始まるんだ」
僕はその言葉を信じる。信じたからこそ、今ここにいる――。
クタクタの身体で椅子に座っていると、グスタが大皿を一枚、分厚い木のテーブルに運んできた。
「パスタは分かるか。この国じゃ庶民の食べる、ありきたりの食いもんだが」
見れば海鮮の豊富な、おいしそうな香りのスパゲティがあった。現世でのパスタと同じだ。
「おいシェリル、皿を持ってこい。それからワインの入ったジョッキを二つだ」
シェリルが言葉通りに皿とジョッキを持ってくる。グスタはそのジョッキの一つを僕の前へ置く。異世界と言うのは子どもでも酒を飲めるのがデフォルトなのか。かといって、ただで泊めてもらう身では、断ることは礼儀に反すると感じる。
「あの――いただきます」
僕は気づけばカラカラだったのどへ、赤いワインを流し込む。甘い液体がのどを焼きながら胃へ落ちた。素直に美味しいと思った。
グスタは満足そうに言う。
「若いのに、いい飲みっぷりだ。食ったら部屋へ戻るといい。水浴びをしたかったら、
エビのような、アサリのような、魚のような具材たっぷりのパスタを食べ終えると、すぐに眠気がやってきた。さすがに酔ったのか、二人へと礼を言い、あてがわれた部屋へと戻り、ベッドへ倒れた――。
翌日は言われた通り、朝日の昇る裏庭で水を浴びた。小さな滝のような、頭からシャワーを浴びるのにちょうどいい清流だった。まだ酒で火照ったような身体に心地よい。
開放的な気分に、素っ裸で――シャワーは素っ裸で浴びるものなのだが――身体を洗っていると、思わぬ影がやってきた。大きなカゴを抱えたシェリルだった。
慌てて後ろを向くと、
「ははっ。恥ずかしがってんのかい。男だって女だって、ついてるもんはついてる。気にせずにそのまま続けな。わたしはこっちで洗濯だから」
そういうものかと、恥ずかしがっている自分の方がおかしい気分になり、水浴びを終えた。もらった手ぬぐいで身体を拭くと、
「カテナ。アンタ下着があるだろ。これに着替えて、あとはこっちに回しな」
白い木綿のシャツと、トランクスのような下着を後ろ手に投げられた。
「終わったら朝ごはんにして、今日は教会まで案内したげるよ」
彼女は洗濯物を勢いよくパンパンと鳴らして渡したロープへ干し始めた――。
グスタは店の時間しかやって来ないといい、朝食はパンとスープとミルクも出された。この国のパンは酸味があって、外国のパンの味だと思った。決して、美味しくない訳ではない。
「教会には、いろんな人が集まる。カテナの探している恋人も、もしかして同じことを考えているかも知れない」
いつの間にか恋人にされた來未のことを、彼女は気にしてくれる。この世界で出会ったのが彼女でよかったと心から思った。
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