第6話 異世界② メールン
何も変わらない家が待っていた。妹はソファーでスマホを眺め、母は食事の支度に追われ、父は仕事から帰っていなかった。
二階の部屋へ戻れば、そこには來未と映ったフォトフレームがある。学校の仲間と他愛もなく映した写真だ。
クジュヌにもらった腕輪を並べ、現実と夢とが重なり合う時の中で、しばらく夢想していた。この世界に、來未はいない。僕の記憶だけが、そう物語っている。
腕輪を見つめ、もう一度、彼の言葉を思い返す。しかし、
机に伏して、何も考えきれない心をそれでも一つ一つ整理してゆく。僕はまた、異世界へ旅立たなければならない。もう一度、あの恐怖を思い出し、全身に走る痛みに耐えて、越えて行かなければならない道がある。どこかのビルから飛び降りようか。目の前に見えるカッターナイフで喉元をかき切ろうか。考えつくのはそんなことばかりだ。そもそも、最初の転生のきっかけが分からない。僕はいつ、どこで死んだのだろう。
王城で出会ったギンハは言った。死ぬときは
一階からの声に下りて、リビングで夕食を取る。妹のナズナがスマホを離さないので母がそれを叱る。父が帰宅する。いつもの光景。
風呂場へ向かうと、身体から微かに香草の匂いがした。幻ではなかった三日間。人に必然があるとすれば、僕はもう一度、転生するはずだ。そう言い聞かせながら髪を泡立てた――。
夢を見た。見知らぬ町の片隅で、僕はスマホを片手に、來未の写真を見せながら人々に訊ね回っていた。この子を見かけなかったかと。しかし夢は夢で終わり、暗闇の部屋で目を覚ますと頬に涙を感じていた。僕にとって彼女がどれだけ大きな存在だったのかを知る。
そんな日々が夜ごとに続く。僕は様々な夢の中で疲弊しきっていた。彼女と再会して抱き合ったこともある。けれどそれは目覚めと共に立ち消えてしまう幻想だった。
現実へ戻って五日目の通学路。交差点の横断歩道でふらりと車道へ歩み出たのは、もはや衝動的なものではなかった。強い意志を持った行動だった。車のクラクションが響く。信号待ちの通学生徒たちが甲高い叫び声を上げるのが分かった。そして僕は王城に続く長い列の中にいた。
ようやく叶った願いに、やはり現世での死が転生に結びつくのだと知る。誰もがそうであるとは限らないかもしれない中で、僕にはその資格があるのだ。これで何度でも、彼女と再会するまで転生は繰り返されるのだ。百回、千回、一万回――その覚悟を僕は心に決める。
ギンハが教えてくれたように、二度目の転生は王城の通路を右に曲がり、誰もが壁に描かれた壁画の前に立っていた。空間は五百人が集えるほどの大広間。中央には紫色に光る宝玉のようなものが飾ってあり、一メートル四方の壁画には抽象的なレリーフと、見たことのない文字のようなものが刻まれていた。人々はそこへ手をかざすと順に姿を消していくのだった。
僕は数えきれないほど並ぶ壁画の前で悩む。この中のどこかに來未の転生した世界があるのかと思えば、胸は高鳴った。
ふと、その中の一つに気になる絵がある。二人の人間が向かい合い、
しかし、手をかざした僕の身体はそのまま空間にピンで留められたように動かない。そこへ、
「アンタ、二回目か。最初に言われたろ。現世での思い出を一つ消すんだ。その人間を強く心に描け。そうすればどこかへ飛ばされる」
きつい口調の少女だった。つい訊ねてしまう。
「キミは――何回目の転生なの?」
彼女は言う。
「さあね。数えちゃいない。そういうことは、ここでは意味がないんだ。それよりアンタ、変わった腕輪してるね。『
僕はまた訊ねる。
「それは、どういうものなんですか」
「言い伝えだよ。その指輪を
逆境のリング。僕はその響きに期待を感じる。超えるべき逆境があるならば、僕はそれを越えてゆく決心をしたのだから。
そう言っているうちに、少女は壁画の一枚に手をかざし、姿を消した。いたるところでその光景が見て取れる。人々は、どんな思いを託して転生を続けるのだろう。そして誰を忘れてゆくのだろう。
小一時間、悩んだ。友人を裏切るのは忍びなかったが、
「ちょっとアンタ、そこどきな! ジャマなんだよ!」
時間の流れが分からない。分からないまま目の前の光景が変わったかと思えば、僕は人混みの中に立っていた。
押しのけられるように道の端へゆくと、そこは賑わう街中で、人々が
そこへ、明るい声がかかる。僕へ向けたものだった。
「ちょいとお兄さん、よそ者だろ。メールン名物のミートパイでも食べて行かないかい」
気のよさそうな、黒いスカーフを被った老婆だった。僕はまず、こう訊ねる。
「ここは、メールンていうんですか?」
老婆はニコニコと、
「ああ。城下ではいちばんの街だ。アンタ、くたびれた顔してるよ? これでも食べて元気つけな」
老婆は、薄い紙に包まれた焼きたての――香ばしく食欲をそそるパイをひと切れ差し出す。
「でも僕、お金をもっていないんで――」
思わず制服のポケットを探ったが、出てきたのはなぜか、家と自転車の鍵だけだった。そこで初めて、着ているものが学校の制服だと気づく。
老婆は言う。
「金? 金かい? ここメールンの街にそんなものはないよ。すべてのものは分け合って、誰もが豊かに暮らしてるのさ。アンタ、よほど田舎から出てきたんだね」
「そうなんですか――」
ならば、と紙包みを受け取ろうとした左手、クジュヌの腕輪が赤く光り始めたのに気づいた。そこへ女性の声が響く。
「やめときな、旅の人。その婆さんはタダで物を恵む代わりに、アンタの持ち物を勝手に一つ取り上げてゆく魔女なんだ」
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