Into the Lost Tokyo ―小さな研究者の旅―

げこげこ天秤

第1話

 雨が降っているのかと思った。




 夜に沈んだ部屋のなかに静かに響くノイズ。やがて、揺れるランプの灯りの向こう側で、雑音だらけの音楽が鳴り始める。酷く濁った音のはずなのに、どこか優しい――何かと尋ねると、レコードと言うらしい。

「ダウンロードじゃ手に入らないからね。このノイズは」

 部屋の主が、薄明りのなかで小さく笑みを浮かべる。大きなエプロンをしたボサボサの髪の男で、彼の声もまたしわがれたものだった。年は三十後半から四十手前だろうか。彼としては優し気に笑ったつもりなのだろうが、フヒヒという奇怪な笑みだったものだから、もし椅子に座らされていなかったのなら、私は一歩か二歩、後ろに下がっていただろう。

 けれど、目の前の男は、いまとなっては私の命の恩人。十数分前に危ないところを救われ、いまは「まあ落ち着きなさい」と言われるままに振る舞われたコーヒーの黒と芳醇な香りを乗せた湯気の白を眺めている。

 私はマグカップの取っ手を掴む。けれど、それは人間の手ではなかった。もはや異形になり下がった腕が目に飛び込んでくる。顔を上げると、壁に取り付けられた鏡。そこに映る私の姿は、酷く歪なノイズそのものだった。さながら蜘蛛の化物。背中からは二対の肢が伸びている。

 ――対象を捕捉。これより掃討する!!

 ふと、十数分前に向けられた銃口のことを思い出して、私の前脚が震え始める。同時に、二発の銃弾を受けた左後ろ脚に痛みが蘇る。灰色のバトルスーツに身を包んだ人たちだった。必死に私は、敵じゃないと説明したけれど……

「私……元の姿に戻れるんですか?」

 懸命に口を動かして出そうとした言葉。けれど、私の口から出たものは、言葉ですらなかった。呻き声にも近い獣の出す音。それでも、男は私の言葉を聞き取ってくれたのか、自分のマグカップを片手にしながら肩を竦めて見せた。

「元には戻れないよ。残念ながらね。フヒッ」

「うぅ……」

「でも、灰服の奴らを欺くことはできる。そのために、ここに君を連れてきたんだ」

 喫茶『曼荼羅』。そう書かれた看板が、入り口に掲げられていた。男の名前は、貫観川ぬけみかわ惣衛そうえい。この喫茶店の店主だ。そのまま彼が闇に向かって仰ぐように手招きをすると、奥から一人の女の子が姿を現した。黒いニーソックスに、高校のスカート。黒いパーカーに両手を突っ込み、気だるそうな表情を浮かべる。

「紹介しよう。僕の自慢の助手アシスタント湖上こじょう風花ふうかくんだ」

 じゃーんと、効果音が加えられそうな調子で紹介した貫観川ぬけみかわ惣衛そうえい。対照的に、ただただ無表情に私に一瞥を投げる湖上こじょう風花ふうか。私は私で、湖上こじょう風花ふうかの身に付けるスカートが同じ高校のものだと気がついて、いまやある場所も分からなくなった心臓がドキリとする。

貫観川ぬけみかわさん。またよく分からない物を……」

「そうやって、ゴミを見る目で僕を見るんじゃないよ。君が欲しがってた人員アルバイトじゃないか」

「確かに、うちに人的資源リソースが足りないって言いましたけど、誰でもいいとは言ってませんよ。使い物になるんですか?」

「使えなかったら捨ててくれ」

「私はゴミ処理担当じゃないんですけど」

 深いため息。

 それから、目を細めながら私の方へと近づいてくると、まるで目の前にタッチパネルがあるとでも言わんばかりに、人差指を突き立てて、何かを書き始める。それが数式なのか、あるいは文字なのかは分からない。

 一体何をやっているんですかとは訊けなかった。物言わせぬ彼女の雰囲気が、それを許さなかった。代わりに、きっといま、湖上こじょう風花ふうかが対話しているのはこの世界そのものなのだろうと思った。そして、世界の情報を書き換えているんだと直感した。するとどうだろう。節足だった私の肢は、五本指を持つ人間の腕に戻り、足や身体も人間のものに戻っていった。

「たまにいるんだよ。世界に描画される姿形が、しちゃう子が」

 朝起きたら化物になっていた。そんなことが起きる世界。湖上こじょう風花ふうか自身は口にはしなかったが、昔は妖怪ってことにしてればよかったけど、現代社会じゃ無理だからね、と言いたげだった。

「どうして私が……」

「知らないよ。サイコロ遊びをする神様にでも訊いたら? 晴れて明日からアンタは貫観川ぬけみかわさんの奴隷ってわけだ。ドンマイ」

 ぶっきら棒な物言いだったが、湖上こじょう風花ふうかの口調には一切の憐憫が無かっただけに、私は背中を叩かれた気分になった。そして、決して私は運が悪いわけではない。命を救われたのだから、むしろ幸運なのだと私は考えを改める。それに彼女の言いまわしが、私にはどこかツボだった。

「奴隷って……。何させられるの?」

「――蒐集コレクト

 ただ一言。それしか、湖上こじょう風花ふうかは言わなかった。それでもレコードが奏でる陽気な音楽のなかでポツリと放たれた言葉には、不思議な魔力が込められていた。部屋を見渡せば、本棚にはぎっしりと本が敷き詰められ、壁という壁には骨董品アンティークの数々が飾られている。月球儀に、クリシュナ像に、古めかしいアコースティックギター……そのどれもが貫観川ぬけみかわ惣衛そうえいが蒐集した自慢の品であることに間違いなかった。

貫観川ぬけみかわさん。この子の名前、どうしましょうか?」

 そのうち、湖上こじょう風花ふうかはこんなことを口にした。何を言っているんだ。私には私の名前がある。そう抗議しようとしたが、そこで私は自分の名前が思い出せないことに気がつく。話を聞けば、化物に姿を変えた時に、名前を失ってしまったらしい。そんな私を命を救うのと引き換えにコレクションとして迎えるという貫観川ぬけみかわ惣衛そうえい。彼はコレクターだった。

「そうだなぁ。作品名は、藤間とうま未空みくとでもしようか。なぁに、君の本名のアナグラム――新しい君さ」




 西暦2042年。

 〈灰鉄色化事象ブラマンドゥカアント〉と呼ばれる現象が世界を襲った。


 第四次産業革命と同時に始まった原因不明の現象。これによって、あらゆるものが灰色に染まっていくことになった。そんな世界にあって、まだ残っている色鮮やかな物を集めてるのだと、貫観川ぬけみかわ惣衛そうえいは言った。



「ようこそ、喫茶『曼荼羅』へ。さあ、僕と一緒にこの店をカラフルにするのを手伝っておくれ」








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