閑話(1) 黒くて素早いアイツ
深夜、1人で寝ているとき、ふとエミリスは目を覚ました。
……何だろ?
何かが自分の髪をモゾモゾと揺さぶっているような違和感を覚える。
しかも、見えないので分からないが、それは動いているような。
確かめようと頭に手を遣る。
髪を梳くようにすると、そのナニカに手が触れた。
「???」
当たり前だが、それだけではよくわからない。
――そのとき、それは素早く動いて、彼女の鼻先に飛び乗ってきた。
視界の端にぼんやりと映るそのシルエットで、エミリスはそれが何なのかを瞬時に理解した。
黒っぽい色で平べったく、2本の長い触角が揺れている。
それがまさに自分の顔に取り付いているのだ。
「……ひ、ひいぃーーっっ!!」
背筋がぞくぞくとする感覚と共に、悲鳴を上げた。
それと同時に、慌てて顔を振ってその侵入者を振り落とす。
「あうあうあう……」
彼女は必死でベッドから飛び出して、隣の部屋で寝ているアティアスの部屋の扉を叩いた。
「あ、あ、アティアスさまっ! アティアスさまあっ‼︎」
エミリスのあまりの慌てぶりに目を覚ましたアティアスも飛び起きて、彼女を部屋に招き入れる。
「ど、どうした⁉︎」
「……で、で、出たんです!」
彼女は必死の形相で彼にしがみついてくる。
まずはそれをあやすように、背中を軽くぽんぽんと叩く。
「で、何が出たんだ?」
「あ、あの…………黒くて素早く動く……あの虫が……」
「ああ……。アレか……」
目に涙を溜めて必死で彼に訴えるその姿は、何でも落ち着いてこなす彼女がこれまで見せたことのない一面だった。
彼女の言葉から、何が出たのかはすぐ分かった。
暖かくなるとどこにでもよく出没するやつだ。
特に厨房などでよく見かけ、誰からも嫌われている。
「……で、今それはどこにいる?」
「わ、わかりませんっ! わ、私の顔に乗ったのを振り払ったのでっ!」
……なるほど、それは流石にきつい。
見るだけでも嫌なのに、触りたいとも思えない。
ましてや顔の上を這い回るなど、想像すらしたくない。
しかし、彼女がそこまで苦手にしていたとは予想外だった。
「とりあえず一緒に行ってやる」
「お、お願いしますっ!」
2人で彼女の部屋に入る。
慌てて飛び出したのだろう。床に布団が落ちていていた。
殆ど何も置かれていない部屋を見渡しても、彼女を襲った侵入者は見当たらない。
念の為、ベッドの下なども確認するが、いない。
「……いないぞ?」
「ぜ、絶対にっ! いましたからっ! ……きっとまだどこかに……」
彼の背中にしがみついたまま、彼女は必死に訴える。
しかし、よく探しても見つからない。
狭い隙間などに隠れてしまったのだろうか。
「そうは言ってもな。……とりあえず今日はもう寝て、また出たら言ってくれ」
背中の彼女に声を掛けて、アティアスは部屋に戻ろうとした。
「ま、待って……」
彼女はそれを力尽くで引き留めようと腕を引っ張る。
「そう言ってもな……」
アティアスも困るが、怯える彼女を見ると、そのまま放置するのは可哀想にも思う。
「ううう……。お願いです……私を見捨てないでくださいよぅ……」
涙を浮かべて懇願する彼女を傍目から見ると、まるで別れ話をしている男女のようでもある。
彼は悩んだが、以前にも夜に彼女が訪ねてきたことを思い出し、提案する。
「それじゃ、また俺の部屋に来るか? ……ここで寝るよりはマシだろ」
その言葉を聞いて、ぱっと彼女が笑顔になった。
「はいっ! お願いしますっ!」
期せずしてまた彼と一緒に寝られることになり、彼女は侵入者に感謝した。
……しかし、もう二度と来てほしくはないとも願う。
部屋に入っていく2人の背後では、その侵入者は次の獲物を求めて廊下を優雅に闊歩していた。
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