秋の日の思い出 10 - ハブ・ア・グッドライフ -
漆黒にも似た瞳が煌めき、雨粒のような鈍い色で閃き、彼女の頬を滑る。その雫は二粒ばかり落ちただけだった。
彼女は落ち葉に手を付き、ゆっくりと上体を起こす。間近で見た彼の唇は微かに震えていた。よく見ると眉根もぴくぴくと動いてる。そぐわないのに口元が緩むが分かる。
だからなのだろうか、コウキのしわくちゃな顔が少しだけ晴れたように見えた。
「今度は普通の家族の元で、お前自身で生きてくれ」
落ち着いてほしくて両手でコウキの頬を包むと、背中に回された手に力がこもる。
「この次は普通の友達と楽しく生きてくれ」
彼の目尻に自身のそれを押し付けた。まだ暖かい水が触れて気持ちが良かった。
合わさった胸から鼓動が響く。包んでいる頬が熱く、手のひらを伝って彼女の心臓にその熱が届く。
目を閉じれれば甘い匂いが鼻をくすぐった。ここには嫌いな、あのキノコの腐ったような臭いが充満しているのに、どうしてか、それらの臭いはまったくしなかった。
「コウキが、わたしを覚えていてくれるなら」
瞼を上げれば、その先は闇に沈んだ森が広がる。これから彼女は、森よりも深く、果ての知れない闇へはいって行かなければならない。ひとりで進んでいかなければならない。
彼女は肺一杯に甘い匂い吸い込んだ。
「あなたのために、わたしはあなたを忘れるわ」
彼を忘れてしまうのはとても辛くて、悲しくて、寂しいけれど、それで彼の思い出の中で生きられるのならば、彼が泣かなくてすむのならば、喜んでこの手を離そう。
コウキが身をよじり、彼女の肩口に額を押し付ける。
「約束だからな」
「うん、約束。忘れないでね」
「お前はちゃんと忘れろよ」
「忘れるけど、忘れないよ。絶対」
どちらともなく噴き出して、笑って、最後にまた額をくっつけて。
体を強く抱きすくめられるその間際、瞼に微かに触れた熱。何事かと思考が硬直から解放された時には、コウキは顔を見られたくないのか、再び彼女の肩口に額を押し付けていた。そして、
「もう俺の前に現れるなよ」
絞り出すような声でコウキは言った。
茶化せなかった。そんな余裕なんて微塵もなかった。
彼女は震える手でコウキの服を掴もうとして、しかし、その手をぱたりと落ち葉の上に落とした。
「うん。もう充分だよ。――素敵な思い出を、ありがとう」
瞼を閉じる。
「俺も、楽しい時間を、……ありがとう」
うなじにひんやりとした尖ったものが当たる。恐ろしいものだと思っていたのに、体感してみればとても穏やかな迎えだった。それは、きっと彼に迷いがないからだろう。最期まで心を砕いてくれるなんて、なんて幸福なことなのだろう。
「さようなら、コウキ」
瞼裏の闇が一気に深くなる。コウキの息遣いも遠くなり、縋っていたかったぬくもりも離れていってしまう。
覚悟はしていたと思っていたのに、やっぱり一歩を踏み出すのに躊躇していると、あの暑い日に聞いた鈴の音が近づいてきた。キノコの腐った臭いも漂い出す。
怖くて、振り返ろうとしたとき、誰とも知れない手がそっと背中を押してくれた。すると、足はすんなりと一歩を踏み出し、その後の足取りは不思議と軽かった。
暗く何も見えない。でも、向かう場所は分かっている。
彼女は温かくて甘い香りのする闇の中へ、もう振り返えることもせず、真っ直ぐに歩いていった。
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