第4話 タイムパラドックス

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 死にたい夜を迎えてしまった。消えたくて消えたくて、死にたくて死にたくてたまらない夜。十六歳の戯言だ。笑ってしまっていい。弱い精神安定剤は今日の分は飲んだけれど、この気分はなくならない。

 あらゆるものの輪郭が消え、僕は世界に溶けていきたい。死ぬってそういうことだって知った。生物の先生が言っていた。

 消えたい気分のまま、夜の街路を自分のペースで歩く。ただ必死に歩く。僕は死に向かって落ちていくイメージを持っている。


 僕は消えたいよ。


 社会から、学校から、家庭から、世界から。僕は消えていきたい。

 どんなに数えたって、僕らは死ぬのに、僕に合ったペースで世界は僕を殺してくれない。


 消えたい、消えたい、消えたい。


 ずっとそう思っている。こんなに切実な思いなのに、僕には僕を殺す勇気がなかった。ただこの意識だけを断ち切りたい。甘えでもいいよ。


 夜風が吹いている。星が瞬く。僕は美しい世界をじっと眺めている。この世界に溶けていけるなら、それは素晴らしいことなんじゃないか。



 僕の目の前にいる男の子は僕そっくりなのに僕のようには考えないみたいだった。少しだけ大人の大海は十九歳だと告げた。

 大海は僕に言ったのだ。


「僕は、未来人なんだ。それも君、勇輝の息子だ」


 目を丸くして呆然としている僕に大海は笑いかけた。三歳年上の僕の息子。こんなに優しく笑いかけてくれるひとを僕はまだ知らない。


「僕と一緒に気持ちのいい場所へ行かないか?」


 それは夜のことだった。消えたくて消えたくてたまらない夜のことだ。

 僕らはタイムトラベルをした。簡単に知りたかった明日のことを知った。明日、雷が落ちて、学校の設備が壊れて、学校へ行かなくていいことを知った。たったそれだけのことなのになんだか可笑しかった。なんでだろう? 君がいたからか、大海。


 僕らは現在に戻ってきて、家のガレージからキャンプ道具を取り出した。リュックに道具をまとめて、夜の、まだ始まって間もない喧噪のなかへと歩き出した。工事現場の赤や黄の色彩と闇に浮かぶひとつの月。


 どうしてあんなに死にたかったのかわからないほど、痛快な時が流れている。


 未来が分かっていること、ふと僕は思う。僕はセックスしたのか。そうして大海が生まれてきてくれた。ずっとあの死の壁のむこうには何もないと思っていた。僕を取り巻くものが、全てあの死の壁の前でうずくまり、越えていけない朝をやり過ごしていると考えていた。僕の世界はあの壁のむこうにはない。ずっと思ってきたことだ。


 夜はいまだに混沌とした様子で僕らの前に存在している。大海は僕についてきた。僕は父なのだ。だから先導するのは僕の役割のはずだ。

 こんなにわくわくしたのは久しぶりだ。もちろん大海にもそう言った。僕には君がいてくれるだけで幸せだったのだ。

 ふたりで交わす会話はどうでもいいことばかりだった。好きな女の子はいるのかとか、仲のいい友達とは何をして遊ぶか、下ネタ、好きな音楽。何でもよかった。時折、大海は何も言わず、質問だけが空回りした。


「どうして未来から来たんだ?」


「父さんには死んでほしくないから。父さんには生きていてもらいたいから」


「全部、知っているのか。あの気持ちのこと」


「うん」


 死にたくて、消えたくて、それでも消えられなくて、世界の速度についていけなくて、でも社会や学校は真綿で首を絞めるような優しさで包んでくれる。


 そんな世界。


 僕には僕で世界なんてどうでもいいと思うことはあっても、たくさんの人が死ねばいいとまでは考えていない。今日も世界のどこかで不幸が蔓延し、悲しみは共有されずに、壁の向こうでなんとかやっていく――。


 世界が嫌いだった。


 僕は大海に全ては話さなかった。彼には希望を抱いていてほしい。知らないなら、知らないでいてほしい僕の知る世界の真実だから。


 小高い丘に登ると、そこから青黒い海が見えた。潮風が漂い、月は昇っていなかった。大海は丘の上で僕に言った。


「未来は、思ったほど明るくないんだ。世界はどん詰まりでさ。僕は死にたくて仕方がなかった」


 僕はハッとした。

 大海だけにはその感情を抱いてほしくはなかったのに。


「きっと今なら、戻れるって思ったんだ。僕を殺してくれる世界に」


 言葉が出てこない。


「父さん、言うよ。僕を、育てないでください。生まれたならその手で殺してください」


「何言うんだよ、そんなこと、僕にはできないよ」


 大海は笑った。そうだよね、と答えて温かい飲み物をくれた。湯気を吸い込むと、じんわりと胸が温かくなった。

 ふたりの旅は終わった。

 僕は大海がどこへ帰るのか知らないし、僕のこの気持ちも変化しなかった。



 消えたい、消えたい。大海も消えたいのか? なら、僕は死ぬしか方法がない。夢の中で僕は力一杯、誰かを、僕のような誰かを、殺した。夢は覚めないで欲しかった。どんなに苦しくて、涙を流しても、朝が来ることは間違いなかった。

 どれだけ願っても、大海の未来も、僕の未来も、同時に幸せにできる方法は無かった。


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「一回だけ、過去に戻れるのか」


 大海と呼ばれた少年は尋ねた。


「勇輝、君はまだ生きられるからね。君がしたいようにすればいいんだ」


 勇輝の目の前にはタイムマシンがあった。先生は科学者で、時空移動理論の発案者だった。


「先生、僕は戻れることなら、あの消えたかった夜に帰りたいんだ」


「どうしてそんな悲しい日に帰りたいんだい?」


「あの日を越えてきたから、今の僕があるから。でも彼にはほんとうの気持ちを伝えたいんだ」


 わかったよ、と先生は言った。勇輝はタイムマシンに乗った。


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 またあの気持ちがやってきた。

 僕は凍えるような道へと出向いていく。吐く息は白くて、吸い込んでも何も感じなかった。

 単細胞の生物が死んでいく模様のタイムラプスを見た。彼らは死ぬと世界そのものになる。世界とは厳しい死の世界だと知った。

 僕はどんどん何も感じなくなって、世界へ近づいていく。誰も僕を気にしないように、僕は消えたい。

 ふと、懐かしい声がした。


「勇輝、元気だった?」


「大海なのか?」


「ああ」


 僕らは相対した。顔の造形の、どの部分もそっくりな彼の横顔を見る。あの日から少しだけ大海の顔には諦念が浮かんでいるような気がした。

 僕は彼をきょう殺せるか? そんなことを考えた。僕はうつくしい僕の子を殺すことなんて出来やしない。

 僕のマフラーを巻いてやると、大海は言った。


「あれから、ずっと死ぬことを考えてたんだ。だれも僕を殺してなんかくれないからね。また来てしまったよ」


「なぁ、大海はどうして死にたいんだ? 俺のは知っているだろ?」


「ああ、僕はね。昨日の世界にずっと会いたいんだ。生きているだけで、この時空連続体は前にしか進まない。僕の望みは過去にしかない。ずっと帰りたいと思ってた」


「帰るってどこに? こんなに苦しい世界に帰るっていうのか」


 僕の声は無意識に荒くなっていた。


「そう、過去は美しいから。優しいから。帰っても僕のことを迎え入れてくれる。そうでしょ?」


 僕は気づいた。大海の頬のほくろが僕と全く同じ場所にあることを。


「大海、お前は僕なんだな?」


 大海はにこりと笑った。こんなに僕は笑えるようになるんだ。知らなかった。


「ねぇ、勇輝。僕はもう疲れたんだ。僕はここで死ぬ。消えることにしたい。でも君は生きて」


「この時空で君が消えたらどうなるんだ?」


「何も起こらないと先生は言ってた」


「わかったよ。僕は未来の僕を殺すよ。僕は僕の未来を生きると決めた」


「え?」


「わかったろう? そうすれば君は僕なんだから生き続けられる。帰ってみれば、君の気持ちは変わっているはずだ。あの気持ちも消える。消えたいなんて思わない」


「でも……」


 彼は困惑している。


「君を構成している気分が書き換わる、僕の意思で未来の僕は絶望しない」


 消えたいなんて、もう思わない。自分の未来を守ることに決めたから。


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 僕は彩子が出産した男の子に大海と名付けた。

 七五三を迎えてから時が経つのはあっという間だった。大海は十六歳になった。

 大海はタイムマシンに乗って、あの僕達の青春に入り込んでは僕らと一緒に遊んだ。


「ふたりの父さんはどうしてあんなに辛かったの?」


「きっと夜はそういう気持ちになるんだよ」


 僕は苦笑した。


 ふたりの大海がいてくれた僕の記憶は楽しくて、幸せで一杯だった。書き換わった現実が僕をここまで押し上げてくれた。生きていると感じる。生きるということの意味を知る。たったそれだけのことなのに、世界は明るいと思う。

 真っ青なうつくしい空と海と彼らは僕の人生の先輩だ。


 彼らは僕を原因として始まった。


 あの希死念慮が生んだ絶望の子どもが、今や世界を照らしている。信じられないって思うだろう? だから、救ってやりたいと思う。あの複数の夜を迎える子どもたちを。自分もその中にいたのだと知っているから。


 僕は僕でこれからのことを考え始めている。毎日、僕は過去に帰っている。過去が美しいからではない。

 僕は自分の力で僕を救えるのだと信じている。


 きっと、かならずあの朝がやってくることを知ったから。どんなに苦しくても信じぬくことを僕はしてきたから。


 あらゆるものの輪郭がはっきりと見えた。僕は僕を抱きとめたり、ビンタしたりして、鼓舞し続けた。僕の意思が変わるまで、話し相手になった。どこまでも無限にやり続けた。


 僕という全て。


「勇輝、死ぬな。お前に僕は言うことがある。いつだって手を差し伸べるから。一緒に気持ちのいい世界へ行こう」


「信じない。お願いだ。消えたいんだ」


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 僕の話を聞いていた君は痩せた腕を伸ばし、伸びをした。僕は彼女の動きをじっと見ている。僕はかろうじて動く眼球で彼女を捉えた。そして、発話装置で話を続ける。

 君は言う。そんなことはないはずだ。奇跡に違いない。

 僕は言う。現に僕が生きている、これがその証拠だ。(了)

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