第5話 紫銀国の四妃

「さあ、まずは私どもの翡翠宮にご案内いたしますわ。翠花さま」


 緑の装束に身を包んだ静雅は、先程よりも綻んだ笑顔で、翠花の方を振り返った。さっきまでは別の妃に仕える女官と一緒にいたから、幾ばくか緊張していたのかもしれない。翠花と二人になった彼女は、生き生きとしていた。

 

 執務室で星澪の依頼を引き受けた翠花は、さっそく後宮の中を巡り、情報収集することになった。

 そのために「誰に案内役を頼むか?」という話になり、翠花が静雅の名前を出したのだった。正直、あの意地悪そうな黄色い女官などが案内役になっては、情報収集自体をまともにさせてもらえないように思われた。「詮索する思い」や「妬ましい思い」もまた、心の理から現れるものであるから、翠花も否定する気はないのだけれど。


 後宮の北の中央には皇帝陛下のお休み処が配置される。その正面に広がる中庭を囲んで四人の特別な妃――四妃の宮が並んでいた。それぞれの宮にはその象徴としての宝石と、その色が対応づけられていた。

 北東の妃は、貴妃の美翠メイツェイ。緑色の翡翠が象徴であり、それ故に翡翠宮と呼ばれる。生まれも育ちも良いよ評判の妃であり、美しく優雅で、皇帝陛下からも最も愛されていると評判の妃だ。

 北西の妃は、淑妃の雪梅シュエメイ。赤色の紅玉髄が象徴。紅玉宮と呼ばれる。妃自身は、可憐な女性であり、年齢はまだ十代半ばであると聞く。とても美しいのだけれど、時に気難しいこともあると聞く。

 南西の妃は、賢妃の玄青シュエンチン。青色の藍玉髄が象徴である。藍玉宮と呼ばれる。玄青は、一番、年長の妃であるが、その美しさは妖艶で神秘的であるとも言われるほどであった。日頃から部屋の奥に引きこもりがちとの話だった。

 南東の妃は、徳妃の嫣紅イェンホン。黄色の琥珀が象徴。妃自身の名前が鮮やかな赤を表す名前であることが少し琥珀宮のイメージからはずれるのだけれど、嫣紅妃自身はとても純朴な性格で、情熱的でもあった。年齢が四妃の中で最も若いこともあり、愛されつつも気を使われている存在のようだった。



 *



「いかがでしたか? 翠花ツイファさま? お疲れになったのでは?」

「いえ、――いや、はい。……本当に。疲れました」


 翡翠宮から始まり、四つの宮を反時計回りに周った。それぞれの宮で女官たちや、妃本人とお話をして、後宮の現状を聞いて回った。

 後宮のことなんて、噂話で聞くくらいだったし、すべてのことが驚きだった。そもそも女官たちと会うこと自体が翠花にとっては真新しい出来事なのだ。それなのに加えて一日にして四妃と面会したのである。酒場の一町娘としては考えられない経験である。もう途中から感覚が麻痺しだしてきた。


 ここはまだ翡翠宮なのであるけれど、静雅の私室に通されると、体の内側から疲れが吹き出てくるのを感じずにはいられなかった。翠花はもう随分と彼女に心を許していた。

 目の前の小さな机に出されたまだ熱い茉莉花ジャスミン茶をそっと口元に運ぶ。


「あ、美味しい。良い茶葉ですね、静雅さま」

「あら、分かってくださる? 東方から取り寄せた茶葉ですの。そうですね。翠花さまってお食事処を経営なさっているんですものね。お茶にもこだわっておられて?」

「ええ。私自身がお茶好きなものですから。――というかお酒は飲めませんので」

「酒場で働いているのに? 不思議なお話ね」

「――まぁ、体質ですので」


 東方の茶葉か。また落ち着いたら仕入れを検討してみようかな、と翠花は透明な薄黄緑に広がる茶碗の中の水面に視線を落とした。


「星澪さまも、意地が悪い。いきなり連れてこられた女の子にこんなに大変なお役目を押し付けられるなんて。――翠花さま、ご無理をなさらないようにね」

「お心遣いありがとうございます」


 翠花は努めて笑顔を作り、静雅に返した。

 初めての後宮に、初めての面会の数々。疲れているのは間違いないし、精神的な負担もものすごいものがある。それでも翠花の心の中心を占めるのは、疲れによる徒労感や、精神的な沈鬱さではなかった。ムクムクと膨れ上がる好奇心である。初めて会う人たちや、そこで見る様々な情景が、彼女の心の中の欲求を際限なく育てていた。

 翠花の趣味はもともと人間観察。とにかく様々な人と会うのが好きだし、その人々の心の理がどのように働いているのかを考えるのが大好きだった。そういう意味では、色々な人間がいる後宮は、翠花の好物がたくさん転がっている楽園のような場所でもあったのだ。

 しかも相手は女官や四妃。日ごろの酒場にも増して、一癖も二癖もある人間たちだった。特にそこで交わされる言葉は、心の内を素直に言うものではなくて、どこか迂遠であったり、高度に文脈依存的であったりする。でもまた、そんな様子自体が、翠花にはとても人間っぽく思えて、ついついニマニマと笑顔を浮かべてしまうのだった。

 四妃の中には、そんな翠花を胡乱な目で見るものもあり、紅玉宮の雪梅シュエメイからは、直接「お前、気持ち悪い」と言われたりもした。流石にその時は翠花も凹んでしまったのだけれど。ちなみに赤い淑妃本人がその直接的な物言いに関して、まわりの女官から諌められていた。


「それで、少しでも、問題解決の糸口は見つかったかしら? 翠花?」


 目の前の椅子に腰を下ろした静雅は、自分も茉莉花茶を口元に運びながら、微かに首を傾げた。翠花は温かい茉莉花茶の茶碗を両手で包んだまま、天井を見上げる。

 これまでの考えをまとめるように。


「静雅さまは、星澪さまがおっしゃっていた後宮の問題のこと、どのうように思われていました?」

「そうですね。『言われてみればそうかもしれない』といった感じかしら。後宮って良くも悪くも閉じた世界でしょう? 今の状況というのがおかしな状態なのか普通の状態なのかって、多分、私たち自身が一番わかっていないと思うの」


 静雅の言葉を聞いて、翠花はあらためてこの女官に担当についてもらって良かったと思った。確かに人は何かの比較基準を持ってしか、何かの良し悪しを図ることはできない。後宮ともなれば本当に天下にたった一つしか存在しないのである。お隣の後宮に比べてというわけにはならないのだ。

 それだからこそ自分の出番なのだ、心の理で捉えるべき問題なのだ、と翠花は思ってしまったりする。こんな時、師匠ならどうしただろう? どんな手品を使ってこの状況に手当てしただろうか? どんな薬をつけただろうか? などと考える。

 翠花の頭の中には師匠が教えてくれた様々な技法が現れては消えた。

 やがて、その思索は一巡して、翠花は口元にはゆっくりと笑みが浮かび始めた。


 それは師匠から教わったとっておきの方法。

 これを後宮でやってみるなんて、なんて恐れ知らずであろうか。

 でも、それが一番おもしろいし、効果的な気がした。


「翠花には私たちの後宮が抱える問題――四妃とその女官たちの間の関係がぎこちなくて、交流が生まれないことの理由が分かるのかしら? それが皇帝陛下にまでご心配をおかけしているとなっては、翡翠宮にお仕えする女官として申し訳なくないのですけれど」


 静雅が困ったように、頬に人差し指を当てる。


「ええ、今日、皆さんのお話を聞いて、大体予想がつきました」

「本当に? だって翠花さまは、後宮に来たのは今日が初めてでしょう? それなのに後宮の問題がわかるものなの?」

「いいえ。これは後宮の問題ではなく、人の心の問題です。宮廷であろうが、後宮であろうが、街の中であろうが、人の心の理は変わりません。ですから、問題とその外形が分かれば、自ずと理由も見えてくるものです」


 あとはそれにどんな手立てを講じるかなのだ。


「――どんな理由なの? やっぱり後宮だから、四妃の間の敵対ライバル意識が強すぎるとかそういうことなのかしら?」

「いいえ、必ずしもそんなに後ろ向きな解釈をする必要はありません。実際、各宮で四妃に対する悪口が聞かれたことはほとんどありませんでしたでしょう?」


 とはいえ後宮である。言葉に出なかっただけで、そういった嫉妬や対抗意識が全く無いと言えば嘘になるのだとは思うが。


「ではどんな理由?」

「答えは簡単です。四妃がお互いのことを知らなさすぎるのです」

「――知らないって、……それだけ?」

「はい、それだけです」

「でも、お互いに誰がどういう妃かとか、そういうことは知っていると思うのだけれど?」

「そういうことではございません。知るべきはその人が、何を好きで、何を知っていて、何に興味があって、何を経験していて、何を持っていて――まぁ、そういうことです」


 それを人は共通知識コモンナレッジだとか、共通基盤コモングラウンドと呼ぶ。これもやっぱり、お師匠様の受け売りなのだけれど。


「人が誰かに話しかけるというのは、それ自体が不思議なものなのです。静雅に私が話題を振るとしたらどんなことでしょう? きっと後宮のこととか、星澪さまのこととか、あとは茉莉花茶――もしくはもう少し一般的な茶葉のことかな、と思います」

「そうね。そう思うわ」

「そういう話題は全部、これまでの会話や共に過ごした時間の中で、私と静雅さまが共有した基盤――共通基盤コモングラウンドの上にあるのです。それがなければ私たちは人に話しかけたりなんて、なかなかできませんわ。それが『誰かに話しかける』という当たり前の中に潜む心の理というものです」

「――心の理」

「はい」


 ではどうするのか。会ってきた四妃はいずれもそれなり以上の教養をお持ちで、さらに性格にもそこまで問題があるように見えなかった。――まぁ、全く無いわけではないのだけれど。

 きっときっかけがないのだろう。女官たちに囲まれた閉鎖空間の中で、お互いのことを知る機会もないのだ。だから新たに交わり合う機会もない。

 本来は後宮をまとめる存在が気を利かせて、そういうこと補う行動を取っても良いように思うのだが、あの星澪では無理であろう。見目麗しくとも、その中身の鈍感さが残念すぎるのだ。残念美男子ざんねんイケメン


「――理由はわかったとしても、それならどうすれば良いのかしら?」


 困ったように静雅は首をかしげる。

 こういう問題は、体の病と同じだ。病の理由がわかったとして、問題はつける薬があるかどうかということ。

 でも今回については、翠花には試してみたい「薬」があった。

 

「私に星澪さまに提案しようかと思う良案がございます」

「――それはどのような?」


 静雅に尋ねられた翠花は楽しそうに目を細めた。


「それはとある遊戯です。四妃の皆様に『合戦かっせん』をしていただくのでございます」


 その不穏な響きに、静雅は驚いて目を見開いたのだった。


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