第3話 詰んだかもしれない

 パーシルには金銭的な貯えが多少あった。……が、育児という嵐の前にそれは消し飛ぶようにして無くなった。


 ヴェインの育児、しいては彼を死なせないための作業は、想像以上に熾烈なもので、容赦なくパーシルの時間を奪っていった。


 結果、金払いの良い長期的な探索や、国営の調査などはおろか、簡単な依頼ですら、パーシルは受けることができずにいた。

 冒険者であるパーシルは、依頼を受けなければ収入は得られない。

 あたりまえだが、そんな状態が続けば金は減り続け空になる。

 そしてついにはパーシルの心が折れた。


 この国の文化レベルでは子育てと冒険者の両立は不可能だったのだ。

 妻が出て行った時からパーシルは詰んでいた。


――一人で何とかなるだろうと、タカをくくっていた。


 片付けまで手が回らず散らかった部屋の中で、パーシルは倒れたまま懇願するように天井とその間の空間を見つめた。

 こんな時に妻がいてくれればと何度も思った。

 しかし、彼女が帰ってくる気配も、予兆もない。


「あぁ……」


 そろそろヴェインにミルクを用意しないといけない時間だ。

 だが、パーシルに立ち上がる気力は残っていなかった。

 

――驚くほど体が重い。だめだ全身が凝り固まったようだ。


 パーシルは何とか体を動かそうとするが、意志と体がかみ合ってくれない。

 彼にとってこんなことは初めてだった。


 そこそこの冒険者として技術や体力を磨いてきた彼であったが、いま育児という途方もない戦いを前に敗北しようとしていた。

 

「ちょっとパーシルいるんでしょ! あんた二か月以上うちに剣を置きっぱなしにして何やってんのよ!!」


 突然、家の外から女性の声が聞こえた。

 彼にとっては久しぶり聞く馴染みの声だった。


「入るわよ。だめでも、いなくても入るわよ!」


 こちらの許可も待たずズゲズゲとパーシルのうちに入ってきた人物にパーシルは頭だけひねり確認した。


 家に入ってきたのは亜麻色の髪を後ろでまとめ、健康的な体つきをしている女性だ。

 彼女は仕事着にしている白いブラウスとキュロットスカートを揺らし、辺りの状況に彼女は顔をしかめた。

 彼女の名前はシア。パーシルが馴染みにしている冒険斡旋所兼酒場『火ノ車亭』を切り盛りしている人物だ。


「や、やあ……」

「うっわ、何よこれ……」


 パーシルはいたたまれない気持ちになった。

 それほどまでに家の中は見られたくない惨状であった。

  

「ちょっと待ってて」


 そういうや否や、シアは持ってきていたパーシルの剣を壁に立てかけ、テキパキと汚れ物をごみとしてまとめ始めた。

 さすが酒場で働いているだけあるといったところだろうか、小一時間でパーシルの家は元のきれいな状態に戻った。


「シア、ありがとう助かったよ……」


 いまだぐったりはしているものの部屋がきれいになったことでパーシルはある程度、心の余裕が戻ってきていた。

 シアはいつの間にかヴェインを抱き、寝かしつけながらパーシルをにらみつけた。


「助かってないじゃない! あんたこの子の親なんでしょ。この惨状はどういうことなの!」

「ああ……」


 パーシルにとって、シアは冒険者と依頼の斡旋者の間柄だ。

 その付き合いは長く、彼女が信頼できる性格であることもよく知っていた。

 万が一を考えパーシルは息子が異世界転生者であるかもしれないことは伏せつつも、彼はこれまでの事情を彼女に話すことにした。


 妻が出て行ったこと。息子を一人で育てることを決意したこと。そしてこの惨状に至ったこと。


「はぁ……分かったわ。とにかく寝てきなさい。ヴェインくんはあたしが見ておくから」


 頼もしいばかりの言葉に、弱り切っていたパーシルは素直に甘えることにした。


『それは大変ね。乳母とか雇わないのかい? さすがに一人じゃしんどいだろう?』


 パーシルが寝室に向かおうとしたとき、ふと彼の脳裏に市場のおばさんの言葉が浮かび上がってきた。

  誰かに乳母をお願いする。それは育児で忙殺され、まったく考えられなかった話だ。


――例えばシアにお願いするのはどうだろうか?


 彼女は先ほどの清掃技術を見るに、家事全般はかなりレベルが高いし、なにより抱きかかえているヴェインもおびえているようには見えない。

 日中、ミルクを与え、面倒を見てもらえれば、パーシルとしても睡眠時間が取れ、何とか簡単な依頼なら受けられるだろう。


 そう考え、パーシルはシアに提案をしようとした。

 しかし、寝不足で思考がくちゃくちゃになっていた彼は文章を省略しすぎた。


「シア、その、君、母乳ってでるのか?」


 それは「この後ミルクをあげられるのか」とか「乳母としてお願いできないのか」とか大丈夫なのかとかがごちゃ混ぜになった結果だった。

 「あっ」と気が付いた時にはパーシルのボディにシアの拳が迫っていた。


 シアの顔は真っ赤になっていた。

 酒場で働いている彼女にとってはセクハラまがいの発言は日常茶飯事だ。

 ただ、そういうものは大体、酔っぱらった相手が笑いありきで言ってくるもので、今回のように、心配した相手にたいそう真面目な顔な顔で言われるものではない。

 それはもう怒って顔だって赤くなるし、拳だって飛び出るだろう。

 

「こ、この変態がぁ!」


 パーシルは体がわずかに浮くほどのものすごいボディブローをえぐりこまれて、悶絶しながら気絶した。


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