chapter.10-5 / 断罪者は婚約破棄を華麗に謳う(5)

「え?」


 鮮血がゆっくりと宙を落ちていく様子を視界にとどめながら、アンテリーゼは目の前で何が起きたのか理解できなかった。


 眼前で一人の男がアンテリーゼの目の前で倒れた。


 次いで、金属と石がぶつかるような複雑な音が耳に届いたと思えば、全てが終わっていた。


 その場にへたりこんでしまったアンテリーゼは、周囲の声がぼんやりと幾重にも重なって反響するような音にさらに困惑する。


 まさか、ここへ来て。またもや失敗したのか。


 空気をはらんで膨らむドレスの上に、だらりと自分の右手が見て取れてその指輪に目をやるも、指輪は指輪のまま。ただ鈍く金の光を放つだけだ。


「アンテリーゼ!」


 誰かが自分の肩を強く後ろに引いた、と思えば脇下に手を差し入れられ無理矢理に立たせられた。声がよく聞こえない中、アンテリーゼは背後を振り返った。覚束ない足元でたたらを踏むと、蒼白な顔色のエヴァンゼリンが悲鳴を上げながらこちらに倒れこむように走り出した。


 同時に、反射的にアンテリーゼは自分の体を見下ろした。


 真っ赤な液体が大筆で描かれたように自分の体を色づけていた。細かな布地の表面にまるで雨粒のように雫が膨らんで、垂れて落ちている。


 粘度のある液体のようで、糸を引き、落ちる。


「連れて行け!容疑者はすべて、まとめて連れて行くんだ!」


 鋭い声を皮切りに、全ての音が終息するようにはっきりとアンテリーゼの耳に届き始めた。


 両手を固く握りしめられ、エヴァンゼリンに後ろから抱きしめられる格好で我に返ったアンテリーゼは、もがきながら絶叫を上げて乱暴に引っ立てられていくセレーネの姿を見た。その後ろに、マルセルの両親やおそらくは親類と思しき人物の姿も見える。


 数人の真っ白な礼装に身を包んだ男性に取り囲まれながら、彼女達はあっという間に会場から見えなくなる。


「わたし、は」


 アンテリーゼが自分を確認すると、ねっとりとした液体が再び床にこぼれた。


 だが、これといった痛みはなく、まるで何事も起きなかったのように自分はここに立っている。


「無体なことを」


 扇子を一手で広げて仰ぎ始めたデルフィーネは、不快そうに眉根をひそめ視線を床に縫い留めた。


「怪我はない?」


「え?ええ……」


 背後からそっと伺うようにエヴァンゼリンの声がかかり、アンテリーゼはそこを直視したまま小さく頷いた。


「くそっ、くそっ!!アンテリーゼぇえ!!くそっ!」


「動くな!出血がひどくなれば命に関わるぞ」


 数人の男に押さえつけられながら、床に伏せた状態のマルセルが憎悪に染まった瞳でアンテリーゼに罵声を浴びせている。


 よく見れば、マルセルの肩口のすぐ先に、銀色の燭台が転がっていた。


 不自然な場所にあるものだ、と首を傾げていると、自分がマルセルにこの燭台で殴りつけられそうになった記憶が微かに蘇る。壇上から数人の男性と階下に降りてきたマルセルは、アンテリーゼが気を抜いて祖母の指輪に目をそらした瞬間、両脇の男の隙をついて近くにあった燭台を手にこちらに走って来たのだった。


 一瞬のことで何が起きたのかいまだに十全に理解できていないが、振り被ろうとしたマルセルから誰かがアンテリーゼを救った。おかげでアンテリーゼは助かったが、マルセルは鮮血があふれ出るほどの手傷を負った、ということだろう。


 低いうめき声を上げながら、白い布のようなもので腹部を巻かれ始めた青年の姿をアンテリーゼは冷静に見つめ、一歩を踏み出した。


「アンテリーゼ」


 エヴァンゼリンの心配そうな声が背中にかかると、アンテリーゼは少しだけ振り返ってにこやかに笑った。


 侍女に体半分を支えられて、真っ青な顔色のエヴァンゼリンの翡翠の瞳がハッとしたように見開かれる。


 マルセルは床を拳で叩きながら不明瞭な言葉を発して周囲に怒鳴り散らしていたが、目の前に自分の鮮血で濡れたドレスの端が見えると驚愕と怒りにわななく様にして、ドレスに手を伸ばそうとした。


「やめろ!大人しくしろ」


 背中の後ろに手を回されて固定されると、痛みが強くなったのかマルセルは大きく呻いた。


「ぐぅっ」


 かつての婚約者をアンテリーゼは琥珀の瞳で真っすぐに見下ろしながら、はっきりとした声音で断罪した。


「マルセル・イル・テ・メルツァー卿。セレーネ・ユドヴェルド嬢と親密な関係にあり、婚約中の身でありながら、婚姻法に抵触する振る舞いをしたあなたとの婚約をここに破棄致します。当申し立てに対する一連の書類は仲介見届け人二名以上に提出済みで、近く、貴族院裁判所にも正式に提出されます。婚約破棄申し立てに関する、仲介見届け人はデルフィーネ・ココルトス・エル・ティエンシュ殿下、並びにエヴァンゼリン・エル・デ・ロックフェルト伯爵令嬢。当申し立てに不服がある場合は、本日より十日以内に貴族院裁判所に異議申し立てをする権利が貴方には認められます。意義なき場合は期限を持って、法的にあなたとの婚約関係は正式に解消され、以降は婚姻法の定めるところにより、法的な調整以外の当人同士の個人間の会合や接見は一年間禁止されます」


 アンテリーゼのすぐ背後から、出番を窺っていたようにフィオナが一枚の巻紙を持って現れて、それを差し出す。


「ここにサインを」


 フィオナは書類の一番下の部分に人差し指を指し、漆黒の小さな万年筆を取り出して渡す。アンテリーゼは書類に目を通し、確認し、軽く目を開いて彼女を見返した。


「リエリーナは法務関係の仕事が本職なのですよ」


 笑いながら肩をすくめて視線を流すと、そこには気絶してひっくり返っているリエリーナの姿があった。数人の貴族たちに囲まれながら目を回しているリエリーナを心配してデルフィーネが慌てて指示を出すのも見られる。


 全く、なんて非常識で心強い人達だろう。


「また、この婚姻において不義による不利益がいずれかに生じた場合は、不利益を生じさせた者が弁済の責務を担うこととする。本案件は婚姻法に基く以下の者の申し立てにより正式に製作成されたものであり、これ以外の効力を有しない。アステマル王国歴3392年花の月琥珀の日、申立者アンテリーゼ・フォン・マトヴァイユ。……、心を踏みにじった者には相応の報いを。貴方とご家族が手を染めた悪事に関しては別件として対応されるらしいわ。――さようなら、マルセル」


 叙事伝を謳い終わるかのように、アンテリーゼは静かでよく通る声を響かせたのだった。

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