婚約破棄された公爵令嬢は、イケオジ沼に突き落とされる。
たまこ
第1話
「クラウディア=バーネット!今ここで、お前との婚約は破棄する!」
王宮主催の舞踏会。煌びやかな装飾が施された会場にそぐわない怒鳴り声が響き渡る。怒鳴り声の主は、レジナルド王太子。そして、婚約破棄を突きつけられた相手は、バーネット公爵家の令嬢クラウディアである。クラウディアは扇で口元を隠したまま、釣り目がちな目で、ちらりとレジナルドを見据えた。
「……殿下。理由を伺っても?」
「はっ!本当に愛する人を見つけたからだ、お前と違い可愛らしい人をな。」
レジナルドはクラウディアを嘲笑すると、隣に佇む、儚い雰囲気のアネット=ウィルキンソン侯爵令嬢の肩を愛しそうに抱いた。
周りの貴族たちは、最初の婚約破棄宣言こそ呆気に取られていたが、徐々に状況を理解したのだろう。さざ波のように、会話は始まった。全ての貴族たちの会話の内容は共通していた―――また、あの無能な王太子の戯言か、と。
◇◇◇◇
レジナルド王太子は無能である―――これは、この国の貴族たちにとって常識である。勉学は苦手で、勤勉さに欠ける。武道の面でも、素質は全く無く、鍛錬は嫌いでサボってばかり。そして何より性格がとことん悪い。誰に対しても横暴で、自己中心的。それが、貴族たちの共通認識である。
そんなレジナルドがなぜ王太子になっているのか。これには、勿論訳がある。国王陛下と王妃殿下の間には長年子どもができなかった。国王は側妃を取るように大臣たちに苦言を呈されたが、王妃を深く愛していた国王は、側妃を持つことは無かった。こうして、漸く授かった息子、レジナルドは溺愛された。国王と王妃の間には、レジナルドしか子どもはいない。こうして必然的に、レジナルドは王太子となった。
息子を溺愛する国王夫妻だが、徐々に年齢が上がるにつれ、レジナルドは国王の器ではないと気付いていく。そこで、優秀な王太子妃を据えようということで、父親が国務大臣を務めるクラウディアに白羽の矢が立ち、二人が十歳の頃、婚約は結ばれた。クラウディアは大変勤勉で、あっという間に王太子妃教育を終え、王太子の公務の補助をするようになった。そして、レジナルドが全ての公務をクラウディアに押し付け、自分は遊び惚けるようになるまで時間はかからなかった。
婚約してから八年が経ち、二人は十八歳となった現在、王太子の公務は婚約者のクラウディアが全て行っている。貴族であれば誰でも知っていること。それなのに、婚約破棄なぞ愚の骨頂―――貴族たちの王太子への評価は更に地の果てまで落ちていく。
◇◇◇◇
「クラウディア嬢、本当に申し訳ない。」
「クラウディアさん、申し訳ありません。」
婚約破棄宣言の直後、騒動に気付いた国王夫妻によって、クラウディアとレジナルド、そしてアネットはすぐ別室へ連れていかれた。別室にはクラウディアの父、バーネット公爵が苛立ちを隠さずに待っていた。入室後すぐに国王夫妻に深々と頭を下げられたクラウディアは困り果てていた。
「国王陛下。王妃殿下。どうか頭を上げてくださいませんか。」
クラウディアが何度かこの言葉を繰り返すと、二人は漸く頭を上げた。すると、全く反省の色の無い、レジナルドのへらへら声が室内に響いた。
「そうですよ。父上、母上。クラウディアなんかに頭を下げる必要はありません。」
「……っ!お前は黙っておれ!とんでもないことをしてくれたな!」
「クラウディアさんは、大変優秀だし、貴方の代わりに公務を担ってくれていたのよ。そんな彼女をどうして傷つける真似をするの!」
国王夫妻の叱責も、レジナルドには響かない。
「優秀なところも可愛げがなくて嫌だったんですよね。公務だって、クラウディアが勝手にしていたことでしょう。」
国王夫妻は怒りで血の気が引いていた。クラウディアは、平静を保ちながら発言した。
「恐れながら、国王陛下、王妃殿下。レジナルド殿下と私の婚約を破棄していただけませんか。これ以上、婚約を続けることは難しいのではないかと思います。」
「だが……。」
「でも……。」
クラウディアは分かっていた。レジナルドを溺愛する国王夫妻は、レジナルドを王太子から降ろすことは出来ない。国王夫妻はクラウディアのことを可愛がってくれてはいたが、公務をサボるレジナルドを諫めることは出来なかった。十歳から婚約して八年間、それは改善されなかった。そして、愛する息子に、好きな人と結婚してほしい、本心ではそう願っている筈だ。
「クラウディアも、こう言っていることだし、さっさと破棄しましょう。」
軽い口調で言い放つレジナルドを一睨みした国王は、大きく溜息をついた。聡明なクラウディアが、国王夫妻の本音など見抜いていることに、気付いてしまったからだ。
「クラウディア嬢。本当に良いのか。もし破棄となれば、其方に一切の非は無くとも、悪意の目を向けられることもある。……新しい縁談も難しいかもしれない。もし何かしたい仕事があっても就けないかもしれない。」
勿論、希望する縁談や職があるのであれば尽力するが……と国王は付け加えた。クラウディアは首を振って答えた。
「ありがとうございます。ですが、お気遣いなく……お父様。」
急に呼ばれたバーネット公爵は機嫌悪そうに、ジロリと娘を見た。
「お父様、私を公爵家の籍から外してくださいませ。」
国王夫妻は、顔を更に青くさせた。バーネット公爵の表情はそのままであり、感情を読み取ることができない。だが、この中でクラウディアだけが心の中で笑っていた―――ああ、漸く、平民になれる、と。
◇◇◇◇
きっかけは単純なものだった。公爵家の繁栄のことしか考えない父親と、無能な息子を王に据えたい国王夫妻の、一番の被害者クラウディアは日々こなさなければならない公務に疲弊していた。疲れがピークに達したクラウディアは、町娘風に変装し、こっそり市井に降り散策をしていた。屋台の前をぼんやり歩いていると。
「おい、嬢ちゃん。」
「……。」
「なぁ。」
「……。」
「おーい、聞こえてるか。」
急にクラウディアの視界に入った中年の男は、体格が大きく、目は鋭く、髪も髭もぼさぼさで一見すると街のごろつきのようだった。だがよく見ると、雑貨を取り扱う屋台の店主であることが分かった。
「も、申し訳ありません。私のこととは思わず……。」
クラウディアが深々と頭を下げると、男はぷっと噴き出した。
「嬢ちゃん、上手に変装しているけど、言葉と所作でバレバレだ。」
「……っ!」
貴族であることが呆気なくバレてしまったクラウディアは息を飲んだ。男はまた笑い、大丈夫だ、と頷いた。
「疲れているようだったからさ。ほらこれ。」
男が差し出したのは、可愛らしい飴が詰められた、美しい木箱だった。
「あ、お金を……。」
「ははっ、あげるよ。俺が作ったんだ。」
荒々しい見た目とは裏腹に繊細な装飾が施された、その箱を見たクラウディアは、何故だか涙が流れた。それほど、心身共に疲弊していたのだ。
「ちょっ!お、おい、大丈夫か?」
慌てふためく男を見ながら、涙は止まらなかった。この男のように気遣ってくれる人間は、クラウディアの周りにはいなかった。男の優しさが胸に響いた。男は、どこからかしわくちゃなハンカチを探し出し、ぶっきらぼうに差し出した。それすら、クラウディアの心に深く刺さった。しばらくしてクラウディアが泣き止むと、男はホッとしたように目を細めた。
そして、この男との出逢いが、クラウディアを『イケオジ』沼に、突き落とした。それは、深い、深い沼だった。
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