風花の舞姫 破魔矢

百舌

第1話 破魔矢

 信州も春が顔を出してきた。

 まだまだ朝晩は冬の凍てついた衣を纏っている。その衣の向こうをめくればちらりちらりと春の風が香っている。例大祭は月末だけど、参道に居並ぶ桜は準備万端のようだ。

 つまり気の早い桜が蕾を膨らませてる。

 裸の枝に幾分は桃色が混じって見える。

 けど山麓の頂には、純白の残雪が残る。

 まだ陽は高くなくて、カーテンの向こうは薄暗い。けど幹線道路を行き交う車の排気音が聞こえてくる。 

 ボクはベッドから抜け出せないでいる。

 この時期の二度寝ってマジ幸せなんだ。

 それでも新学期が始まって最初の部活。

 サボりは、もう勘弁してくれないなあ。

 もう後輩が入ってくるし、うんと下腹に呼吸を溜めて抜け出した。まだ部屋の気温は10℃に満たない。冬の残り香のようなものよね。

 上半身を起こすと、床に敷いたマットレスから同じ動きで、史華姉が起き上がっている。とろんとした潤いのある瞳をしている。心がある動きではないのは、まだ意思を彼女には切り分けてはいないからだ。その隣にはもうひとり、背を向けた少女の後頭部が見えている。

 実はその少女こそが史華ふみか姉の本体になる。

 黒い羽衣に年齢を奪われてしまっている。

 ばかりか代謝が薄くて、ほぼ冬眠に近い。

 見た目はほぼ中学生程度に幼くなってる。

 ひょっとしたらと思い、あの鏡を使った。

 実年齢なりの史華姉の影が産み出された。

 でも失敗だったな。

 人格のない肉体がそこに出現しただけ。その隙間には元の人格の片鱗は見えるけど。やはり黒い羽衣が奪い去った史華姉の魂を取り返さないと、この状態は解消しない。

 それでこの家に預かることになった。

 この家は室町期から続く神社を営んでいる。

 山岳信仰が開祖らしいけど、再び隆盛になったのは祖母の代からだ。祖母には不思議な能力があったらしい。いわゆる千里眼。人探しや無くし物を尋ねると、初対面であってもその所在を言い当てたらしい。

 そして祖母は雪女を樽沢の分社に住まわせることになる。

 六花姉、彼女が雪女であることは、家族以外には秘密だ。


「・・・ちょっと待っていてね。先におトイレ済ましてくるから。順番よ」

 と彼女に声をかけて先に用を足しに行く。冷蔵庫から麦茶を出してコップに入れてキッチンに置いておく。最初の頃は史華姉はおトイレも失敗しちゃってた。ボクの身体に連動してしまったからだ。

 祖母の力は覚醒遺伝ってゆうのかな、自然と身に備わっていた。

 幼い頃から誰かの考えていることとか、誰かの見ているものとか、自然に脳裏に浮かんでくる。そう誰かの意識に潜って、記憶を巻き戻すことができるので、無くし物なんて造作なく探せる。

 史華姉にも意識の切り分けができるので、随分と助かるようになった。

 ぱちんと彼女の目前で指を鳴らした。

 はっと身じろぎをして、目に光が灯った。

「おはよ」と声を掛けると、嬉しそうに「おはよ」と返してくれた。

「さ、準備してね」

 史華姉の尿意が伝わってくる。そして彼女の視覚が捉えているものが脳裏に浮かぶ。ボクの意識の断片である程度のルーティンは自分で行動してくれる。

 おトイレ済ませてね。

 ちゃんと水分とって。

 歯磨きとか自分でね。

 そう意識してあげると自分で階下へ降りてやってくれる。

 一連の出来事は最後にまとまって《想い出す》ということになる。どうしても時間差にはなるのはしょうがないの。渡してあるのは、お小遣い程度の意識でしかないから。そして自室で身支度をしているボクに、レポートのように史華姉が知覚した光景が湧き出してくる。

 用を足して、まだ生理は来ていないのを確かめる。

 キッチンに行き、コップの麦茶をごくごくと飲む。

 次に洗面所で、鏡を茫然と見ながら歯を磨いてる。

 高校に制服がないので、コーデには時間が掛かる。

 その傍で史華姉は夢現つのような現実味のない表情をしながら、部屋着から着替えている。ブラも自分でちゃんと付けている。肉体にもメモリがあるのかもしれない。残っているそのメモリに「お着替えしてね」と後押しさえすればいいのだと思う。しかもその証拠に胸をかき集めて、カップに収める仕草や手順がまるでボクとは違う。

 だってぇ、そもそも量が違うんだ。

 今日も史華姉はお留守番をして、史華妹のお世話をお願いして明科高校へ行くことになる。そろそろ史華妹もお風呂に入れてあげたい。それは2限目の物理探究の時間にやろっと。

 ボクの肉体を眠らせていると、史華姉の肉体には憑依して行動することができる。煩いことを言わない先生の、物理探究なら熟睡できそうだ。流石にお湯を張ったバスタブに、ルーティンで妹のお世話をさせるのは危険だと思う。

「色葉か」

 玄関先に父が顔も見せずに書斎から声をかけてきた。

 玄関の隣が書斎なので、戸口の出入りには気を使う。

「うん、今日は部活やってくるから、少しは遅くなるかも」

「そろそろ流鏑馬やぶさめの練習かや?」

「そうね。高校では近射の練習しかしてないけど。夏になると神事なので、そろそろ馬にも慣れておかないとね」

 玄関ドアをそっと閉めてゆく。

 咲耶さくや色葉の名に恥じない神事にしないと。

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