取引47件目 社内トラブル

「――ただいま」

「おかえり、珍しく残業か?」

「定時で打刻したけど、ちょっと話し込んでて遅くなった」


 会社には人が多くいるため、退社するのが分かりきっている人間にも平気で話しかけて長話をする人種が一定数いる。


 話していて苦ではないが、打刻する前に話しかけて欲しいとは常々思ってしまう俺はせこいのだろうか。


 今日は俺より早く帰っていた百鬼さんは、エプロンをしている。

 美味しいご飯が食卓に並んでいることが容易に想像できた。


「たまにはいいじゃないか。社内での交流は大切だぞ」

「まぁそっすね」


 百鬼さんの意見には納得するが、交流より自分の時間の方が大切だと思う俺はまだまだ

未熟なんだろう。


「もうご飯の用意は出来てるぞ」

「あざす」


 仕事終わりにすぐご飯が食べれることは実家暮らしの特権だが、まさか上司の手料理を食べれるようになるなんて誰も想像できないよな。


   

 ***


   

 いつも通りの朝。


「ちょっと聞いた? 不破さんの件」

「聞いた聞いた、信じられない!」


 ではない、どこか殺伐とした朝。

 オフィス内ではヒソヒソと噂話が飛び交っている。


「それもそうだけど、別府さんもよ! 信じれない!」


 察するに、別府さんと不破さんにヘイトが集まっている。


「おはーす。えらくギスギスしてるっすね」

「おー。おはようさん。なんでも不破さんと別府さんがコレの関係ってことがバレたみたいでなぁ」


 そう言うカズさんは、左手で丸をつくり右人差し指をそこに抜き差しするお下品なジェスチャーをしてみせた。


「へー、不倫ってやつっすか」

「幻中くん、えらいあっさりしたリアクションやな」

「誰が誰とどうこうしようと興味ないんで」


 そうは言いつつも、こんなにギスギスした空間は少ししんどいものだな。


 別府さんは愛妻家ってこともあったし、今回の件は当然大幅なイメージダウンだろう。不破さんに関しても、一応清楚系で周りはチヤホヤしていたみたいだし、ヘイトを溜めるだろうな。


 この空気がどうにかならないか。そう考えていると、徐に百鬼さんが席を立って、噂話で盛り上がる席へと果敢に進んでいく。


 他部署の人が集まる場所だというのに、一切臆することなく突き進み、「根拠のないことで騒ぐのはどうかと思います」と一蹴して静寂を取り戻した。


「唄子さん、そのメンタル羨ましいっす」

「私はただ意見を言いに行っただけだぞ」


 平然とそういう百鬼さんのそういうところ、マジでかっこいい。


 静かになったオフィスだがそれはそれでなんだか気まずいななんて思いながらも、俺は自分のタスクを整理している。


「……コーヒー買ってきますけどいるっすか?」

「ああ、頼む」


 なんだか落ち着かない。


 不倫だのなんだのは心底ど腕もいいが、俺は別府さんを少なからず目標にしていた節がある。


 鍛え上げられた肉体に、仕事のできるハイスペック頭脳。それに愛妻家という恋愛面的にも目標にしがいのある人物だと思っている。


 そんな彼が不倫をしたのが、なんだか腑に落ちない。勝手に理想を抱いて失望するのはお門違いなのは分かっている。


 時間が経てばきっと俺の脳内からは消えてなくなる些細な問題。今後は恋愛面以外で目標にしておけばいい話だな。


 そう言い聞かせ、俺はカフェスペースへコーヒーを求めて歩いた。


「――幻中くん」


 カフェへ到着するや否や、弱々しい声が俺を呼ぶ。どうやら先客がいたようだ。


「別府さんじゃないすか。その……大丈夫すか? 噂になってますけど」

「妻とは別居、来週から地方へ転勤が決まったよ」


 そう言う別府さんは何かを決意したような凛々しい顔でコーヒーを啜る。


「僕の落ち度で招いた結果だから、弱音は吐かない。でも、心配してくれてありがとう」

「あの、こんなこと聞くのどうかとは思うんすけど。恋愛って、なんすか」


 恋愛について、俺はこの人に聞いてみたいと思っていた。愛妻家で、ただ一人の女性に対して愛を注げたこの人に。


 ただタイミングがまずかった気もする。


「俺ずっと、別府さんに聞きたかったんすよ。俺はイマイチ理解できてないんで、社内一モテる別府さんなりの解釈を」

「恋愛とは何か……か。そうだなぁ」


 純粋な恋愛とは程遠い行いをしたこの人に尋ねるのはどうかと思うが、以前は恋愛してたんだ。何も問題ないだろ。


「僕は人生においての試練だと思うよ」

「試練すか」

「うん、考えてみてよ。世の中には色々な人がいる、そんな中で一人の人に一生愛を誓うのは、相当の覚悟と決意がないと、こうやって瓦解する」


 別府さんは自虐を交えながらこう語る。


「もちろん妻を愛せなくなったわけじゃないけど、妻と同じくらい愛したいと思ってしまう人が現れた。その点から恋愛は試練かな、なんて思ってるよ」

「どんな人が現れても揺らいじゃいけないっすもんね。恋人か奥さんがいれば」

「うん、本当に反省してるよ」


 別府さんの目からは、真剣に奥さんへ対する反省が感じ取れた。この人は自身のした行いに対しての自覚がしっかりとできていて、悔い改めれる人なんだな。


 したことは軽蔑されるだろうが、俺はやっぱりこの人を目標にしたいと再認した。


「変な質問してすみませんでした。俺はこれで失礼しますね、またどっかで会えたら、色々聞かせてくださいよ」

「ありがとう、またね。幻中くんは自身の選択に悔いのないように生きてね」


 そう言う別府さんに見送られて俺は、カフェスペースから自席へと戻る。


「そんな人じゃないと思ってた? バカじゃない!? 人間に夢見すぎなのよ!」


 渡り廊下で、どこかから声が聞こえる。


 耳をすませば、どうやら非常階段のところかららしい。

 分厚いドアを貫通するまで叫ぶこの声に、俺は聞き覚えがある。


 それに、今渦中の人だし、関われば何かと面倒だからスルーしたいが……。


「荒れてるっすね、不破さん」


 流石にこれを無視できるほど俺のスルースキルは高くなかった。


「尻軽女になんの用です? 幻中さん」

「声聞こえたから来ただけっすよ……飲みます?」


 どう話しかければいいか。分からなかった俺はとりあえず百鬼さんに買ったコーヒーを差し出した。あとでまた買いに行こう。


「遠慮なく……」


 申し訳なさそうにコーヒーを受け取る不破さんは、冷ますように息を吹きかけながらコーヒーを啜る。


「……幻中さんはアタシのこと罵らないの?」

「急になんすか、あんまり他人に性癖を吐露するのはおすすめしないっすよ」

「気持ちよくなりたいから罵ってって意味じゃないのよ」


 ジトっとした目つきでツッコミをする不破さんは、少し元気になったのだろうか。口調が砕けたように感じる。


「あ、そすか」

「みんな口を揃えて『そんな人じゃないと思ってた』、『失望した』なんて言ってくる。まぁ不倫したアタシが悪いんだけどね」


 語気強めに言う不破さんは随分周りの人間から罵られたのだろう。可哀想だとは一切思わないが、少しだけ同情はしてしまうかもしれない。


「でもさ……」

「でも?」


 プルプルと、爆発寸前の感情を抑えるように震える肩。


「私だって一種の動物なのよ、どんな綺麗事纏ったって構われたいし愛されたいの!」


 力強く不破さんは言う。


「不倫するからクズ? 確かにクズね、人間失格よ。でも幻想しか抱けないくせに妄想押し付けて、好きとか愛してるとか言ってたくせに失望するのもよっぽどじゃない?」

「……」


 不破さんの言葉に俺は何も言うことができず、ただ黙って話を聞いているしかできない。


「私が思うに好きだの愛してるなんてのはね、相手と対等な立場で言えるものよ。捧げる言葉じゃないの」


 伏目で虚に浸る不破さん。


「そこんとこ理解できないのに勝手に期待して失望しないで欲しい!」

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