三杯のコーヒー

アンナがカフェで恋愛小説に没頭していたのは、彼女にとって至福の時間だった。暑さを感じさせない軽やかな風が窓の外から吹き込み、街路樹の葉がそよぐ音が心地よく響いていた。彼女が手にした小説のページをめくるたびに、物語の登場人物たちの感情が生き生きと浮かび上がり、彼女はその世界に完全に引き込まれていた。


窓の外から差し込む午後の日差しが、アンナの髪と瞳を柔らかく照らし、その姿に目を奪われたユージンは、カフェのカウンターで思わず立ち止まった。彼女の存在感がまるで絵画のように際立って見えたのだ。彼は長らく恋愛に臆病で、特に初対面の女性に話しかけることなどほとんどなかった。しかし、その日、彼はなぜか彼女に話しかけたいという強い衝動に駆られていた。


「でも、どうやって話しかければいいんだ…?」ユージンは心の中で迷っていた。彼女が飲んでいるコーヒーを見て、同じものを注文するか、それとも違うアプローチを取るべきか。ユージンはカウンターの前で何度か立ち止まっては、メニューに目をやり、ついに決めきれずに三種類のコーヒーを頼んでしまった。アメリカーノ、エスプレッソ、そしてカプチーノ。どれも異なる風味と個性を持つコーヒーで、アンナがどれを好むのか分からなかったからだ。


彼は深呼吸し、勇気を振り絞ってアンナに話しかけた。「すみません、ちょっと質問してもいいですか?」


アンナは驚き、顔を上げた。彼女の瞳が彼に向けられた瞬間、ユージンは一瞬息を呑んだ。彼女の緑の瞳は思った以上に澄んでいて、まるで真夏の湖面のように静かで深い色をしていた。


「もちろん、何でしょうか?」アンナは不思議そうに彼を見つめながら答えた。ユージンは一瞬言葉を失いそうになったが、何とか話を続けることができた。


「あの、僕はよくこのカフェに来るんですが、あなたがどのコーヒーが好きなのか、つい気になってしまって…」彼はぎこちなく笑い、持っていた三つのカップを見せた。「僕、どれが一番お好みか分からなくて、三種類全部頼んじゃいました。」


アンナはその言葉に思わず微笑んだ。彼の真剣な表情と少し不器用な態度が、彼女にとっては妙に愛らしく感じられたのだ。「私はアイスコーヒーが好きなんですけど…」と少し照れくさそうに答えた。


ユージンはその答えに安心し、慌てて「あ、そうですか!じゃあ、この中にはないですね…でも、良かったらこのエスプレッソをどうぞ」と言ってカップを差し出した。アンナは少し驚いたが、彼の誠意を感じ、微笑んで「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですよ。」と断った。


それでも、ユージンは引き下がらなかった。「いや、どうぞ。せっかく頼んだので、誰かに飲んでもらった方が嬉しいんです。」


アンナはその優しさに心を動かされ、ついにエスプレッソを受け取った。「ありがとう、じゃあいただきます。」その小さな一歩が、二人の会話のきっかけとなり、その日から二人は頻繁にカフェで顔を合わせるようになった。


次第に、二人は恋愛小説の話題で意気投合し、お互いの好きな作家やお気に入りのシーンを語り合うようになった。アンナは小説の中で描かれるドラマチックな恋愛に憧れていたが、実際には自分の恋愛には臆病で、なかなか誰かと深い関係を築けずにいた。ユージンもまた、恋愛に関しては経験が浅く、過去の失敗に囚われていた。しかし、二人が出会ったカフェという場所が、少しずつお互いの心の壁を取り払ってくれた。


何度もカフェで会ううちに、二人は自然とお互いを求め合うようになり、その気持ちは日に日に強くなっていった。


そしてある日、ユージンはついに意を決して、アンナに提案した。「今度、一緒に三杯のコーヒーを飲みませんか?」彼の顔には緊張の色が浮かんでいたが、真剣な瞳がアンナを見つめていた。


アンナは一瞬驚いたものの、すぐにその意味を理解し、微笑んだ。「もちろん。三杯でも四杯でも、あなたと一緒なら何でも。」


その言葉に、ユージンは心から安堵し、彼の顔に大きな笑みが広がった。それが二人の正式な初めてのデートとなり、カフェで三杯のコーヒーを楽しむことになった。


デートの途中、アンナが「私、三杯もコーヒーを飲むのは初めてよ」と言うと、ユージンも微笑んで「僕も初めてだ。でも、この時間を共有できるなら、何杯でも飲めそうな気がするよ」と答えた。


二人はコーヒーを飲みながら、これまでの人生や夢について深く語り合った。アンナは昔から作家になりたいという夢を持っていたが、いつも自分に自信がなく、その一歩を踏み出せないでいた。ユージンもまた、アートギャラリーを開く夢を抱いていたが、経済的な不安や将来への恐れから、まだ実現には至っていなかった。


「私たち、似た者同士なのかもしれないね」とアンナはぽつりとつぶやいた。


ユージンはその言葉にうなずきながら、彼女の手をそっと握った。「そうだね。だからこそ、これからはお互いを支え合っていけたらいいな。」


その瞬間、二人の間には言葉にできない深い絆が生まれた。三杯のコーヒーは単なる飲み物ではなく、二人にとって心を通わせる象徴となり、その後も彼らは頻繁にカフェで三杯のコーヒーを注文するようになった。


アンナが好きなアイスコーヒー、ユージンが好むエスプレッソ、そして二人が一緒に楽しむカプチーノ。これらのコーヒーは彼らにとって、特別な時間と絆の象徴となり、未来への希望を育んでいった。二人は、これからもカフェで共に過ごしながら、お互いの夢を支え合い、愛を深めていくことを誓った。


そのカフェの一角で、今日もまた、二人は静かに三杯のコーヒーを飲みながら、これからの人生を語り合っているに違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る