女家庭教師(ガヴァネス)リディア・クラークの楽しい授業 ~準備はよろしくて? わたくしの生徒たち~

完菜

一時間目 初授業

|「ブラッド! 待ちなさい!」


 捕まえられるなら捕まえてみろという目でリディアを見ると、男の子は勉強部屋の窓からひらりと身を乗り出して外に逃げて行った。


「なんてこと……」


 逃げて行った男の子ブラッド・ジョーンズの女家庭教師ガヴァネスであるリディア・クラークは、呆気に取られていた。リディアは、三日前に初めて女家庭教師ガヴァネスとしてこのジョーンズ家に派遣されて来た。そして今日は、記念すべき授業一日目だった。

 どんな生徒が待ち構えているのだろうと、胸をときめかせていたのに……。現実は、教師の言うことなんて聞かない生意気な男の子だった。


 ブラッドが逃げて行った窓に寄って外を見ると、彼はジョーンズ家の庭でボール遊びをしていた。リディアがいる勉強部屋は一階にあり、目の前が芝生の広場になっている。

 ブラッドは、今まで勉強をしたことがない六歳の男の子だと聞いている。リディアが来るまでは、毎日外で一日中遊んでいたようだ。


「さあ、どうしようかな……」


 リディアは、楽しそうにボールで遊ぶブラッドを見ながら考えていた。ジョーンズ家は、貴族ではなく商店を営む平民だ。平民だと、まだ子供に学問を学ばせる家庭は少ない。

 ブラッドぐらいの年齢だと、一日中同じくらいの子供たちと遊んでいるのが普通だ。彼の中で、何で俺だけ勉強なんてしなくちゃいけないのだという気持ちがあるのだろう。


 だけど、ブラッドの両親は商売に成功した平民の中でも富裕層だ。きっと子供に学問を身に着けさせることで箔をつけたいのだ。

 金銭的なことだけだと、余裕のない貴族なんかよりも贅沢をしている。爵位はないけれど、子供には貴族と同じような教育をさせられるという見栄を張りたいのだ。


 そんな両親の思惑なんて、子供は知る由もない。ブラッドにとってみたらリディアは、いきなり勉強を教えに来た悪い奴と認定されても仕方が無かった。

 リディアにとってブラッドは、女家庭教師ガヴァネスになって初めての生徒だった。最初から上手く行くはずないと思ってはいたけれど……いきなり大きな壁にぶち当たってしまう。

 リディアは、憧れの女家庭教師ガヴァネスがいてその人のようになりたいとこの職業についた。だけど、素敵な女家庭教師ガヴァネスへの道のりは遠いのだと思い知る。


「よし! まずは仲良くなるところから始めるしかない!」


 リディアは、弱い気持ちを振り切って右手で拳を握る。こんなことくらいで落ち込んでいたら先が思いやられる。

 自分は、女家庭教師ガヴァネスとして生きていくって決めたのだ。ぐじぐじするのは、色んなことを試した後だ!


 リディアは、女家庭教師ガヴァネスらしく派手過ぎず真面目そうなキッチリしたドレスを身に纏っている。左胸には女家庭教師ガヴァネスの印である、オリーブの花のバッチが付けられていた。まずは、動きやすい服装に着替えようと自分の部屋に一度戻る。

 クローゼットを開けてどれがいいだろうか? とハンガーにかかっている自分の服をざっと見る。だけど選べるほどの服を持って来ている訳ではない。

 貴族としてのドレスではなくて、簡素なワンピースを手に取りすぐに着替え始める。鏡はないので、部屋にある小さな窓に自分を映して確認した。窓には、地味な色のワンピースを着た女性が映っている。

 赤毛で髪を編んで後ろで纏めている。丸い伊達メガネをかけてほとんど化粧もしていないような、隙のない出で立ちだった。元々、リディアはこんな地味な装いが好きな訳ではない。

 若くて容姿の良い女家庭教師ガヴァネスは、雇用主から犬猿されることが多い。屋敷の住人と恋愛関係になることが好ましくはなかったから。

 そんな理由があり、リディアは一層の地味な装いと容姿を心掛けていた。


 リディアは、身支度を整えると部屋を出て玄関へと向かった。目指すは、ブラッドが遊んでいる芝生の広場だ。広場に到着すると彼は、飽きもせずずっとボールを蹴っている。

 膝の上でバウンドさせて、落とさずに何回できるか記録に挑戦していた。


「ブラッド! 私も仲間に入れて」


 リディアは、ブラッドの目の前まで来ると彼に声をかけた。


「は? なんで女となんか遊ばないといけないんだよ。無理に決まってるだろ」


 ブラッドは、蹴っていたボールを手に持ち冷めた目でリディアを見ている。


「何で無理なのよ? 先生だって、遊ぶことくらいできるわよ」


 リディアは、両手を腰に当てて誇らしげに言う。あまりボール遊びはしたことないが、リディアも外で走り回って遊ぶような女の子だった。できない訳がないと妙な自信を持っていた。


「先生がそんなことしていいのかよ?」


 ブラッドは、リディアをガチガチに警戒している。出会って三日でまだほとんどコミュニケ―ションがとれていない。お互い、何も知らない同士なのだ。

 リディアは、まずは警戒をとくところから始めたかった。


「もちろん特別よ。楽しく一緒に遊べたら、先生の授業を受けてもらいたいの」


 リディアは、ブラッドの目を見て偉そうにならないように柔らかい物言いを心掛けた。最初が肝心だ。嫌われたら元も子もない。


「楽しく遊べたらでいいのかよ?」


「いいわ。楽しくなかったら、また挑戦させて」


 リディアは、こくりと首を縦に振る。ブラッドは、疑うような瞳でリディアを見たが「わかった」と呟いた。


「何して遊ぶの?」


 リディアは、ブラッドに訊ねる。すると、ブラッドがボールをリディアにポーンと投げてきた。


「じゃーまずは、投げっこから。先生が今度は俺に投げて」


 ブラッドが、リディアから少し距離をとった。リディアは、手に持っているボールを見る。


(これをブラッドに投げればいいのね。それくらい簡単だわ)


 リディアは、思いっきりブラッド目掛けてボールを投げる。すると、ボールはブラッドに届くことなく二人の真ん中くらいの位置に落ちた。


「何だ先生、へったくそじゃーん」


 ブラッドが、あははと笑っている。リディアは、納得がいかない。自分としては思いっきり投げたつもりだったのに……。


「以外に難しいのね」


 リディアは真顔でブラッドに言い返す。その返事に、ブラッドはまた笑っていた。


「あんなに自信満々だった癖に。やったことないのかよ!」


 ブラッドは、ボールまで歩いて行くと足でチョンと蹴って空に浮かせ手でキャッチした。


「えっ。凄い。なにその技!」


 リディアは、ボールの扱いに手慣れたブラッドを見て感動する。


「は? 何いちいち驚いてるんだよ! ほら、今度は先生がキャッチする番だぞ!」


 ブラッドは、リディアに褒められて照れたのかボールを投げて誤魔化す。さっきはリディアが投げても全く届かなかったのに、今度は凄い勢いでボールがリディアに戻ってくる。


「キャッ」


 リディアは、咄嗟に怖くて避けてしまう。


「先生……。キャッチもできないのかよ……」


 ブラッドは、今度はリディアに呆れてしまったのかやれやれといった表情だった。でも、それもリディアにしたら仕方がないことなのだ。だってリディアは貴族の令嬢。女家庭教師ガヴァネスになったのも、こんな風にボール遊びをするためじゃないのだ……。

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