第2章 第14話 復讐からはじまる投資生活
4月から女子高生の楠木イロハの人生は、数か月前から激変した。
「どうしてわたし、裁判所にいるんだろう……」
ショートボブで、人からは内気に見られているイロハ。
誰から見ても、訴訟とはまったく無縁だ。
それが今、まだ入学式も行なわれていない高校の制服をを着ているのだ。
赤いリボンの制服が、スーツ姿の人たちだらけの上下じょうげ地方裁判所上下支部の法廷に、珍しく映っていることを、自分でも自覚している。
半年前のあの日まで、敷かれたレールの上を歩いていた。
自分の意志もあまりもたない、いや、自分の意志など持たずに、友達と同じように、ただただ何気なく日々を過ごしていた。
しかし、おそろしい事件は突然襲ってきた。
家族旅行の帰りの車、後部座席で疲れて眠っていたところを、急ブレーキで目が覚めた。
お父さんとお母さんが悲鳴を上げている。
車の前には、赤いスポーツカーが止まり、サングラスをかけた「オラってる男」が、イロハ達の乗った車に対し、殴ったり蹴ったりしている……
怖さのあまり、悲鳴すら出せない。
スポーツカーの男は、一度スポーツカーの方へ戻ると、あろうことか、バットを取り出してきた。
フロントガラスをバットで破壊していく……
怖さのあまり、意識は遠のき、その後何が起きたのかは知らない。
次の記憶は、病院の遺体安置室だった。
父と母の遺体を前にしても、悲しみは不思議となかった。涙すら出なかった。むしろ、あのスポーツカーの男に対する恨みが込み上げてくるだけだった……
あの男の刑事裁判、民事裁判は、まだ先だ。
正確には、まだ裁判が行われるかどうかも分からない。
それには理由があった。
「イロハちゃん、本当にかわいそうだわ……」
葬儀の場で、話声が耳に入った。
「あの男、国会議員の息子だったんだろ。上級国民だから、起訴されるかどうか……」
「なんでも、楠木さんが挑発したってことになっているらしいじゃない。正当防衛が成立するかもしれないなんて」
「唯一証言できるイロハちゃんが、気を失っていたとはねえ。これじゃあ、相手の思うつぼだよ」
当時の様子を記憶していないこと。それが歯がゆかった。
相手は、証拠不十分、現在警察の捜査段階ということで、いまだ起訴すらされていない。
では、どうして今、裁判所にいるのか。
父と母が亡くなってしばらくして、イロハ宛に、知らない弁護士から封書が届いた。
郵便受けから封書を取り出した時、これはあのスポーツカーの男と関係のある裁判に関するものだと思った。
「誰か、きっと助けてくれるんだ!」
期待して封書を開封した。
しかし、期待は打ち砕かれた。
「なんなの、これ……」
入っていた書類を読んで、愕然とした。
前略
突然お手紙を差し上げます。
私は上下市に事務所をかまえる弁護士ですが、この度、上下市上下町に居住する方の依頼を受け、貴方を相手とする裁判を上下地方裁判所上下支部に提起しました。おそらくおわかりないことと思いますが、同人が所有する土地に、貴方の被相続人である御尊父が抵当権設定の登記をされ、その登記が抹消されずに今日まで残っています。そこで、その登記の抹消を求めるというものです。
貴方においては、事情を御説明すればあえて裁判の手続きを採らなくとも任意の登記手続に応じていただけたのではないかと存じます。然し乍ら、登記に必要な委任状及び印鑑証明書を相続人全員から同時に集めることは困難であることなどを考えて、裁判の方法により抹消登記をすることにした次第です。何卒御理解下さいますようお願いいたします。
裁判所から近日中に訴状が送られてくることと思います。また、その中に答弁書を提出する旨の記載があり、答弁書の見本も入っています。お手数ですが、記入し、返送のうえ、口頭弁論期日に上下地方裁判所までお越しください。
以上用件のみ。
草々
イロハの家は、比較的古い家で、いくつか土地の貸し借りをしていることを、なんとなく知っていた。
土地の貸し借りもしていたり、土地を担保に、お金を貸すこともあったということは、聞いたことがあった。
いまも、定期的に振り込みがある、という話も聞いていた。
振込と言っても、そんなに高額ではないし、貸したお金の額の方が、よっぽど大きいらしかった。
悪い人は、見逃さないものだ。
土地管理の知識がある父と母が死んでしまったことが分かるや否や、借りたお金のことをうやむやにし、担保として出している土地も、回収してしまおうという魂胆なのだろう。
書類に書いてあったとおり、裁判所から、すぐに案内が送付されてきた。
事件番号 令和4年無量大数号
土地抵当権設定登記抹消登記手続 請求事件
原告 上下市の住人
被告 楠木イロハ
口頭弁論期日呼出及び答弁書催告状
頭書の事件について、原告から訴状が提出されました。当裁判所に出頭する期日及び場所が定められましたから、出頭してください。
なお、訴状を送達しますから、答弁書提出期限までに答弁書を提出してください。
答弁書の見本を見ながら、わけのわからない答弁書を記入していく。
ネットで調べた言葉をそのまま書くしかない。
中学3年生なのだ。自分が何をしているのか、まったく内容が理解できなかった。
添付されている「訴状」や「証拠物写」の書類も、まったく理解できない。
「わたし、被告になっちゃった……」
刑事ドラマなどで、「被告」という単語はよく出てくる。
被告とは、殺人犯などの犯罪者がつけられる言葉としてしか、認識していない。
父と母が死亡してから涙を流さなかったが、ここではじめて、涙が頬を伝った。
「くそぅ、くそぅ!」
知識のない自分、子どもだからと甘く見られている自分。悪い人に対処することができない自分……
悲しみよりも、悔し涙だった。
そして、今、裁判所で判決が読み上げられる。
内容は、知識のない自分にはすべては理解できない。
趣旨だけは分かる。
土地は全て原告にわたり、被告である楠木イロハが裁判費用の15万円を負担する。
土地を売ることもできず、よく分からないままに開かれた裁判の費用まで負担することになってしまった。
相手が、弁護士と握手するのが見えた。
「いつか……いつか、知識をつけて、復讐してやる!」
4月、今年は温かい。桜が早くも散り始めている。
父と母の仏壇の線香の火が消えたのを確認してから、家を出る。
挨拶もせずに無言で家を出ることには慣れてしまった。
新一年生は、制服を着て外を歩くのは、今日がはじめてだろうか。
かわいらしい制服なのだが、あまりうれしい気持ちはしない。
制服には、裁判所の陰鬱なにおいが、くっついてしまっているように思える。
上下高校、それが今日から通う高校だ。
「お金、卒業まで持つかな……アルバイトも、しないとな」
高校では、部活や委員会、楽しいことがたくさんあるだろうと、半年前までは思っていた。
しかし、今はちっとも、そんな気分はしない。
「アルバイトをはじめたら、勉強はできないから、授業はしっかりと聞かないとな」
友達同士で通学している生徒の笑顔が見える。
「いい気なものだな……」
この中で、裁判所の法廷に立ったことのある生徒など、いるのだろうか。いや、そんな生徒は、イロハだけだろう。
みんな、ただ、なにげなく、なんの不安もなく、高校生活をスタートさせるのだ……
通学初日は、退屈だった。
これからの高校生活の説明。入学式。どれもこれも、茶番に思えた。
「あの事件がなければ、もっと楽しめたのかな?」
初日があっという間に終わった。
「お金儲け、しないとな……」
当分の生活資金はある。
しかし、それもいつかは底をつく。
早くに、アルバイトを探さなければいけない。
さっさと帰ることにした。
廊下に出ると、早くも部活の勧誘がはじまっていた。
運動部の部活は、断ってもついてきて、辟易する。
文化系の部活も、仲良しごっこをしているようにしか見えない。
「はあ、こんなことしても、1円の価値にもならないよ」
そう思って、廊下を歩いた。
「ん? 玄関とは、逆の方向にきちゃったかな」
人気のない、見慣れない場所にきた。
「ここ、部室ばかりある場所だ。方向間違えちゃった」
もと来た方へと戻ろうとする。
すると、部屋の中から、声が聞こえる。
「文化系の部室かな?」
大きめの声が聞こえてきた。
「うわー、なんだよー、ドル高止まんねー!!」
「カリン先輩、また損したんですか。わたしは、大儲けです!」
「大儲け」という言葉に過剰に反応してしまう。
「1円分もぶんどられたよ~」
「わたしは、ずっとロングで入ってますから。もう10万円の利益です!」
イロハは、そんな声を聞いて、喉がかわいていくのを感じた。
「なに……10万円? 大儲け?」
ごくりと、乾いた喉につばを飲み込む。
「ううん、変なことしているに違いない。早く帰ろう」
もと来た方へと体を向けると、ガラッ、とコンピューター室のドアが開いた。
「あれ? 見学者?」
見ると、2年生の青いリボンをつけたポニーテールの女子と、三年生の緑のリボンをつけたショートカットの女子が出てきた。
「あ、いえ。ちょっと道に迷っただけです」
とっさに答える。
「ああ、そっか。玄関まで送ろうか?」
3年生の方の女子が、問いかける。
「いえ……」
少し考えて、
「あの、ここは、何の部活なんですか?」
興味本位で聞いてみた。
「ここは投資部だよ」
「投資部?」
聞きなれない言葉だった。
「うん。株とか、FXとか、CFDをやって、資産運用する部活。もちろん、資産運用っていっても、デモトレードっていって、本当のお金を動かすわけじゃないんだけどね」
また喉が渇いていくのを感じた。
そして、タラリと背中を汗が伝うのを感じた。
「本当のお金では、ないんですか……」
少し、残念な気もした。
しかし、今度は2年生の女子が言った。
「本当のお金じゃないけど、値動きは、本当のデータを使っているから、実際にどのくらい儲けが出たかをシュミレーションできるよ」
「で、でも、実際のお金を使わなければ、ただの遊びですよね!」
声は、大きくなっていた。
言ってから、あわてて口を手で押さえる。
2年生と3年生は顔を見合わせて、アハハ、と笑った。
「本当のお金じゃないけど、去年はとっても大変だったんだよ。特に、こっちのアヤノがね」
「ちょ、カリン先輩! でも、去年は、わたしもカリン先輩も、年利20パーセントたたき出さないと、留年って言われちゃっててね。大変だったんだよ」
言っている意味がよく分からない。
でも、何やら、この二人は、とてつもないことをやっているような気がした。
「あの、ちょっとだけ、見学させてもらってもいいですか!」
2年生のアヤノと3年生のカリンは顔を見合わせて、
「大歓迎!」
と同時に言った。
投資部の中は、いくつかパソコンがあった。
パソコンには、長い棒がいくつも並んでいる。
「あの、これって、株価を表すグラフですよね」
「よく知っているね」
カリンが、ニコニコしながらうなずく。
「投資部って、どういう活動をしているんですか」
「それはねえ」
カリンが株、FX、CFDについて説明をはじめる。
株は、上場している企業のもの、FXは通貨の為替変動、CFDは日経平均などの指数や、金や原油などの商品に投資できることが説明された。
知らない単語で頭がくらくらしてきた。
でも、お金のにおいがする。ここは、意地でも聞いておかなければならない。
カリンが説明を終えた。
「あの、お二人は、昔から投資に興味があったんですか?」
今度はアヤノが答える。
「まったく、最初は何のことか分からなかったんだよ」
「分からなかったんですか」
「うん。でもね、わたしたち、投資部で、100万円でスタートして、この前の3月末までに120万円にしないと、留年ってことになっていて、それはもう、必死だったんだよ」
アヤノは、自分が交通事故で長期入院していたこと。カリンが新型コロナウイルスの影響でやはり長期入院していたこと。授業日数が足りなくなってしまい、今年からはじまる投資教育の先駆けとして創設された投資部で、年利20パーセントをあげることができれば、授業日数を公欠として認めてくれることになったことを説明した。
「それで、お二人とも、無事に進学できたんですね」
「うん。アヤノなんて、最終日ギリギリだったんだよ。あの時は、ひどかったよね~」
「ですね。本当に、もうダメかと思いました」
この二人が、タダ物ではないように思える。
「もしだめなら、わたし、また1年生でしたよね。そう、あなたと、クラスメイトだったかもね。えーと」
「あ、わたし、楠木イロハです」
「わたしは、2年生の足利アヤノです。よろしくね」
「あー、自己紹介始めちゃってる。コホン。わたしは、3年生で部長の、新田カリン。よろしく!」
アヤノとカリンから、一通り、チャートの動きを教えてもらった。
「それじゃあ、実際にやってみようか!」
カリンが言った。
「いいんですか?」
「うん。デモトレードだから、実際のお金を動かすわけじゃないし、気楽にね。最初は、分かりやすくドル円から」
カリンは、マウスをポチポチ押して、ドル円と書かれたチャートを表示した。
「1分足っていって、今の動きがよくわかるよ。とりあえず、やってみてよ」
チャートが上下に動いている。
「これって、今の本当の値動きなんですよね」
「うん。デモトレードとはいえ、本物だよ」
「買い」と「売り」と書かれた表示がある。
「えーと、ここは、買い」
おそるおそる、「買い」と書かれた表示をマウスを押した。
画面に「1lot約定」と表示が出た。
すぐに金額が表示される。
「最初から、マイナス20円って書いてます」
「あーそうそう、これがスプレットっていってね。証券会社が取る、手数料みたいなものなんだよ。ドル円の場合は、0.2銭だよ」
「0.2銭で、20円!」
1円は100銭のはずだ。
ニュースで、円相場を読み上げるとき、何銭などと言っているのを聞いたことはある。
しかし、さらにその下、0.2銭の単位など、どれほど小さな単位なのだろう。
そんな小さな単位を扱っていることに驚いた。
「あ、すぐ0になった」
画面を注視する。
「チャート、上がってきました。すごい、50円。100円、200円まで行きました!」
「うんうん、いい調子だね。2銭上がったね」
「これ、本当のお金でも、こんな簡単に儲かるんですか?」
「うん、本当のお金でやっても、おんなじ額が動くよ。でも、簡単ではないよ」
「あ!」
チャートは、すぐに下落を始めた。
「マイナス、1000円!」
「あー。10銭も一気に下落しちゃった。そろそろ、決済しようか」
決済と書かれた部分を、クリックする。
損益の部分に、「-1000」と表示が出た。
隣で見ていたアヤノが、フフっと笑った。
衝撃を覚えた。まだ、数分しかやっていないのに、お金が、こんなに増えたり減ったりする。
ふと、頭に、考えが浮かぶ。
これを覚えれば、もしかすると、お金を稼ぐことができるのではないだろうか。
アルバイトの時給は、高くても千円前後だ。でも、FXなら、ものの数分で、稼ぐことが可能だ。
それに、この二人の先輩は、デモトレードとはいえ、進級をかけて、20万円を獲得した人たちだ。
知識がなければ、簡単に何もかも、知識のある人に持っていかれる。
今もそうだ。何も知らないで、FXをやってみたら、ものの数分で千円を取られてしまった。でも、今度は、自分が覚えて、稼ぐ番だ。
何事も、お金がないとはじまらない。
そして、これは自分が、社会への「復讐」を果たす絶好の好機なのではないだろうか!
「あの!」
思わず、その場に勢いよく立ち上がった。
「わたしに、投資を教えてください!」
アヤノとカリンは、ポカンと立ち上がったイロハを見ていた。
「えーとそれって、入部してくれるってこと?」
「もちろんです!」
「いいの、部員、私とカリン先輩しかいないけど?」
「じっくりと、投資にむき合えて、いいじゃないですか!」
アヤノとカリンは、また顔を見合わせて、アハハと笑った。
笑われて、少し恥ずかしくなった。
「よーし、じゃあ、投資部、スタートだね」
「ですね、今年も頑張りましょう!」
「よろしくお願いします!」
こうして、ひそかな復讐の野望を果たすための、投資生活がはじまる。
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