第3話 プーチンにやられたんです!!
マウスに置いた手の上に、カリンの手が重なっている。
パソコンには赤字で12万円の損失額が表示されている。
カリンの手は、温かい。なんだか、根拠はないが、なんとかなりそうな気がしてくる。
今まで気づかなかったが、かなりカリンと接近している。カリンの制服からは、どことなくコーヒーの香りがただよってくる。
ちらっとカリンの顔を見ると、いつもトボケタような言動でニヤニヤしていることが多いが、今回ばかりは真剣な表情だ。
いつもとは違うカリンに、少しドキリとする。
と、そこで勢いよくドアが開かれ、中年の男がドカドカと入ってきた。
「おう、調子はどうだ。120万円以上をキープしているか」
しわがれた声で言ってきたのは、顧問の
3年生ではないアヤノとカリンとは、普段の接点がない。
それに、部活にもほとんど顔を出さない。たまに現れては、現状の投資成績を聞いて戻っていくだけだ。
「うん?」
と大孫は、今開いているパソコンの画面をのぞき込む。
「12万円の損失? 資産108万円だと?」
大孫が嫌味そうに言う。
「おまえ、この前120万円以上だったよな。どうしたんだ、これ?」
大孫と目を合わせないように、顔を沈める。先ほどカリンに癒されたばかりなのに、サーっと血の気が引いていくのを感じた。
「あと1か月しかないんだぞ。留年したいのか?」
何も言えない。
そうだ。期限まであと1か月しかない。1か月で12万円を稼ぐなど、ほぼ不可能に近い話なのだ。やはり、現実を突きつけられると、辛い。
「もしかして、欲にまみれたのかぁ~?」
さらに大孫は嫌味に言ってくる。
「今年の3年生が卒業したら、今度は1年生の担任を持つことになるんだが、まさか留年した生徒を教えることになるとはなぁ」
大孫はヤレヤレという態度を、ジェスチャーを交えて大げさに表現する。
また、1年生をやり直す。今年1年頑張ってきたことが、たった一度のミスで台無しになる。そう考えると、自分のしてしまったことが、取り返しのつかないことなのだと改めて感じた。
「投資は自己責任って言うしな、まあ、諦めるんだな」
先ほど、ようやくカリンに抱きしめられておさまった涙が、また頬を伝ってたのが分かった。今にも声まで出して泣いてしまいそうなのを必死にこらえる。
「まったく、俺の出世にもかかわるのによぉ」
もうだめだ、声を出して泣いてしまう……
バチン!!
と大きな音がした。驚いてアヤノが顔を上げると、すごい形相で大孫があおむけに倒れていた。どうやらカリンに殴られたらしい。
「いててて」
大孫が上半身をおこそうとする。そこへ
「ふざけんな大孫!!」
と怒鳴って、カリンが飛び乗る。
「おい、なんだ、降りろ!」
大孫が抵抗するが、小柄なカリンは必死で大孫を抑え込む。すごい力だ。
「アヤノに、アヤノに謝れ!」
「は? 何言ってるんだ! 教師に暴力を振るって! 内申点に響くぞ。停学、いや退学だぞ!」
まだ大孫は抑え込まれている。
「アヤノに謝れ!」
カリンが繰り返す。
「謝らないといけないことなんて、してないだろ。降りろ!」
まだカリンは大孫を押さえつけている。小柄な女子高生のどこにそんな力があるのか。カリンは果敢に大人の男を抑え込んでいる。アヤノは立ちすくむ。どうしていいか分からない。
「いい加減にしないと、お前の親に、連絡するぞ!」
大孫が怒鳴りつける。しかしカリンも負けていない。
「いいよ、連絡してみてくださいよ。でも、状況はこっちが上なんですからね」
「な、なんだとっ!」
「教員に迫られたって言うんだから! なんだったら、今大声上げて、人を呼んでもいいんですよ。この状況見たら、不利になるのは先生ですからね!」
そこまで言われて、大孫ははっとしたようだ。
確かに、カリンが仰向けの大孫の上に乗ってはいるが、第三者がこの現場を見れば、当然大孫がよからぬことを迫ったと思うだろう。
「お、おまえ!」
「どうだ、アヤノに謝れ!」
そこにきて、ようやく大孫が力ずくでカリンを押しのけた。
「お、おまえたち、一体なんなんだ。第一、こんな状況にどうしてなったっていうんだよ!」
大孫が大声で怒鳴る。しかし、それにも負けない気迫でカリンが、
「プーチンにやられたんです!!」
と怒鳴った。
大孫はその気迫と、自分では到底相手にならないような一国の指導者の名前を出されたことにたじろいだ。
「と、とにかく、120万円に届かないと、留年なんだからな。覚えとけよ!」
そういって、大孫は逃げるようにして部室を出て行った。
カリンが全身で息をしている。
「カ、カリン先輩、だいじょうぶ、ですか?」
カリンは、はあ、と一度深呼吸して、ニコリとアヤノに笑顔をむけた。
「やっちゃったね」
「や、やっちゃったって……」
「まあ、なんか言われたら、さっき言ったように、強く迫られたって言うよ。あんまり、そういうのって良くないとは思うけど、使えるものは使わないとね」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「でも、ごめん。大孫の口から、アヤノに謝らせたかったんだけど」
「あの、カリン先輩!」
感情を抑えきれず、カリンに抱き着いた。自分でも驚いてしまった。自分は、こんなに人を頼らなければいけない人間だったろうか。
「ア、アヤノ、どした?」
大声で泣いてしまった。
「よーしよし、まあ、こういう時は先輩に甘えなさい」
カリンが頭をなでてくれる。
「カリン先輩。ここまでしなくていいですよ……。わたしが、悪いんですから……」
「ううん、アヤノは悪くないよ。これから、頑張ろう。なんとかなるよ」
しばらく、カリンの胸の中に顔をうずめていた。
そうして、ロシアウクライナ侵攻の歴史的な一日は終わっていった。
25日、朝から、妙に気持ちが軽かった。大孫に言われた、投資は自己責任という発言にはショックを受けた。そして、あと1か月で12万円の利益を得なければならない。その憂鬱さはある。なにより、昨日大泣きしたせいで、顔が腫れている。
しかし、カリンに励まされ、これだけ頼りになる先輩が身近にいたことを認識できたのは嬉しかった。
上下じょうげ高校では、すでに3年生は卒業式を目前に控え、その練習だけで帰宅していた。1年生と2年生しかいない午後の校舎の中は妙に静かだ。
年度末の大人たちは忙しない。先生にたのまれてプリントを職員室に運ぶ。先生たちは、誰が異動するのか、次はどんな先生が来るのか。スポーツ推薦で大物の生徒が入学してくる、といった話題で持ちきりのようだった。
職員室にあるテレビで、ロシアのウクライナ侵攻のニュースがながれていた。しかし、興味を示している教員は一人もいない。
「ここは、平和だなぁ」
そんなことを思いながら、指示された場所にプリントを置いて帰ろうとする。すると、大孫が廊下から職員室に入ってきた。左の頬には、ガーゼをしている。昨日カリンに殴られた場所だ。
大孫はアヤノに気づいたようだったが、わざと目を逸らして、挨拶もせずに職員室の奥に進んでいった。
少し嬉しくなった。カリンが自分のために、大孫にあれだけの啖呵を切ってくれたのだ。それが、大孫に効いている。
「カリン先輩の株、爆上げだな」
放課後の投資部。部室に入るなりカリンが、
「昨日、損切しなければ、もうちょっと損減らせたよね。ゴメンね~」
と申し訳なさそうに言った。拝むようなジェスチャーをしているのが、おもしろい。
「ううん、いいんです。昨日、損切らないと、吹っ切れませんでしたから」
不安ではあるが、カリンとなら、頑張ってみる価値はある。
「えへへ」
とカリンが笑った。
「ちょ、何笑ってるんですか?」
カリンは何か嬉しそうだ。
「アヤノ、顔腫れてるよ~」
「ううっ」
ストレートに言ってくる。しかし、気を使われるよりもマシだ。
「ほんと、昨日あのまま持っていれば、損減らせましたのにね!」
「え~、吹っ切れたんじゃなかったのかよ~」
そういって、二人は笑いあう。
パソコンの電源を入れて、チャートを表示させる。昨日の急落から一転、買い戻しが入っている。
「これって、売られたリバウンドで上がってるのかな? だとしても半値戻しくらいかもしれないし」
「ですね。ロング打ちたくなりますけど、土日で情勢がどうなるか分かりませんし、来週までは待ちましょう」
今日は週末の金曜日だ。二人でチャートを見ながら、戦略を立てる。不安ではあるが、こうして戦略を立てているのは、なんだか楽しい。
思い返すと、それぞれで20万円の利益を出すために取り組んできたわけだが、自分のことで精いっぱいで、戦略を話し合って決めることは、これまでなかったかもしれない。
こうして、仲間を作って投資をすることも、良いのではないだろうか。
「とにかく、来週まで様子見ってことにしよう。でも、アヤノのメンタルは大丈夫?」
カリンは、あと1か月に迫った期限を目前にして、損失を出してしまっているアヤノが心配のようだ。
「大丈夫というと嘘になります。でも、カリン先輩となら、なんとかなりそうな気がするんです」
「ううっ、恥ずかしいな」
カリンは恥ずかしそうにしているが、昨日、あれだけ助けてくれた。これだけ頼りになる人は、他にいないのではないか。
「あ、そうだ」
カリンはひらめいたように言った。
「一人で考えてると悶々とするだけだから、明日わたしの家にきなよ。もう少し戦略立てよう」
「お邪魔します」
土曜日、カリンに言われたとおり、店の入り口ではなく、裏の勝手口から家に入る。
「いらっしゃい!」
カリンが出迎えてくれた。
「上がって上がって!」
なんだか、店の勝手口から住居スペースに入るのは、特別な空間に入るような気がする。
二階に上がる。
カリンの部屋は、かわいらしいぬいぐるみがいくつもある、今時の女子高生らしい部屋だ。ただ、女子高生らしからぬものも多い。本棚や机、果ては床にまで株やFX、CFDに関する本が大量にあることだ。
「カリン先輩、結構勉強してるんですね」
改めて、カリンを見直した。
「まあ、それでも結果は見てのとおりだよ」
カリンはえへへ、と笑う。
カリンは、ココアを入れてくれた。
「カリンオリジナルココアで~す」
甘くて、おいしい。さすが、コーヒー店のココアだ。
「さあ、勉強しようか」
と言ってカリンは机の上にあるFXの本を開いた。
「うわ、すごい」
本には、多くのマーカーや書き込みがしてある。
多くのページに付箋もつけられている。
しばらく、カリンが書き込みをした本に見入っていた。
ふとカリンの顔を見る。カリンはまじめな顔になっていた。
「私たち、授業もあるし、東京時間はほとんど触れなかったから、スイングトレードになってたでしょ」
カリンが言った。
「でも、もうすぐ春休みだし、時間もない。損失も大きくはできない」
「そう、ですね」
「だから、授業のある間は、できるだけスキャルピングとデイトレードで、短時間で取引をしていく戦略にすればどうかなって思うんだ。ウクライナ問題で、かなりボラティリティもあるしね」
「は、はい」
次から次へとカリンの口から戦略が出てくる。
正直、カリンはいつも、思い付きや感覚でトレードをしているのだと思っていた。
しかし実際は、戦略を練りに練り、投資をしていたのだ。
「そして、ルールも決めよう。取引するときは、ぜったいに一人の時はやらない。チャンスだと思っても。二人で相談して、ポジションをとる。これで、変なミスはなくせるし、変な方向に動いたら、損切もちゃんとできると思うんだ」
「そうですね。確かに、希望的な観測でこれまで損をすることもありましたしね」
「そして、100万円の資金じゃ個別株は大きく取れないし、信用の売買じゃ手数料がかかる。だから、FXとCFDに専念すればいいと思う」
投資戦略を話し合っていると、時間はあっという間に過ぎていった。
ココアも、少し口をつけただけで、冷めてしまった。しかし、冷えたココアも、悪くはなかった。
あっという間に日は暮れた。アヤノはカリンの使っている本を数冊借りて帰った。
日曜日は、カリンの貸してくれたFXやCFDの本を読み漁った。
カリンの書き込みやマーカーから、相場の動きの重要な仕組みもよく分かった。と同時に、感覚で取引していたのは自分の方だったことに気づいた。
どこかでカリンよりも自分の方が自制心があり、投資に向いているのではないかと思ってしまっていた。
しかし、カリンの投資への取り組みを見せつけられ、恥じ入った。
「カリン先輩、こんなに頑張ってたんだ」
その本からは、自分は負けて当然だったことに気づいた。
「カリン先輩、ありがとうございます」
もうすぐ2月も終わる。あと1か月で12万円。
大きな負債がのしかかっていた。
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