第6話 ねじりおに

 まず声を上げたのは犬丸だった。捕えられた女人ということからか遠慮がちに覗き込んでいたのだが、ふと違和感にじっと目を凝らして、やがてその形を捉えた。


 真っ赤に充血した瞳、額から伸びる捻れた角、口は裂けて見えるほどに大きく、赤黒いそこに黄ばんだ歯がちらりと見える。悠々と応対をしていた乳母の姿は何処にもない。

「あなや! つ、つ、角じゃ! 鬼じゃ!」

ぎゃっと跳び上がると腰を抜かしてしまった。

「ほ、ほほほ法師様あッ」

「ねじりおに……」

白鬼が吐き出した音がいやに木霊した。

 犬丸は白鬼の足元に縋り付いて、ねじりおに、ねじりおに、と呟く。

「犬丸殿」

「ひいい」

「犬丸殿、ひとつ御頼みしたく……すぐに吾らも追いつきますので……分下様にこのこと、お伝えできましょうか」

「わ、わ、わ、わたしがで御座いますか、ほ、法師様! う、動けませぬ」

「ええ、ですから手を貸しましょう」

目を白黒させて尻餅をついていた犬丸を助け起こす。その肩に白鬼がそっと手を乗せた。

「ひ、ひとりではできませぬ」

「平気ですよ」

「そんな」

「犬丸殿は無事に屋敷に着くことができますよ。さあ、ご覧なさい。腰も抜けておらず、何にも襲われることはありません。歩けもすれば、風の如くに走れもしましょう、そうら、疾く行け」

「は、はいいッ」

犬丸は一も二もなく駆け出した。


 白鬼は笑うと、ねじりおにに向き直った。ねじりおにはふしゅう、ふしゅう、と息を吐くばかりである。

 おにがカッと目を開く。

 破丸はすかさず拳を握りしめ、空を殴った。

 当然その拳はねじりおにには届かない。というのに、ぎゃんっと悲鳴を上げると、鬼は壁に身体を打ちつけた。

「吾は送られた怨は全て返すぞ」

殴られた場所から黒い煙が散っていく。


 内より外へ放った怨念、身体から離れた怨を相手に殴り返すのが破丸の法である。僅かにも滲み出れば、殴り返す。或いは掴み落とされる。

 返した呪いはすべて霧散した。


 ねじりおには唸り声、怨嗟の声を上げた。

 破丸の使う法は単純に、怨念が放たれたら打ち返す。たったそれだけの法だ。

「おのれ、おのれ……! 何故じゃ、何故邪魔をする! 汝らさえおらねば、ひめさまはわが手に在ったのに! あと少しだったのじゃ!」

それが、白鬼へと向く。

「鬼の己ならば、己はわが身のこの怒りを、憂いを、苦しみをわかるのではないのか!」


白鬼は楽しそうに肩を揺らした。

「はて、さて、確かにこの白鬼は人には在らず。しかしとんと鈍く出来ておりますゆえに…………その身を焦がすほどの怨であれば、いっそ大夫殿を呪えばよろしかったのでは御座いませぬか。そう、邪魔なものなど、消せばよいのに」

「はん! じつに、じつにおろかよ」

ねじりおには嗤った。

「誰があんな童の為に! わが身を鬼とやつすのならば、それは我がひめさまの為のみよ。何処の誰ともわからぬ、小僧のために鬼になるのではないわ!」

そう言って、ねじりおには脚に力を込めていた。天井は既に崩れて穴が空いている。そこを目掛けているのである。

「おい、白鬼──」

「まあ、待て、深い仲であることだ、最期の対話くらい、あってもよかろうさ。吾はこう見えて慈悲深いのだぞ」

破丸が非難の視線を白鬼にやるが、当の本人は気にもしない。


 おにはぎろりと二人の法師を睨みつけた。

「小童どもが、いい気になるなよ……最期にひめさまは貰ってゆくぞ」

 老婆は身軽に地面を蹴り上げ、身体がぽーんと宙に舞っていた。

 向くは西の分下屋敷である。風に乗ってあっという間に消えていく。

「よいのかよ」

「どのみち、もう大した力は残ってはおらぬよ」

「そうは言っても鬼だぞ」

「慣れ親しんだ輩が鬼なのじゃ、言うて信ずると思うか? それとわかる手土産がある方が良かろうさ。手土産本人が向かってくれたのだ、吾らも急がねば」

「あれが冥土の土産にならぬといいが」

「ならぬ、ならぬ。吾らがおるでな」

二人の法師も後に続く。



          ◼︎



 分下の屋敷は大変な騒ぎとなっていた。

 まず空から鬼女が降ってきた。髪を振り乱し、衣がはだけるも厭わずに、地面に転がった身体を引き摺る。ぎょろりと飛び出た目玉が忙しなく動いて何かを探す。

 その動きは非常に緩慢で、力がない。

「ひめさま、ひめさま……」

口からはそんな言葉が零れ落ちる。ぜえぜえと息を吐いていた。

 それが、ぴたりと視線を定めた。

 それが、姫だと確信するなり喜色満面、口角を上げて跳び上がる。

「ああ、おじゃった! ああ、ああ、わがひめさま! 消えゆくわが身を憐れんでくださるのならば、永遠に共におりましょうや!」

きゃあ、と姫の声が聞こえた。

 鬼女はたちはだかる下人を乱暴に投げ飛ばしてどたどたと走り回る。慌てて下人たちが太刀や棒を構えて駆け出した。


 兼時が鋭く言い放つ。

「なにをしておる! 姫を守れ! そこな鬼を捕らえよ! 法師はどこじゃ! 連れて来よ!」

そこに、

「ああ、失礼、失礼、此におりますればお待ちを、分下様──」

ひゅるりと風を切ってまた影が落ちた。

 先に声が降ってきて、次に白鬼と破丸が落ちてくる。破丸は一足跳びにねじりおにへと肉薄すると、これを地にねじ伏せた。


 白鬼が背後で小さく礼をした。

「法師!」

「此方こそがねじりおにに御座います。……失礼失礼、しかし、連れて参りますと申し上げたでは御座いませんか。斯様なまでに驚かれるなどとは思いもよりませなんだが……」

「ひ、ひ、姫が危ないところであったのだぞ!」

「まさかまさか、この白鬼法師、御許様には指一つ触れさせませぬ。今、この鬼が放ちましたる怨念も、ほらこのように」

そう言って、破丸を促せば、鬼女を押さえつけることは別の手に黒い何かを握りしめていた。昨晩の儀式の折に捕まえていたのと同じモノである。


 ねじりおには息も絶え絶えに、ただ睨みつけている。

 兼時を。

 鴇姫を。

 法師を。

 それから──。


「…………先ほど」

姫の声が空気を揺らして、全員の視線がそちらに向いた。


 やがて、はらりと御簾がめくられて、姫自身が出てきた。下人たちは慌てて目を伏せる。姫が扇越しに庭を見やった。

「大夫殿様から、文が届きましたよ」

「ぐぬぬ……」

「……あの御方も文が滞ることを不思議と思われて、別の使いのものを寄越してくださった。どちらの家にも、鬼の使いがいたのだと」

ねじりおには歯軋りをして、唇を噛み締める。睨みつける。姫の手にある紙を憎々しげに見る。

「鳥麿は何者かに追われていたのを助けられました。聞けば、手紙を預かったのは今回が初めてだということではありませんか──大夫様の家にも、鳥麿を見たと言う人はいないと聞きました」

「ぐぬぬぬぬ……おのれ、胡乱な小童めが! わがひめさまを、諦めてあればよいものを……」

唸る老婆に、

「なぜです」

啜り泣くように姫は呟いていた。


「なぜ、なぜ、あなたがわたしを呪ったの。ほかでもない、あなたが鬼であったの」

「ひめさまは、ひめさまは、この乳母の宝でありますれば」

おにもまた、啜り泣く。

「わがひめさまじゃ」

「なぜ……」

「ずうっとずうっとひめさまのそばにあったのはわれじゃ。ずうっとずうっと、わが手わが乳でお育てしてきたのじゃ。わが宝、わが娘も同然じゃ。わがものを! それを、それを、それを! 何処ぞの誰ともわからぬ者に、ぽっと出てきた男に易々と盗られてたまるものか……ッ!」


 愛していた。

 姫のためならばなんでもできるほどに愛していた。己の娘というには畏れ多いが、それでもそうだと感じていたのだ。

 愛したものが奪われるくらいならばと歪んだ。

 ならば、いっそ永遠に己のものにしてしまえばよいのだと、血の涙を流して縋り付く。姫は思わず後ずさっていた。

 それにまた、おには咽び泣く。

「永遠に共にありましょうと誓ったではありませぬか、この婆と別れるのは悲しやと、幼きみぎりひめさまも仰ったではありませぬか! 旦那様も酷うござります、酷うござります、斯様なことさえなければ呪いなど掛けなんだ。わがものを奪われることなどなければ鬼になどならなかった。なにゆえわれらを引き裂くようなことを御許しになったのか……」

おんおんと泣き喚く。


 ねじりおにの言うそれは、ほんの、幼子の他愛のないひと言だったのだろう。姫は「言ったかもしれないが覚えてはいない」という風に、眉根を僅かに寄せる。その様子におには愕然と目を見開いた。

「嘘なのでございますか。この私を大切だと言うてくださったのは、まさか嘘だったのでございますか」

「そんなこと! あるわけないでしょう……」

姫はすぐに否定して、それから目を伏せた。

 理解できない、と目が語っている。けれどもこの老婆の言うことは、

「……この身を愛しているから、呪ったと……? あの方と引き離し、永遠に乳母と共にいるために」

つまりそういうことになる。大事な宝が、奪われないようにしたのだと。奪われかねないから、呪ったのだと。

「そうに御座います、そうに御座います……」

老婆もそうだと頷いた。

「ああ、憐れな老婆はどうすれば良かったので御座いましょう、この乳母はどう足掻いても先に儚くなる身、姫様とふたり永遠に共におるには……」

その目が、ぐるん、と回る。くびがぐるりと捩れる。ありえない角度で姫を見る。



「ひめさまを、こちらにお連れするしか」



 ねじりおにが動くより早く、破丸がおにを掴んで姫から引き離すように放り投げた。ぎゃん、と悲鳴が上がって、姫からも悲鳴が上がる。

「やめ──」

それを制止したのは、白鬼である。

「……吾らは呪いを止めよとの命により動くもの。殴れと言えば殴りましょう。斬れと言えば斬りましょう。逃せと言えば、その通りに」

白鬼は仮面のまま、首を傾げる。


 その下にあるのは憐憫か、嘲笑か、或いは虚無か。この男の声は抑揚のない声だと気がついて、鴇姫は言葉を呑み込んだ。愉快そうに言うが、その奥には何の情もこもっていない。

 鴇姫はぞっとして、思わず目を逸らしていた。

(なぜ、あの法師を信用できるなどと、わが身を脅かさぬと、思っておったのか)

(あの下には何がある)


 あの法師は組み伏せた老婆になんの関心も示していない。それどころか、この場で何が起きても動じないだろう。と受け流してしまう、人の理のそとにいる──そんな風にさえ感じられた。

 それくらいに、関心もない声で告げる。

「さて、分下兼時様、鴇姫様────」

「…………」

「この鬼を、いかがなさいます」


 白鬼が問う。

 破丸が拳を握る。

 姫が悲鳴を溢す。

 鬼女が唸る。


 下人たちは、おろおろと主人と法師とを見比べるばかりだ。

 やがて、庭先まで降りてきたのは兼時だった。憐憫をその目に浮かべて見下ろしている。この男にも、思うものがあるのだろう。斬り捨てよと言うかと思えば、そんなことはなく。

「…………時子」

兼時は乳母の名をつぶやいてから、目を瞑る。

「否、乳母、その罪は重い。二度とこの屋敷にも都にも立ち入ることは許さぬ。疾く都を出よ、それさえを守れば……姫におぬしに向けて文のひとつは書かせよう」


 殺せとは言わなかった。

 どのみち既に長くはないのだと悟ったからか。別な情念があるからか。兼時は視線を逸らした。

「では、そのように」

白鬼はゆっくりと頷いて破丸に声を掛けると、破丸は黙ってねじりおにを担いだ。嘆くばかり、口から呪詛を吐くばかりで鬼女は暴れる気力すらないようだった。爛々とした瞳が姫だけを見つめている。


 それを遮るように、白鬼は一歩踏み出した。仰々しく腕を広げると、ゆっくりと頭を垂れた。

「吾ら呪いを返すことのみが役目にて。このあとのこと、誰ぞか陰陽師なりに屋敷の守護を頼まれるがよろしいかと存じます。いやはや、人の都は呪いが満ち溢れて御座いますから」

「ま、待て、汝らは──」

兼時が何かを言う前に、白鬼は三度拍手をした。

「吾らはこれにて失礼仕ります。二度と会うことが御座いませんよう──」

ぶわりと風が巻き上がる。


 皆が思わず目を瞑った次の刹那には、二人の法師と鬼はまとめて姿を消していた。



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