第11話

 黒兎が新卒で就職した先は、化粧品メーカーの営業事務だった。

 元々表に出る性格ではないので、サポート業務が合っていると思って希望したが、正解だったようだ。すぐに周りから頼られる社員になっていく。


 その中で一番息が合っていた社員が、二年先輩の内田まことだ。彼が見込み客の情報を黒兎に話して、黒兎がそれに合わせて資料を作る。黒兎は内田の、見込み客の嗜好を見極めアプローチを変えていく、その人を見る目の鋭さを尊敬していた。そして内田も、黒兎のことを信頼していたように思う。


 お互い阿吽の呼吸のように動き、契約が決まっていくのは楽しかった。社内でも名コンビだなんて言われたりして、内田の役に立てることが嬉しかった。


 しかし社会人になって三年目の夏、内田の成績が少しずつ落ち始める。そして彼の様子も変わっていった。判断力が落ち、些細なミスをするようになる。とうとう見込み客に、見当違いな提案をするようになり、目に見えて落ち込んでいた。


 黒兎は彼に何かあったのか、と声を掛ける。食事でもしながら話をしよう、と誘ったのだ。


「俺……綾原のことが好きだ」


 入った居酒屋で、愚痴や悩みを散々こぼし、酒をしこたま飲んで、酔いつぶれたと思った内田は唐突にそう言った。


 賑やかな店内なのに、黒兎はまるで二人きりになったかのように、周りの音が聞こえなくなる。何とか笑みを作ると、カシスオレンジを一口飲んだ。


「俺も、内田さんの事は大事な仕事仲間だと思っています」

「違う」


 誤魔化そうとした黒兎の言葉を、内田はハッキリと否定する。

 黒兎は心臓が、これ以上ないくらい早く打つのが分かった。手と呼吸が震え、カシスオレンジを机に置いて、太腿の上でギュッと拳を握る。


「俺……男なんですけど……」


 声も震えた。そこで覚えたのは恐怖。自分の性指向が内田にバレたのでは、という恐怖だ。


「分かってる。人を見る目があるって、言ってくれたの綾原だろ?」


 そして黒兎の嫌な予感は当たったと、息を詰めた。内田は黒兎をゲイだと見抜いていたのだ。

 付き合ってくれと言われて、その場で断った。この時もずっと雅樹のことを想っていた黒兎は、理由は告げずに、食い下がる内田を丁寧に断った。その日はそれで終わった──と思っていた。


 次の日も次の日も、顔を合わせ二人きりになる度、内田はしつこく迫ってきた。だから黒兎は堪らず言ってしまったのだ、ずっと片想いしている人がいる、だから諦めてくれ、と。


「俺じゃその人の代わりにはなれないのか?」


 トイレで、会議室で、階段の踊り場で……人目につかない所は一通り制覇したと思う。あまりにしつこく迫られて、黒兎は一人で行動するのが怖くなった。けれど、誰かに相談するのはもっと怖かった。


「これ、良かったら使ってください」


 ある日、食堂でポケットティッシュを配っていた女性がいた。それがいずみだ。

 彼女は保険の営業で、黒兎の会社に出入りしていたのだ。


 黒兎は思わずそのティッシュを眺める。個人年金のPRが書かれたそれは、全く興味は無かったのに、食い入るように見つめてしまっていた。


「あ、興味あります?」

「え……」


 黒兎の返答も待たずに、いずみは正面に座る。早速保険の話を聞かされて、契約させられるのかと思いきや、彼女はそのままニコニコと座っているだけだ。黒兎は固まったまま彼女を見る。


 いずみは微笑んだ。


「営業の話されると思いました?」

「そりゃ、まあ……」


 そうでなければ、何しにここへ来たと言われるだろう。黒兎は正直に頷くと、彼女は正直な人、好きですよ、と笑う。


「もちろん商品を売るのは大事ですけど、私たちが一番大事にしなきゃいけないのは、情報提供ですから」


 知りたくもないこと聞かされても、頭に入らないでしょ、と言われ、また黒兎は頷く。この、営業なのに営業らしからぬいずみの言動に、内田もそうだったのにな、と思った。


「あ、すみません。申し遅れましたが私、皆川いずみと申します」


 わざとうやうやしく頭を下げて名刺を出してくるいずみ。黒兎は名刺を持ち合わせていなかったので、謝罪した上で自己紹介をした。


「なんか綾原さんは、話してると癒されますね」


 化粧品メーカーにいるの、似合います、とよく分からない感想を言われ、いずみは席を立つ。


「これからも休憩がてら、お話してください」


 そう言って彼女は去っていった。


 これが黒兎といずみの出会いである。

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