ボーイ・オン・ザ・ラン / 未知との遭遇

「今、どうなってる?」


 俺を抱きしめながら、森林木しんりんぎは小声でそう言った。

「えっと、今は森林木さんに抱かれ......。じゃなくて、ハグされてます」

 俺は状況を理解しきれないまま、矢継ぎ早にそう答えた。戸惑いのせいか、自分でもわかるほど声が上ずっている。

「いや、キミじゃなくて、先生のことだよ」

 彼女は抑揚のない声でそう言った。

「あ、えっと先生は......。台車を引いています。台車には生徒が3人。男子が2人と女子が1人。3人とも眠っているように見えます。先生は......。先生は白目をむきながら、早口で何かを喋っています。『不純異性交遊』だとか『退学』だとか。ただ、先生の話し方には違和感があります。普段はもっと堅苦しい......。あっ!先生がこっちに向かってきます」


「退ガク!退ガク!」

 先生はゾンビのような気味の悪い動作でこちらに歩いてくる。


「なるほどね」

 森林木はそう言うと、俺の制服のポケットにそっと手を入れた。彼女の手が布越しに肌に触れて、俺はくすぐったさを覚える。

「森林木さん?」

「今から私が隙を作るから、合図をしたら走って逃げるよ」

「説明が全然足りな......」

 状況を理解できず俺が反射的にそう聞き返した瞬間、彼女は抱擁ほうようを解いて素早く振り向き、先生に向けて何かを放り投げた。


 森林木が投げた物体を確認しようと俺は目を凝らす。

 1つは見覚えのあるジッポーライター。森林木は俺の制服のポケットからジッポーライターを取り出し、それを先生に向かって投げたのだ。

 もう1つは透明の液体が入ったボトル。

 ボトルから液体が飛び散る時、俺は微かなシンナー臭を感じた。ボトルのデザインは今朝、隣人が見せてきたものと同じ。ということは、このボトルの中身は除光液だ。

 除光液は引火性物質。火を近づければ、簡単に発火する。

 ボトルから飛び散った液体とジッポーライターの炎が空中で交わると、除光液は瞬く間に発火した。炎が導火線のように空中の液体を伝っていき、ボトル内の除光液が激しく燃え上がる。彼女がこの一瞬で作り上げたのは、お手製の火炎瓶だった。


 放物線を描くボトルは先生の肩にぶつかると、その中の炎を吐き出す。燃える液体を被った先生の上着は勢いよく燃え始めた。プラスチックを焦がしたような嫌な匂いが鼻をひくひくさせる。

 先生は野犬のうなり声のような奇声を発しながら、取り乱している。


 俺は先生の声を聞いて我に返る。

「転校初日に先生に放火するなんて、何を考えて......」


 その時、俺は信じられないものを目にした。バナナの皮をむくように、先生の上半身がスルスルとはがれていく。その中から異形の怪物が姿を現した。甲殻類のような節のある体。背びれのような2つの翼と先端に鋭いかぎ爪が付いた8本の関節肢かんせつし。生物なら頭があるはずの場所には、短い触手におおわれたラグビーボールほどの半透明な楕円体だえんたいが付いていた。そいつは下半身は先生のままで、先生の上半身になっていた薄い表皮を半分までむいたバナナの皮のようにだらんと垂らしながら、その触手と長い手足をゆらゆらと揺らしていた。


 俺はそれを見て、金縛りにあったように動けないでいた。手足が震える。頭を働かせるために思い切り息を吸うが、うまく呼吸ができない。今にも逃げ出したいが、手足の感覚がない。吐き気がする。心臓の鼓動が早まり、呼吸が荒くなる。視界の中にいる異形の怪物はどんどん大きくなる。どんどん。もう目の前だ。

 あれ?廊下ってこんなに狭かったかな?

 誰かが俺の名前を呼んでいるような気がしたが、自分の心臓の音に邪魔されて聞こえない。怪物と建物の境界線がドロドロに溶けはじめた。世界がどんどんぼやけていく。

 ああ、困ったなあ。今はもう何も見えない。

 俺の意識は遠のいていく。


 その時、暗闇に星が降ってきた。


 脳みそをグワッと掴んで揺らされたような感覚に襲われ、俺は正気に戻る。気づくと、目の前には無表情で拳を構えた森林木がいた。いつの間にか俺は床に座り込んでいた。右の頬にはじんじんと脈打つような痛みがある。

「治った?」

 彼女はぐっと顔を寄せて、俺の目を見ながらそう言った。

「治った?」

「えっと、何して......」

「医療行為」

「まだ治ってないのか。ならもう1回」

 そう言って彼女は構えた拳を振り下ろそうとする。

「治ってます!治ってますから!」

 彼女は俺の左の頬に拳がめり込む寸前で拳を止めた。

「なんだ。治ってたなら先に言ってよ」

 答える暇もなく殴りかかろうとしてただろ。

「さあ、逃げるよ」

 そう言って彼女は俺の手を取って走り出した。俺はその手に引かれるままに駆け出す。


「えっと......」

 俺は思わず言葉に詰まる。森林木に聞きたいことは山ほどあったが、それが多すぎて何から聞くべきかわからなくなっていた。情報の濁流だくりゅうにのみこまれて、冷静な思考ができない。

「今のが神話生物」

 彼女はそう言った。

「名前とかはあるんですか?」

「ザリガニみたいだからザリガニ星人」

 絶対、今考えただろ。俺は心の中でそう突っ込んだ。


 森林木が神話生物のことを『理解できない者』と言った理由を感覚で理解できた。人間と同じ大きさのザリガニでさえ嫌悪感があるが、それに背びれと触手があれば理解なんて放棄したくもなる。

 俺はちらりと後ろを振り返る。

「高等学校内で放火シ、教諭を焼ソン。校則には該当ナシ。ジジジ。ジジジ。結論、検体を消キョ」

 この世のものとは思えない声で意味不明な言葉を並べ終わると、ザリガニ星人は俺たちを追いかけ始めた。俺たちとザリガニ星人の距離は、数十メートルほどだ。

「奴はあんまり足が早くないみたいだね。階段まで行けば、奴を撒けるよ」

 彼女の言葉を聞いて俺は胸をなでおろす。

「でも、顔を見られてます。家まで来るかも」

「それは心配ないよ。奴らは外見で人間を見分けられないから」

「あんなに近くで見たのに?」

「人間だって、そこら辺にいる動物の見分けなんて付かないでしょ?」

「確かに」

「だから、名前がばれてなければ大丈夫。このまま逃げ切れば私たちの勝ち」

 その言葉を聞いて、俺は合点がいった。森林木が突然抱きついてきたのは、制服に付いている名札をとっさに隠すためだったのだろう。


 階段の手前で、俺は台車に乗せられていた3人の生徒のことを思い出した。

「さっきの生徒はどうなるんですか?」

生贄いけにえにされると思う」

 日常生活では聞くことのない『生贄』という言葉が脳内に反響する。

「死ぬってことですか?」

「そうなるね」

「なら、助けないと」

「危険だよ。逆にキミが死ぬ可能性だってある」

「でも、見殺しにはできない」

「キミはそんなに正義感のある人には見えないけど」

「ひどいこと言いますね。俺は道徳の試験で校内1位を取るぐらい、道徳心のある男ですよ。教科書だって全部暗記してます」

「キミって、人間のふりをするサイコパス?」

 森林木は単調な声でツッコミを入れた。これだけ走っているのに、彼女は息切れする素振りも見せない。

「あそこに知り合いでもいるの?」

「いないですけど。見殺しにすると、目覚めが悪いですから」

「実に人間らしい理由だね。仕方ない。これで貸し一つだよ」

 森林木は気が進まない様子でそう言うと、溜め息をついた。


「奴の視界を奪うから、キミは階段を上がって教室に行って鞄を取ってきて。私は下から回って、あの生徒たちをどうにかする。終わったら、校門の外で待ち合わせだ」

「視界を奪うって、どうやって?」

 その答えを言う前に、森林木は壁に設置されている消火器を取り出した。俺たちを追いかけて曲がり角からザリガニ星人が出てきた瞬間、森林木は消火器のボンベでザリガニ星人の顔面を勢いよく殴打する。

 その一撃を受けたザリガニ星人は、バランスを崩して後ろに倒れこんだ。

 追い打ちをかけるように森林木は、消火器をザリガニ星人に思い切り投げつけた。しかし、ザリガニ星人は素早い動きで手足を操り、消火器を防ぐ。鋭いかぎ爪に貫かれて消火器に穴が開いた。すると、かぎ爪によって破損した部分から白い粉が勢いよく吹き出し、廊下は一瞬にして白煙に包まれた。

「じゃあ、また後で。鞄をよろしく」

「死なないでくださいね」

「キミもね」

 そう言って、彼女は軽やかに階段を飛び降りた。


 腕を大きく振りながら、休みなく階段を駆け上がる。森林木の足音はどんどん遠ざかっていき、やがて聞こえなくなってしまった。俺は自分の中にある恐怖心をかき消すように、強く地面を蹴った。

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