ガール・カム・スクール / 転校生
「星兄!起きてる!?」
ドアをノックする音が聞こえた。正確に言えば、ノックと呼べるほど丁寧なものではない。ドンドンとドアを殴りつけたような音だ。
枕元でスマホのアラームが鳴っている。俺は手探りでスマホを手繰り寄せ、アラームを止めた。ホーム画面には『7:00』と表示されている。
「起きてるよ」
俺は寝起きの乾いた喉から声を絞り出し、ベッドから這い出た。
冷たい水で顔を洗うと、寝ぼけた頭も幾分かはましになった。鏡には普段と同じ自分の姿が映っている。弱い癖のある髪の毛とお世辞にも良いとは言えない目つき。鏡の向こうの自分はまだ寝ぼけているように見える。
今の時刻は7時。普段の起床時間からすると遅い時間ではあるが、急がなくても学校に遅刻することはないだろう。
ふと昨夜の夢を思い出した。鍵のかかった部屋、無人の映画館、それに
俺は身支度を整え制服に袖を通すと、朝食を食べるためにダイニングに行った。ダイニングでは、母親と妹の2人が朝食を食べているところだった。
「おはよう。父さんは?」
「今日は出張だから、早くに出たのよ」
母親はトーストを食べながら、そう答えた。
「大変そうだね」
俺は食パンをトースターに並べながら、素っ気ない返事をする。
『
テレビでは、白髪交じりの警察署長が記者から質問を受けていた。警察署長が言うには、町を騒がせていた市議会議員の失踪事件の真相は、仕事に疲れた議員がただ海外に遊びに行っただけのことだったようだ。
数十秒ほどでそのニュースは終わり、次は市内で目撃された不審者に対する警戒を呼びかけはじめた。
「最近何かと物騒だから、
「はいはい」
妹はぶっきらぼうに返事をする。
「塾が終わったら電話しなさいよ。迎えに行くから」
「大丈夫だって。友達と帰ってるから」
「そうは言ってもねえ......」
「そんなことより、星兄。寝坊なんて珍しいね」
妹は都合の悪い話を避けるように、俺に話を振ってきた。
「そんなに珍しいかな」
最近の睡眠時間を思い返してみたが、こんなに眠れたのは久しぶりかもしれない。近頃は朝が来る前に目が覚めてしまうことが多く、微妙な睡眠不足が続いていた。
「今日は目の下のクマもないし」
確かに洗面所で見た自分の顔は、普段よりも顔色がよかった。
「いつもよりかっこいいか?」
「は?何言ってんの?は?」
妹はそのまま「は?」と繰り返しながら食べ終えた皿を下げ、ダイニングを出ていった。2階からも妹の「は?」が聞こえてくる。お前はバグったNPCか。
俺が朝食を食べ終えた時には、妹はもう家を出るところだった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺もゆっくりはしてられない。時計を見ると、時間は遅刻ギリギリだ。今日ある授業の教科書を記憶頼りで適当にリュックサックに詰め込み、俺は家を出た。
「行ってきます」
5月の太陽は、春の陽気を奏でながらも目の前に迫る夏を予感させる。学ランを着て歩くには少し暑い気温だが、自転車に乗って感じる向かい風と合わされば心地よいくらいの日だ。
学校に着いたのは、ホームルームの10分前だった。校門では仏頂面をした生徒指導の先生が、親の敵でも探すように生徒の服装の乱れをチェックしている。自転車を駐輪場に置き、教室に向かう。
「星!あの話聞いたか?」
教室の前で同じクラスの野球部の男子生徒がただならぬ様子で話しかけてきた。その声は興奮のせいで裏返っている。
「あの話って?」
「あのさあ。まじですげえんだって!まじで!まじで!」
彼はそう言いながら、じっとしていられないという様子で走っていった。
様子がおかしいのは野球部の彼だけではなかった。今日の教室の空気はどこか浮き足立って見える。友達同士で集まっておしゃべりに興じているのは普段と同じ光景だが、その誰もがソワソワしている。普段は次の授業の予習をしている学級委員ですら、落ち着かない様子で友達と話をしていた。クラス内にできた複数のグループは決して交わることはないのだが、その全員が同じ感覚を共有しているような不思議な一体感がある。
席に着くと、隣の席の女子生徒が話しかけてきた。
「ホシー、課題やった?」
「そんなのあった?」
「数学のワーク。今日提出だったろ?」
完全に忘れていた。本来は朝にやる予定だったのだが、寝坊したせいでできていない。
「あ、忘れてた」
「ちぇー。写させてもらおうと思ってたのに」
彼女は不満そうな顔をした。
「今日なんかあった?みんな変じゃない?」
俺はクラスの浮き足立った様子の理由を隣人に尋ねた。
「うちのクラスに転校生が来るっぽい」
「へえ、珍しいね。転校生なんて」
「しかも、めっちゃ可愛い子なんだって。っておい、ホシ。そっちが聞いてきたんだから、もっと興味持てよ」
「高校生にもなって転校生でそんなに浮かれるか?」
「何歳になっても転校生は楽しみだろ!」
彼女は険しい顔でそう言った。
「そうそう、見てこれ」
隣人が俺に指を見せてきた。彼女の爪が窓から差し込む光を反射してキラリと光る。
「ネイル。カワイイっしょ」
「へえ。おしゃれだね」
「でしょ!自分でやったんだよ」
「まじか。器用だな」
「そうじゃろ?もっと褒めろー」
彼女は冗談めかしてそう言って、嬉しそうに笑った。
「ネイル、校則でダメじゃなかった?」
「ふふ。JKはオシャレが命だから」
「生徒指導の先生にはばれない方がいい。あいつ、そういうの厳しいから」
「ダイジョブ!いざとなったら証拠隠滅よ」
そう言って彼女は手のひらサイズのボトルを取り出した。ラベルには『除光液』と書かれている。
「ホシも塗ってあげよっか?」
「まじ?俺がこれ以上可愛くなったらやばくね?」
「うぜー」
隣人はそう言って、軽快に笑っていた。
ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に、担任の先生が教室に入ってきた。
「朝礼、始めるぞー」
友達同士でおしゃべりに興じていた生徒たちも、わらわらと自分の席に戻っていく。
心なしか担任の先生も落ち着かない様子だ。元サッカー部だという担任の先生は、その爽やかな笑顔で生徒たちから人気を集めているが、今日の先生はどこか笑顔が硬い。
転校生が来ると隣人が言っていたことを思い出した。担任の先生の若さを考えると、転校生をクラスに迎えるのは初めてなのかもしれない。
転校生が来るときの胸の高鳴りは、旅行に行く前の感覚と似ている。退屈な日常から抜け出して、知らない場所で知らないことを体験できる。今までの自分を変えてくれる。俺たちは旅行にそんな期待を抱いている。しかし現実には、そんなことは起こらない。訪れる場所には既視感があり、体験に新鮮味などない。結局、どこに行っても日常の延長だ。俺たちはずっと退屈な日常の中にいて、それを壊してくれる何かを待ち続けている。そんなもの、あるはずがないのに。
ふと、昨日見た夢を思い出した。
普段の夢は起きてから時間が経つと記憶があいまいになるが、昨日見た夢は今でも鮮明に覚えている。
彼女なら退屈な日常だってバールでぶっ壊してしまうだろう。そして、あの底知れない、月のない夜空が抱く暗闇のような瞳で笑いながら言うのだ。『さあ、
夢は夢だ。俺は自分に言い聞かせるように、心の中でそう言った。
やらなければいけないことはたくさんある。高校二年生、来年は卒業と受験の年だ。先生たちからは、進路の話を口を酸っぱくして言われている。『将来』という二文字は、俺にはぼんやりとしか見えないが、気を抜くとその重みに押しつぶされそうになる。
遠い先のことを考えていても仕方がない。とりあえずは目の前のことだ。忘れていた課題は休み時間に終わらせて、今日中に提出することに決めた。
非現実的なことに頭を悩ませている時間はない。頭から夢のことを追い出すように、自分の頬を軽く叩いた。
「もう知ってる人もいると思うが、うちのクラスに転校生が来ることになった」
今日の担任の先生の話し方は、緊張で少しぎこちない。
『転校生』という言葉を聞いて、生徒たちはざわざわと騒ぎ出す。
「どうぞ、入ってきてー」
担任の先生が手招きすると、転校生が教室に入ってくる。
その瞬間、時は止まっていた。直前まで騒がしかった教室はぴたりと静かになる。クラスの誰もが彼女の整った顔立ちと洗練された一挙手一投足に、心を奪われたように釘付けになっていた。彼女が黒板の前に立ち止まるまでの時間は、永遠よりも長く一瞬よりも短いように感じた。
それは俺も例外じゃない。他の生徒と同じように、俺も転校生に見入ってしまっていた。しかし、その理由だけは他の生徒と違うはずだ。
「東京から来ました。森林木和可です」
彼女の宇宙を閉じ込めたような瞳から、俺は目を離せなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます