第11話 赤黒い因縁との対決の果てに
「――テレント?」
「どうしたの?」
「なんか今、あいつの声がした気が……」
「あ、あれ!」
闇に慣れた足取りでグド達の待つ場所にフリトとメルが向かっていると、ふとメルが立ち止まって辺りを見渡した。
メルに倣うようにフリトもまた辺りを見渡すと――遠く、自分たちが向かう方向が不気味に青白く明るくなっていることに気付き、声をあげそこを指す。
周囲の樹々の間から軽く飛びぬけてしまうほどに巨大なその身体は、夜の闇をそのまま切り抜いたように黒く、開く真っ赤な口からは血の臭いのする吐息が漂う。鋭く尖った牙が覗き、轟音のような声で幾度となくそれは
吼え立てる口は二つ……しかしよく見るとそれは妙に釣り合いが悪く、元々三つあった内のひとつを失っての結果だということが判る。
それを眼にしたフリトの脳裏に、あの悪夢の惨劇が津波のように押し寄せて映し出されてはじめた。
術に長けていた父親ですら扱いに困る大物であったことは彼も記憶していた。退治のために封印を解かれた一瞬の隙をついて瞬く間もなくその漆黒の姿が恐ろしいほど強大化していったこと。
術を扱う者の責務として、災いを郷に及ぼすまいと最期の最後までそれに立ち向かい続けた父親が、喩えようのない叫び声と共にその牙に引き裂かれたこと。
傍らでその血を浴びて立ちすくむ自分を、叱りつけながら逃げるように促し、自らを囮に父親と同じく魔獣の餌食になった母親。
再び振り返る事すらできなかった二人の姿を看取れなかったこと、それを思い巡らす間もなく家を飛び出した光景。
魔獣を追うために焚いた火が夜風と魔獣の吐息に煽られ、やがて勢いを増してそれらが集落の家々を舐め、そこに住まう人々ごと飲みこんでいった。燃え崩れ落ちる見慣れた風景、人々、大河のように押し寄せてくる炎と血糊、悲鳴、怒号。
そして、その地獄と言える悪夢の後に待ち受けていた、更なる地獄のような迫害の日々……フリトは、あの時のように膝が震えて一歩も踏み出せなくなっていた。自らの命と引き換えに自分を遺した両親と、息づいていたすべてを壊滅的に破壊した憎悪の具現となった獣を前に、言葉にならない感情で身体が強張っていたのだ。
「フリト、おまえここにいろ! 俺はあいつら見て――」
殺めた魔獣の魂の弔いの役割があったこれまでは、それで済んだかもしれない。
しかし今の彼の中で、それはあの日を繰り返そうとてしていることと同じだ。
このままでは全てから存在を疎んじられているとすら思っていた自分を、必要としてくれた人たちを再び失ってしまうかもしれない――そんな想いが彼の中に走った瞬間、竦んでいる足で地面を蹴り上げて彼は駆け出していた。
自分を追い越して駆け抜けていった背中を、メルは止めることもできず慌てて後を追う形になった。
先程の戦闘の後にメルが応急の治療をしたとは言え、まだ先の戦闘から数時間も経っていない。
もし今ここで魔獣に触れられるほど間近に対峙する接近戦を強いられてしまったら、腕に覚えのあるテレントもグド達も確実にあの大きな爪の一撃をかわすことなく喰らって、相当な距離を弾き飛ばされてしまうだろう。そうなれば命の保証も危ういことぐらいは容易に想像がつく。
五人の中で即戦力と位置づけられてきた三人がいまだかつてないほどに窮地に立たされていることがフリトにも容易に想像できる。絶体絶命の危険性すらあるその先頭の場に、黒尽くめに紅い炎のような瞳の彼が強大な獣の前に立ちふさがり、威嚇するような攻撃的な気配を纏いながら睨み上げる。対峙する二者の間に禍々しい感情の渦が巡る。
文言を唱える間もなく、血に染められた記憶に積年の怨念がフリトの足元から湧き上がるように姿を現した。
ザングと酉暮の町で対峙した時に召喚したものよりも二周りは大きく、対峙している魔獣に劣らないほどの鋭い牙を覗かせる黒い翼竜が獅子の前に立ちはだかる。
「――行け!」
翼竜を促すようにフリトが大きく腕を振り相手の魔獣を指すと、翼竜は甲高く吼えながら翼を羽ばたかせ、地を蹴って魔獣に襲い掛かる。程なくして獣同士の激しい鳴き声と鋭い爪や牙が作る傷から、血飛沫が程なくして飛び交い始める。
翼竜が黒獅子の頭上にまで近付いたかと思うと、そこから黒獅子を目掛け急降下をした。黒曜石のようによく砥がれた鋭い爪を剥き出しにし、躊躇うことなく黒獅子の片側の首筋に降り立ち、爪と牙を突き立てた。
「ヨミ、そのまま食い千切れ!」
名を呼ばれ、新たな指令を受けた翼竜は、喰いこませた爪と牙の力を更に増していく。
黒獅子が必死に足掻きながらその強大な身を振り落としにかかる。翼竜は獅子の首筋にしがみ付き、振り落とされまいと一層爪を立てる。
その内に何度も身体を揺さぶりながら覆いかぶさってくる翼竜を振り落とそうとしていた獅子が、双つの首を同じ方向に勢いよく振った時、揺さ振られ続け爪先に隙を作った翼竜が剥がれ落ちる。
落ちる間際にも爪か牙を立てていたのか、翼竜がはがれた瞬間、獅子は痛みから生じた怒りに吠えたてた。
翼竜の攻撃をどうにか交わした黒獅子の牙が、今度は反撃とばかりに縦横無尽に襲い掛かる。フリトはそれらを魔術による遠隔で操作しながら交わし、牙を剥かせ、爪を立て、時に翼で飛び立たせながらこちらからの反撃を繰り出すということを繰り返した。
幾度となく、互いの鋭い爪が硬い皮膚にそれぞれ食い込むと、翼竜が悲鳴を上げ、同時に翼竜を操るフリトは表情を歪める。召喚した魔獣はあくまで本人の身代わりとなって攻撃をするので、受けた傷はすべて自分に返ってくるからだ。
黒獅子の牙が翼竜の右肩を噛めばフリトのそこが赤く滲み、背を爪で切りつけられれば熱にも似たその痛みで顔を歪めた。
それでもフリトは決して悲鳴も匙を投げるような言葉も吐くことはない。
翼竜が攻撃を受ける以上に相手も相当の深手を負い、既に致命傷になりうるだろうと思われる傷を左側の頭に受け、黒い顔面が赤く染まっていく。
双方の流した血流で赤黒く染まった地面には、もはや気力だけで立っているとしか思えぬ背中があり、呼吸は荒く、どちらかが絶命してしまうことは避けられそうになかった。
(――これでいいんだ……これで、すべてが終わるんだから……)
幾度目になるかしれない獅子の爪が翼竜の首を搔きむしり血しぶきが飛び散る。同じ衝撃を見に受けたフリトは、もはや文言を唱えるための声を出すことも難しい状況だった。
それでも、彼は立ち続けた。赤眼と罵られ侮蔑され続けてきた自分を人並みに扱い、必要としてくれた者たちへの報いを果たすために。
目の前がかすみ、耳も遠くなって嫌な音が聞こえてくる。いまにも膝をついて崩れてしまいたいのを、フリトは必死にこらえながら翼竜を操り続けた。
黒獅子の牙が翼竜の首と肩の間に喰らいつき、翼竜も負けじと黒獅子の首に爪を食い込ませる。地に轟くような悲鳴が一体に響き渡り血糊が流れていく。
――ああ、もう、一息なのに…… フリトは暗くなってきた視界を前に崩れかけたその時だった。
「伏せろ!」
それまでフリトの背後で息を詰めていたテレントがそう叫んだが早いか、駆けて詰め寄った間合いの地点を更に蹴って高く飛び上がる。剣を大きく振り被り、渾身の力を込めて赤く染まった黒獅子の顔面から地面まで垂直に斬りつけた。
闇諸共獣を切り裂いた刃は、真っ直ぐに黒獅子の片側の頭部を二つに分け、地面を割るような鳴き声を轟然と響かせながら黒獅子の身体は崩れた。
黒獅子が地面に崩れた直後、それを見届けていたかのようにフリトと彼が操っていた翼竜も濡れた地面に音を立てて倒れた。赤い飛沫と血生臭い空気が沈黙の中に飛んだきり、どちらもぴくりともせず横たわったままだ。
やがて、フリトの操っていた翼竜が音もなく姿色形が薄くなり、そして輪郭を残し、ついにはそれすらも消えていく。
「……フリト?」
着地をした位置でそのまま伏せていたテレントが、そこからそっと這うようにして横たわる彼の元に恐る恐る近付くと、まだ微かに背が上下するのが見える。
絶命したわけではないと判ると、叫ぶように名前を呼び、朦朧としている意識を取り戻そうとした。
それを合図とするように、地に伏せたままだった他の三人もそこに駆け寄る。近付くほどに先程の戦闘の激しさが窺えるほど、その身体は無残な姿に変わり果てていた。
黒尽くめだったはずの姿は、鮮やか過ぎる赤色に染められて虫の息だ。グドは僅かに呼吸し続けているその身体をそっと抱き起こし、言葉の返らない声を求め悲鳴に近い声で名を呼び続けるが、フリトに聞こえているかはわからない。
「しっかりしろ、すぐ治してやっからな!」と、言いながら、メルはフリトの身体中に走る傷口のまとわりつく、魔獣の邪念を模った黒い蛭のようなものを払いながら治癒の術の文言を唱える。
攻撃をした魔獣の力が強大であればある程、それらから受ける怨みの念も強いとされている。死してなおも怨みを闇の蟲に変えて相手に差し向けることもあるのだ。
闇の魔術を操る者は、それすらも巧みに操りながら弾き返して相手を倒すことができるというのだが、今回はその余裕すらなかったのだろう。
赤い傷口の上に無数の邪念の蛭達が次々と群がっていく。そうすることで、倒された魔獣が開いての精力や命を吸いつくし、無念を晴らすのだと言われている。
再び傷の腕の開いたテレントを支えながら、ザングもまたフリトに声をかけていたが、その瞼は硬く閉じられたままで開こうともしない。
「メル、早く!」
「わぁってるって! ややっこしいんだよこの黒いのが!」
「眼ぇ開けろよ、フリト!」
傷口に吸い付いている黒い蛭がメルの治癒の文言の力を阻むため、なかなか傷が塞がっていかない。メルの術で闇の属性を祓えないことはないのだが、今は圧倒的に数が多すぎる上に闇の魔獣たちの救う狗宵の森であるため、払う先から湧いてくるという状況だった。
遅々として進まない状況に焦れたテレントが、群がるそれらを手掴みで払い除けようとしたが、所詮魔術の扱えない人間の手に掴めるものなど高が知れている。
「バカ! 蛭に触るな! おまえまで飲まれるぞ!」
蛭はやがて傷口の開き始めたテレントの腕にも纏わりつき始める。メルに怒号を浴びせられ、テレントは慌てて手を離し、吸いついたままの蛭を地に振り落とす。
地に転がって蠢くそれを、ザングが躊躇いなく踏みつける。ぬるりとした酷い感触がテレントの指先に残っていた。
どれほどの時間が経ったのか、幾度となく呼びかける悲鳴のような声に応えるように、ようやく弱々しく瞼が薄く開く。
「――……んぅ、あぁあ……っが、あぁ……うっ、痛……ッ……痛ぁ、」
「フリト! もう少しの我慢ですからね、今、メルが治してくれてますから……」
「……ねぇ…っは、あ……ア、レ……ど、なった……?」
「あぁ、あの魔獣ならちゃんと倒したよ、テレントがね、最後に剣で真っ二つにしてくれた……」
「そっ、か……」
「だから、もう喋んなくってい……」
「……じゃ……い、け……か……な……」
「行くって、どこに……」
「父さ……と、母さ、のとこ……」
「なっ……何言って!」
「フリト、おまえもう喋んな! 体力が減……」
赤く染まったフリトの身体を抱くグドが震える声で問うと、朦朧とする意識の中でフリトはふわりと微笑んで答える。
儚く笑いながら紡がれた言葉を、メルが打ち消すように声を荒げて止める。口を開くたびに傷んだ身体中から奇妙な軋みや風音のようなものが聞こえてきたからだ。
しかしその小さな声も、音も、再びふわりと笑った直後、途切れてしまった。
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