3
「ギィ」
つんざくようなその高く短いひと鳴きでルネは目を覚ました。
外はすでに明るみはじめていた。
身支度を整えて寝室を出るとすでにジョンもコットンも起きてきていた。
「おはようございます」
「日の出が早くなりましたね」
「はい、目が覚めてしまって。少し外に出てきます」
ルネは表に出るとそこから朝日を受けて色づく眼下の街を見渡した。
季節は初夏を迎えていた。
家の裏へと歩いていくと昇りゆく太陽がギラギラと眩しかった。
ルネは目を細めながら緑に色づく花壇や菜園を見てまわった。
(今日採れそうなのは……)
すると鮮やかな赤い実が目に飛び込んできた。
その実に近づこうとしたそのとき、視界にさっと白いベールがおりた。
驚いたルネは何度かまばたきをくり返した。
(光の加減かな?)
そう思いその場から移動してみたが見え方は一向に改善しなかった。
ルネは急いで家に戻ると、再度辺りを見まわした。
モヤのようなものは薄くなったかのように思えた。
「ルネ、今から礼拝に行ってきます」
キッチンに入ってきたルネにジョンが声をかけた。
しかしルネにその声は届かなかった。
「コットン、その新聞を少し貸してくださいませんか」
「構わないが」
コットンはテーブルに置いていた新聞を渡した。
それを広げたルネは声にならない悲鳴を上げた。
「どうしたんだい?」
「ルネ!?」
「読めない!」
ルネは恐怖に顔を歪ませた。
(あのときと同じだ……)
「どうぞ」
看護師の案内でルネは検査室に入った。
椅子に座るよう指示され、片方が目隠しされた眼鏡を掛けられた。
「この環の切れ目はわかる?」
ルネは目を凝らした。
前方には上から下へだんだん小さくなる環が数列並んでいた。
示された一番上の環はグニャリと歪みさらに白く霞んでいた。
ルネには切れ目がどこにあるのか判断がつかなかった。
「わかりません」
「レンズを入れます」
そう言って看護師は眼鏡の目隠しされていない方に度付きのレンズを入れた。
少し見えやすくなった。
「右?」
「アタリ」
「それでいいんですか?」
拍子抜けしたルネは思わず声に出してしまった。
「だいたいでいいのよ」
看護師は言い、その調子で続けられた。
「では次に目の写真を撮ります」
薄暗い部屋に通され何枚かの写真を撮られたあと、また待合室で待つように言われた。
「具合はどうですか?」
出てきたルネにジョンが尋ねた。
「右目が特に見えません。景色はだいたいでわかりますが」
「そうですか」
「すまない、イオから目にも問題がありそうだとはきいていたが落ち着いたものだと思っていたよ」
コットンが申し訳なさそうに言った。
「いえ、僕もそう思っていましたから」
しばらくすると診察室に呼ばれ、ルネは中に入った。
「視力に関係する部分が炎症を起こして腫れています。放っておくと戻らなくなりますので薬で抑えましょう」
「治るんですか」
ルネの言葉に医師は少し黙ったあと言葉を選ぶように言った。
「君の症状の場合は一度治ったとしても再発することが多いんです。でもすぐに治療を行えば進行を抑えることはできます。だから定期診察を怠らないようにしてください」
「わかりました……」
医師はさらに目の解析写真を見せながら説明を続けた。
「それで治療ですが、目に薬を入れることになります。これは片目ずつしかできません。君の場合、左目は右に比べて軽症ですので左から行っていこうと思います。左目の視力を優先させましょう」
「それはつまり……」
ルネはそのあとの言葉を口にできなかった。
そして医師もそれ以上は言わなかった。
(右目を犠牲にするということ?)
ラジオから低い声が流れてきた。
「今日の天気は雨。明日も雨。そしてしばらくその天気が続くでしょう」
ルネはうんざりしてため息をついた。
最近はこんなふうで、たまに晴れてもそのあとは何日も雨が続いた。
(晴れた日でさえろくに外に出られないのに)
ルネの日に弱い体質は相変わらずでこのごろは室内で過ごすことが増えていた。
(ここの夏は静かだな)
あの夏の賑やかな声がきこえなかった。
(蝉がいないんだ)
そしてこの辺りには人家が少なく、よけいに静寂を感じた。
「……ランスでの遺跡調査ですが、また新たに本が出てきたとのことです……」
ルネは耳をすませた。
「……この遺跡の発見は世界を大きく変えました。本の解読が待たれますね……」
そしてラジオは次の話題に移った。
(イオたちはどうしているかな)
ルネの頭に懐かしい顔が浮かんだ。
目は治療により少しずつ改善していった。
両目の治療が済んだ頃には季節は一つ過ぎ去っていた。
左の視力はだいぶ回復したが右の方はあまり戻らなかった。
まったく見えないわけではなかったが右目で文字を読むのは困難になってしまった。
ジョンとコットンの前でルネは努めて明るく振る舞った。
(二人にはもうこれ以上心配をかけたくない)
学校は秋から通う予定だったが治療のために見送られていた。
そのまま年を越し、ルネが寺院に来て一年が過ぎようとしていた。
「来月の聖夜祭なんだが、少し手伝ってくれないかい?」
礼拝から戻ってきたコットンがお茶を差し出すルネに言った。
「でも僕は会がここと違います」
「承知だよ。君が嫌なら無理にとは言わないけれど」
ルネのいた施設はイスト派のローム会に属していたためルネも自動的にその会派を信仰していた。
ただ、ルネ自身はあまり信仰に熱心というわけでもなく、施設を出てからは塔への祈りのほかはほとんど宗派の儀式に参加したことがなかった。
しかししばらくコットンやジョンとともにユニオン会の寺院と密接に過ごしてきたことで徐々に信仰と儀式に興味を持ちはじめていた。
「僕でよろしければ」
コットンに依頼されたのは儀式で信徒に渡す「タマゴ」の作製だった。
当日に卵を茹でてゆでタマゴにし、表面の殻にインクで寺院のマークを入れる。
マークはふた筆だけのシンプルなものだった。
「ほい、祭用の卵じゃよ」
聖夜祭当日、ルーカスは引いてきた荷車から卵の入った箱を玄関前に下ろしていった。
すっかり運び終えたルーカスはルネをじっと見た。
「おまえさん、女の子じゃったんかね?」
ルーカスの視線はルネの首の下の方に向いていた。
ルネはその視線の先をたどった。
すると自分の胸のふくらみが目に入ってきた。
(うそだ、前より目立ってきている)
これまでは服を着れば一見わからない程度だった。
(いつの間に……)
「ほいじゃね、聖夜祭楽しみにしとるよ」
黙り込んだルネにルーカスは首を傾げながら帰っていった。
日々変化していく体に気づいていながらまだ大丈夫だと目をそらしていた。
楽観していながら心の奥では戸惑いと苛立ちが渦巻いていた。
そして他人の何気ない言葉や反応に無駄に傷ついてしまう自分に腹が立った。
ルネは急いで服を着込んで考えないようにした。
とにかく今はタマゴの作製を急がなければならなかった。
時間はギリギリだった。
ルネはせっせと卵をゆで続けた。
(固ゆで固ゆで、しっかりゆでる)
ひたすらそれに没頭した。
途中でジョンも作業に加わった。
「暑いでしょう。外で涼んできていいですよ」
「いいえ、大丈夫です」
夕方近くにようやくひと仕事終えたルネは部屋のベッドに倒れ込んだ。
(疲れた……)
いつの間にか眠っていたルネが目を覚ますと窓から暮れゆく橙色の空が見えた。
起き上がって窓を開けると、爽やかな風とともに人々の賑やかな声がきこえてきた。
高く低く鼓膜をくすぐるその声に不意に涙が頬をつたった。
それを自覚すると堰を切ったように次から次へと涙が溢れた。
辺りが暗くなった頃、ルネは仄暗く人気のない家を出て隣の建物に向かった。
人々はすでに寺院の中に入ってしまっており、辺りは静かだった。
ルネは近くの色つき窓にそうっと近づくと、そこから中を覗いた。
奥の方では一本の大きな蝋燭がゆらゆらと揺らめいていた。
そこに黒服の僧侶の姿が見えた。
手前には黒い人影がひしめいていた。
たった一枚のガラス窓、入れそうで入れない境界線。
突然、下腹部に痛みが走りルネはしゃがみ込んだ。
(まさか)
ルネが急いでトイレに駆け込むとそれは来ていた。
(どうしてこんなときに)
手術のあと看護師に説明を受けてはいたが、その後退院して軽いものが一度来たあとはぱったり途絶えていた。
「もう嫌だ、こんな体」
自分の根本をなしていたものがガタガタと崩れて失われて、新たにできあがっていくものがルネには恐怖であり怒りとなっていた。
(男であることにもうそこまで未練はない。でも、女であることは受け入れられない)
「ジョン、そこの本を読んでもいいですか?」
ルネは本棚を指さした。
「構いませんが、ほとんど寺院関係のものですよ。歴代の大司祭の年表や会規約など。寄贈本も少しならありますが」
「なんでもいいんです」
「目は大丈夫ですか? 無理しない方が……」
ジョンは気遣わしげにルネを見た。
「今、見えるうちに読まなければ僕はいつになったら読めるんです!?」
ルネの頭はグルグルととぐろを巻いていた。
「右目がすっかり治ったら? いつ治るんです? そのうち左目も見えなくなるんじゃ……」
そう言いかけてルネの目から涙がボロッと溢れだした。
「ルネ、ちゃんと通院していればこれ以上の悪化は防げます」
ジョンはルネの肩に手を置いて顔を覗き込んだ。
「大丈夫です、私たちがついています。そして我々の神が見てくれています」
翌日、ルネはバスに乗って街へ出かけた。
昨日ジョンが教えてくれた通りに市役所前でバスを降りるとすぐにそれは見つかった。
「図書館だ」
カードを発行してもらえばその日から本を借りることができるとジョンが教えた。
ガラス張りの建物の中には燦燦と日の光が降りそそいでいた。
中央にはピアノと大きな葉をつけた植物が置かれていた。
ルネはまずカウンターで貸出カードの発行手続きをした。
「おひとり十冊まで貸出可能で貸出期限は二週間です」
利用規約の説明を受けたあと、ルネはさっそく本棚を見てまわった。
見上げるほど高い本棚がいくつも列をなして並んでいた。
(施設の図書館よりずっと本がある)
目移りしながらもルネはあれもこれもと本を手に取っていった。
「ルネ、夕飯ですよ」
そう声がして部屋の戸が叩かれた。
ルネはハッとして顔を上げた。
外ではすでに太陽が沈もうとしていた。
「すみません、夕飯の支度……」
「もうできていますよ。ずいぶん熱心に本を読んでいたようですね。暗くなったらちゃんと電気をつけるんですよ」
「ジョンはすっかり母親みたいになったね」
コットンがおかしそうに言った。
「本もいいですがそろそろ学校はどうですか?」
ジョンがコットンに顔をしかめてみせながら言った。
ルネは押し黙った。
「そんなに行きたくないですか?」
「いえ、そんなことは……」
「ルネはもう次の教育課程に入る年齢です。ランスでは年齢に達すると義務教育が終了するんでしたよね?」
「そうだね。連合国では試験を受ける必要があるがランスではルネはもう卒業だからその基準でいいだろう」
コットンがそういったのはルネの国籍によるものだった。
ルネはまだランスに籍を置いたままだった。
「ルネは祖国に帰りたいですか?」
「もし希望するならそちらの学校に行ってもいいんだよ」
「向こうの寺院か施設に問い合わせてみましょうか」
ルネがなにも言えないでいるうちにどんどん話が進んでいった。
「待ってください! そんなに僕を追い出したいんですか?」
「違うよ、ルネ」
「そうです。あなたの将来を思って言っているんです」
「だったら、ここで勉強します! 家事をしながらできますし、もう疎かにしませんから」
ルネがそう言うと何か言いたそうなジョンを制してコットンが頷いた。
「わかった」
まるで何かに追いたてられているかのような焦りと不安がルネを支配していた。
その日の夜遅くまでルネは図書館の本を読み続けた。
そして翌朝寝坊した。
昨夜二人に約束したばかりでこの失態だった。
「おそようございます」
慌てて部屋から出てきたルネにジョンが言った。
コットンはすでに朝食を終えて家を出ていた。
「すみません」
「いいから、支度してご飯を食べなさい」
ルネが朝食を食べはじめるとジョンは家を出ていった。
食事を終えるとルネはテキパキと掃除と洗濯を済ませた。
それから部屋に行って本を開いた。
あっちを読んでこっちを読んで、気がつくと日が暮れかけていた。
ルネの血がサァッと引いた。
本を読みはじめると時間を忘れて没頭してしまう。
ルネは以前からそうだった。
しばらくそういうことがなかったため自分でもすっかり忘れていた。
「家事を減らしましょう」
夕飯の準備をしながらジョンが提案した。
「ご飯は私が準備するのであなたには掃除と洗濯を頼みます」
叱られるものだとばかり思っていたルネは意外な言葉に驚いた。
「すみませ……」
「いいですか、私はあなたが勉強するのに反対ではないんですよ」
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