第10話 第一関門
「こんにちは」
「わっ! びっくりした……」
フロア内には響かないが、存在を認知してもらえるくらいの声量。
狙い通り、身体をビクッと震わせ、こちらに目を合わせてくれた。
スタートは上々。
こういう時は驚かせない方が良いと思うかもしれないが、俺の経験上はその限りではない。
催眠術を相手にかける有名な方法として、驚愕法というのがある。
術師が対象の目の前で指パッチンをしたり、肩を強めに揺らしたりするアレだ。
なんでも、人間は驚くと一瞬意識が止まるようで、術師はそこに暗示を入れて催眠にかけるらしい。
俺が行っているのは催眠術でも暗示でもないが、驚かせるというのは同じく有用だ。
さっきも言った通り、驚くということは意識が止まること。
この隙に会話の主導権を握ることで、自分に有利な会話運びがしやすい。
もちろん、過度なおどかしは両手に手錠をはめる第一歩になりかねないので、軽くだが。
ということで俺は、せっかく手に入れたペースを無駄にしないため、流れるように言葉を紡ぐ。
「びっくりさせてごめんね。ちょっと聞きたいことがあって」
「はい……なんですか?」
何故、いきなり本題に入らず「聞きたいことがある」と勿体ぶるのか。
それは相手の認知的不協和を狙うためだ。
一般的、社会的にナンパは悪の行為である。
知らない人間にいきなり声をかけられるなんて恐怖でしかないし、女性はなおさら怖いはず。
中には、無視されたからと暴言を吐くような輩がいる始末。
見ず知らずの人に突然話しかけるのは総じてナンパと思わらる可能性があるのは否定できない。
しかし、例えば道端に落ちていた財布を片手に「あなたのですか?」と話しかけることは悪ではないとされている。
そこに善意や悪意の介入する余地はあるが、そんなものは本人の言であり、内面では何を考えているかわからないのにだ。
つまり、悪質なナンパか運命の出会いかは、当事者間の認識でどちらにも転び得る。
話が逸れてしまった。認知的不協和とは何か。
人間は、自らの行動に思考との矛盾がある場合、ストレスを感じてしまう。
そのため、思考は行動に合わせる形に変わっていくことが多い。
簡単に説明してみよう。
好きでもない相手とキスをしてしまったら、大体の人間には後悔が生まれる。
そして、その後悔から逃れるために「実は私はこの人のことが好き」と思考を変えるのが認知的不協和……だったと思う。
嫌なのに感じちゃう!がバッドエンドに繋がるというのも、もしかしたらその一種なのかも。知らんけど。
今の会話に当てはめてみると、知らない人間から声をかけられれば、不信感から返事をしないことが多い。
しかし、驚きから始めることで思考の間を与えず、無意識的な反応を得る。
一瞬の隙に疑問をねじ込み、続けて返答してもらう。
この時、認知的不協和により、「知らない人間に話しかけられ、返事してしまった」が「相手の言葉に興味を持っている」、そして「私はこの人に好印象を持っている」に繋がるわけだ。
「今さ、サークルの友達と空きコマの暇つぶしにお茶に来てたんだけど、君の髪色がすごく綺麗だなと思って」
「え、ありがとうございます!」
次に重要なポイントは、共感である。
これは誰しもが経験済みだと思うが、自分と同じ趣味だったり、同じような人生を送ってきた相手に対しては親近感が湧いてしまう。
持論だが、なぜ幽霊が老若男女問わず怖がられているかというと、それが原因不明の現象だからだ。
自分の理解の及ばない次元の話に関して、人間は恐怖を感じる傾向にある。
だからこそ、人間は進化の過程で「謎」を解き明かし、それを自らの力に換え、時に無理矢理にでも理由をつけてきた。
正体不明が怖いというのは、今の状況にも言えることだ。
相手がどこの誰で、何を目的に声をかけてきたのか。
分からないことだらけで恐怖を感じてしまう。
だから早いタイミングで、自分と相手の共通点、そして目的を明かした。
俺が10秒もかけずに言った文章の中には、幾つもの共通点が散りばめられている。
まずは「空きコマ」。
自分が大学生と名乗るのは逆に怪しいが、空きコマという言葉を使うことによって、相手に大学生だと悟ってもらう。
さらに、カフェの場所から逆算して、おそらく同じ大学の生徒だとも。
次に「暇つぶし」。
時間が余ってしまった時にカフェに来るという行動の共通点を示した。
そして最後に「髪色」についての話題。
染髪未経験者に褒められても嬉しいものだが、自分と同じように、ある程度色の入り方が分かる相手に褒められる方が嬉しい場合が多い。
彼女がこちらを見た時に髪色……正確に言えばブリーチ経験済みの共通点が浮かび上がり、褒めることで喜びとも結びつけられる。
一連の流れで、彼女の中にある警戒心はだいぶ緩和されたはずだ。
「お知り合いの方は大丈夫なんですか?」
「あぁ、一言言ってきたし、彼女も君の髪が綺麗だって言ってたよ」
そういえば、七緒がいることの利点に触れていなかった。
俺自身はこの論には否定的だが、彼女がいるおかげで一種の社会的安心感が生まれている。
結婚と同じだ。
ソースのわからないニュースサイトでたまに見るだろう。
結婚している人間は社会的な安全性が確認しやすいと。
別に、結婚なんてしたい人間がすれば良いだけだし、相手がいないからこそ楽しい生活を送れることだってある。
個人的に独り身万歳な身から言わせてもらえば、クソみたいな論だ。
だが、「社会」が既婚者に信頼を置く理由もまた、一理あるものではある。
人の感じ方はそれぞれだが、「女友達も彼女もいたことのない男」に声をかけられるより、「女友達も彼女もいたことのある男」に声をかけられる方が自分の価値を感じられる。
あくまで人それぞれだがな。
ともかく、一番の関門は突破したと言って良いだろう。
あとは適当に、ノリ良く話すだけだ。
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