タイム・パンデミック

杉野みくや

第1章

第1話 帰還

 時は西暦2075年。ある一人の研究者により、人類初のタイムマシンが発明された。見事、タイムトラベルを成功させた彼は一躍、時の人となり、誰もがその功績をたたえた。しかし、彼が持ち帰ってきた土や植物に付着していた、現代では既に絶滅しているウィルスが突然変異を遂げてしまう。当然、タイムトラベルを行った彼は感染し、彼に接触した人々が次々に感染していった。さらにこのとき、彼は海外の主要な国を飛び回っており、感染を広げる原因にもなった。


 ワクチンの普及や集団免疫の獲得により、2080年にはパンデミックの終息が宣言されたものの、累計感染者数は全世界で30億人に上り、死者数も戦後最悪の数値を記録した。この一連の騒動は「タイム・パンデミック」と呼ばれ、人類史に深く爪痕を残すこととなった。


 これを受けて各国は当初、タイムトラベルにまつわる研究を全面的に禁止する方向で話が進んでいた。しかし、人類や地球、ひいては宇宙の歴史を紐解けるかもしれない重要な技術であることから、最終的に「規制」という形に落ち着いた。その結果、厳しい監視下ではあるが、研究を継続できるようになったのだ。



 それから月日は流れ——。


 2115年5月10日。日本唯一のタイムトラベル研究機関であるJTSL(国立時間・時空研究所)の一室にて、研究員らは熱心にモニターを見つめていた。もうすぐタイムマシンが帰還するのだ。後ろに待機している、検疫所から派遣された監督官と共に、固唾をのんで乗組員の無事を祈っていた。


「時空に高エネルギー反応あり!まもなく、タイムマシンが帰還します!」


 辺りに緊張が走る。呼吸音ひとつすら発するのをはばかられるような空気が漂った。

 その時、転移室の中でプラズマの発生が確認された。いよいよタイムマシンが時空のトンネルを抜けて到着するのだ。モニター越しに轟音と振動が伝わってくる。数秒後、すさまじい衝撃音とともに、転移室が一瞬ピカッと光った。すると、先ほどまではなかった迷彩柄の機械が、まるで手品のごとく登場した。


 直後、プシューという音とともに機械の扉が重々しく開く。その中から、一人の女性が手を大きく振りながら姿を現した。


「行動心理学者・村雨紫音むらさめしおん、ただいま帰還しました!」


 その声がスピーカーに乗ると、研究員らは肩の荷が下りたように安堵の表情を見せた。続けて、同乗していた他の研究員も姿を現し、無事を報告する。


「了解です。調査お疲れ様でした!それでは、消毒ルームの方へとお進みください」


 オペレーターが言い終わると、転移室の扉が自動で開く。紫音らは大きく伸びをしながら消毒ルームへと向かった。

 中に入ると、壁には食品工場などで使われる大型の消毒装置を独自に改良した噴射口がいくつも取り付けられていた。もう見慣れたものではあるが、この消毒作業が紫音はあまり好きではなかった。


「毎回思うんだけどさ、消毒のきっつい臭いはどうにかならないのかねぇ」

「これでも、昔よりはかなり抑えられてる方みたいですけどね」


 そう諭すように答えたのは、中性的な見た目が特徴の桜田葵だった。紫音の後輩で歴史学を研究している、期待の若手研究員だ。


「腰に付けてる浄化装置も最近は結構性能が上がってるし、ここまでやる必要もあるのか疑問だね」

「ま、念には念を、ってやつだ。第二次タイム・パンデミックとか、引き起こしたくないだろ?」

「たしかにそうだけど、所長の力でどうにかならないんですか?」


 所長、と呼ばれた長身の男性、八雲和樹は思わず苦笑いを浮かべる。JTSLは万年人手不足であるため、このように所長自らがタイムトラベルに赴くことも珍しくないのだ。


 こうしていつものように談笑していると、あっという間に消毒時間が終了し、奥の扉が自動で開く。三人は消毒ルームを後にし、それぞれ個室へと移動する。部屋の中は大きなガラスで半分に仕切られており、その向こうにはマイクを持った検疫官が待機していた。彼女の指示に従って身体スキャンと問診を行い、健康状態に異常はないかを細かく、厳しくチェックされる。その後、特殊な抗生剤を口に入れ、全ての安全が確認されると、めでたく検疫が終了する。


「よし、今回も大丈夫そうだね。お疲れ様、紫音」

「お疲れ様、茜」


 紫音たちは互いの労をねぎらい、その部屋を後にした。ちょうど蒼生たちも終わったらしく、おのおの個室からモニタールームへと移動した。


 そこでは、タイムマシンから送信されてきたデータを他の研究員と一緒に確認し、調査結果を隅々まで共有した。今回は平安時代中期で調査を行ったが、今回も文献には載っていない新たな知見を得ることができていた。それをひとつひとつ報告するたびに研究員たちからは静かな感嘆が起こり、知的好奇心を刺激していった。


 報告会が終わることには日がすっかり落ちていた。白衣をロッカーにしまい、カジュアルな衣装に着替えた紫音がロビーに出ると、八雲が他の研究員と何やら話しをしていた。


「お疲れ様です~。何話されていたんですか?」

「お疲れ様。今、無人タイムマシンの実験について話していてね。どうすれば、タイムトンネルに入った後もレーダーに捉え続けられるのかを議論していたところさ」

「ふ~ん。何だか面白うそうな香りがしますな」

「あはは。ただ、今はまだ機密事項が多いから、詳しくは話せないさ。今日はゆっくり休んで疲れを取りなさい」


 そう言うと、八雲たちは食堂の方へと向かっていった。機密事項があるならこんなところで話すなよ、と心の中で口を尖らせつつも、紫音は颯爽と帰路に着いた。


 2日ぶりの都会の空気は相変わらず少しくすんでいたが、居心地は不思議と悪くはない。時折吹く風が紫音の青みがかった長髪をふわりと撫でていく。ふと空を見上げると、薄い雲の奥から月の光がぼんやりと覗いていた。そして、その周りを『月傘』と呼ばれる白っぽい輪が囲んでいた。明日はどうやら雨が降りそうだ。

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