紅は園生に植えても隠れなし③

「ほら、終わったわよ!」

「痛い痛い! ありがと瀬尾せおちゃん!」


 安全ピンを留め終えた鞠佳まりかにばしんと背中を叩かれ、すみれがつんのめるように席を立つ。階段を駆け上がり先を行く平原に追いついた後輩は、例のごとく肩から落ちたジャージをどうにか腕に引っかけていた。

 ダブルスは二人が同じユニフォームを着ることを義務づけられている。どの学校も団体戦で使う揃いのユニフォームを買っているためそれを流用するペアがほとんどだが、菫は堂々と花ノ谷のユニフォームを持たずに会場にやってきていた。

 団体予選は大会初日、決勝リーグは三日目。ゆえに二日目は持ってこなくてもよいと判断したらしい。他の部員に菫の分を借りる案も出たが、運良く二人とも中学時代のユニフォームを用意していた。

 ならば八倶坂のものを使おうという結論に至ったのがつい数分前で、急いで着替えた二人は時間ぎりぎりにフロアに足を踏み入れた。


「ばたばたしちゃいましたね、だいたい菫のせいですけど」

「……まあ、間に合ったからいいんじゃない」


 清々しいまでの開き直りに気が抜けて、平原の口からは説教じみた言葉のひとつも出てこなかった。というのも、平原と菫にはそれほど急ぐ理由がないのだ。

 平原は空き時間にウォームアップを済ませているし、午前を通して予選を戦った菫に準備運動の必要はない。すでに体を動かしている相手のペアを横目にフェンス際を歩いてきた二人は空いている側のベンチに荷物を投げ出した。


 正藍寺しょうらんじ学園高等部二年の中津なかつ杏奈あんなと一年の飯野いいのじゅん。一回戦の相手はカットマンと攻撃型のペアだ。

 のろのろとジャージを畳みながら、片膝を立てて座った菫はじっと目を細めて対戦相手を見物する。


「菫、どっちの人もあんまりよく知らないんですよね。選考会でちょっと見たくらいで……平原さん試合したことあります?」

「中津杏奈とは何回か。両方中学ではレギュラーだったと思うけど」


 髪をお団子にまとめた中津がカットのフォームを確認する傍ら、パートナーの飯野は何本ものピンで留めた前髪をしきりに手で払っている。ひょろりと背の高い飯野がその場で跳ねるたび、背中のゼッケンがばさばさと上下した。

 対戦経験こそないが、平原は飯野のことをよく知っている。より正しく言うなら彼女の父親と面識があるのだった。


 五年ほど前に正藍寺のコーチに就任した飯野高彦たかひこは、かつて平原が出場した小学生の大会を見に来ていた。今思えばあれはスカウトか何かだったのだろう、県内の有望な学生を発掘するため多くの大会に顔を出す飯野は選手たちにも有名だった。

 元プロ選手の肩書きを持つ飯野の教室にはそれなりの数の生徒が集まり、教え子の多くは正藍寺に進学した。飯野と正藍寺の繋がりはそこから始まったのだ。

 十年近く前になるだろうか、平原が卓球を始めて数年といった頃に大会を見に来た飯野は試合の合間に選手たちに声をかけていた。

 年齢はまちまちだが、どの子も競技歴が長く実力のある選手だ。当時教室のエースだった女子との談笑を終えた飯野は再び試合を見に行こうとして、なぜか応援席に向かう足を止めた。

 一人離れたところに座っていた平原を見つけると一直線にこちらに向かってきて――かなりの勢いで詰め寄ってくる大柄な男を不審に思ったのを覚えている――事細かに質問をし始めた。


 卓球をいつから始めたか、使っている用具は何か、普段どんな練習をしているか、今日の試合は誰とでそのスコアはどうだったか、得意なプレーは何か。後の質問は覚えていない。

 知り合いでもないのに馴れ馴れしい飯野の口調に腹が立って、平原はつっけんどんな受け答えばかりしていた。アンケートが一段落すると、格式張って頷いた飯野は品定めでもするような目で平原を一瞥し、静かな声で言う。

 たった二年でこれだけできるようになったのはすごい。でも君にはさっきの子たちのような才能はないね、と。

 そういうものか、と思った。失礼だとは思わず、さりとて傷つきもせず、平原はいち経験者の意見としてそれを受け止めた。

 そうですか、と答えた平原の態度が気に障ったのか、飯野は不愉快そうに靴音を鳴らして立ち去った。それが一度目の接触だ。


 数年後、飯野は再び平原の前に現れた。五年生になった平原はいつしか教室のエースとして扱われ、その日の大会でも団体戦で全試合に出場した。個人戦を控え、会場をぶらつく平原を興奮気味に呼び止める声があった――飯野高彦であった。

 うちのクラブに来ないか、君ならすごい選手になれる。一緒にもっと上を目指そうと、男は平原にそう言ったのだ。何年か前の大会で声をかけたことを、才能がないと切り捨てたことを覚えていないといった風情で。

 以前と正反対の口ぶりに、平原は今度こそ衝撃を受けた。もしわたしと同じことを言われた選手が、その言葉を信じて卓球を辞めていたら? もしその子に本当は誰も太刀打ちできないような才能があったら? この人はどうやって責任を取ったのだろう。

 いや、選手に対して責任を負ったことなどないのかもしれない。何百人もの子供を見て、目に入った特別なもの以外はさっぱり忘れて、そうして今初めて存在しているのに気がついたとでも言うようにこちらを見る。ふざけた話だと思った。


 完全に指導者というものへの信頼を失った平原はその誘いを拒否した。こんな無責任な大人に自分を左右されたくはなかったからだ。勧誘を断られた飯野は大人げない暴言をいくつか吐き捨てていったが、平原は侮辱の数々を冷ややかに聞き流した。

 これが正しい決断だと思った。今ついていったところで、またいつあの男の視界から自分が消えるかなど平原にはわからないのだから。


 そうして平原は、同じクラブに所属したまま中学生になった。入る学校は正藍寺以外ならどこでもよかった。というのも、時を同じくして飯野が正藍寺の指導に携わり始めたのだ。だとすれば飯野が平原を見ていい顔をするはずもなく、入部したところで冷遇されるのは目に見えている。

 結局平原は、教室から一番近い位置にあるという理由で八倶坂やくさか中に入学した。団体戦で勝ちたいわけでもないのだからどの学校にいても同じではないか。

 そんな調子で、何の期待もせず入った八倶坂中にあんな顧問がいたのは幸運だった。平原の入学した年に八倶坂に赴任した佐原さはら澄子すみこは元全国レベルの選手であり、素人同然の部員を全県へと連れて行った立役者でもある。

 思いがけず部活での練習相手を得た平原は、佐原との出会いで優れた指導者の存在とその重要性を知った。それでも平原の心には、いまだ解消できない大人への不信感がわだかまっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る