第3話 二十六回目の転生者

 少しだけ、話を戻すとしよう。


 このお話を読んでいる『貴女』に問いたい。


 『貴女』が『貴女』と認識できたのは、いつだったのか?と。


 私の場合は、六歳の頃だった。

 ギルバートも関係しているある危機に陥った時、その記憶は覚醒したのだ。


 恐怖で凍り付いた瞬間、嵐で荒ぶる濁流のように、記憶の波が押し寄せ頭に膨大な知識と経験が流れ込んだ。


 それからふと、思考の水底から疑問と答えが浮かんできた。


 自分が本当は『誰』であったのか。何者であったのか。


 『私は誰?私は―――日本人ではなかったか』と。


 【 転生者 】


 その日、自らがそう呼ばれる存在である事に気がついた。 

 元は地球と呼ばれた星に生まれた、日本人女性。


 過去の記憶から、前世の自分として思い出されるのは、窮屈なスーツを着て毎日深夜残業で疲れ果てていた二十六歳のOLの姿だった。どこにでもいる、平凡な、ただの女の姿。


 その人生で、私はある失敗をしたのである。


 月の休みが二日しか無いというブラック極まりない職場環境に嫌気が差していたその日、私は残業上がりの疲れた身体で酒を飲み、酔いを醒ますことなく入浴した。


 ここからは、お察しの通りというやつだろう。


 飲酒後は入浴を控えるべき、と殆どの人間が知っている筈だった。だけどその時の私は頭が麻痺していたのだ。日頃の疲れもあったのだろう。


 泥酔したまま湯船に浸かり、そして熟睡、その後溺死したというのが、私が前世で迎えた人生の結末である。


 なんとも呆気なく、悲しい終わり。


 けれど次に意識が覚醒した時、私はこの身体―――オリヴィア=メナル=ファルークに転生していた。


 さらさらと流れる絹糸のような赤い髪、大きな瞳に通った鼻筋。元の顔とは違い、深みを増し、けれど繊細さを併せ持った女性らしい顔立ち。

 鏡を見て思ったのは「どこのロマンス小説ヒロインか」の一言だった。


 私が『私』として覚醒したのが六歳のその日、よりにもよって、その瞬間だった。


 あ、まずい、と思った時には既に遅く。


 無謀にもギルと二人、子供だけで屋敷から城下の街へと繰り出していた私達。


 世間知らずの貴族の子供は、まだ華やかな都に巣くう陰鬱な大人達の存在を、恐さを、知らなかった。


 薄闇に包まれた路地裏へ、度胸試しとばかりに勢い勇み、進んだ先にはそう、身分ある子供を攫い金をせしめる破落戸達が潜んでいたのだ。


 命さえあれば手足など無くても良いと迫り来る白刃を前に、記憶を取り戻した私が咄嗟に出来たことと言えば―――自分の身体で、ギルを守ることだけだった。


 中身は二十六歳の女。対して、傍らには当時八歳のギルバート。

 成すべき事は、一つだった。


「……君は身を挺して、俺を庇ってくれた。まだ幼く、年端もいかぬ少女の頃に」


 セピア色の回想から、ギルの声で引き揚げられる。


 真正面には、思い出の中よりもっと大人びて精悍さを帯びた端正な顔があった。


 華やかで、けれど厳しい表情を浮かべた少し焼けた肌には、悲しい苦渋が充ち満ちている。


 肌は焼けるように熱いのに、その紫水晶の瞳だけが、雨に濡れていた。


 熱い手が、頬を包む。ギルが、私の頬や瞼に唇を寄せ、羽根のような口付けを落とす。


「あれは……、っきゃ」


 自分としては、あれは当然の行いだったのだと、彼の言葉に反論しようとしたところを、くるりと身体を反転させられ、驚きで口を噤んだ。


 身の内に埋没していた質量が、ずるりと引き抜かれ、その杭の後を追うように、ごぼりと多量の蜜が零れる。


 羞恥のせいか、消えた寂しさのせいなのか、下腹の奥がきゅうと切なく戦慄いた。


 気付けば、向かい合わせに抱き合っていたのから、背をギルの顔の前に晒す状態になっていた。


 その上、寝台に広がる敷布の上にとさりとうつ伏せにされ、四つん這いの格好をさせられる。


 頬に、滑らかな絹地の感触が触れていた。


「っギル、」


「ああ、やはり美しいな。体温が上がっているせいか、まるで大きな赤い花弁が刻まれているようだ……俺との思い出の、決して消えない、愛しい痕だ」


 熱に浮かされたような声でギルが囁く。私の戸惑いは、陶然とした彼の声音に封じられた。


 少しかさついた、皮膚の厚くなった指先が再び背を撫でていく。


 研いだ刃で付けられた傷は、完全に塞がること無く醜い痕跡を肌に残しているのに、それをさも愛おしげにギルはなぞり、吐息を吹きかけ、口付ける。


「ふ、あ、ああっ……」


 擽るように落とされる接吻に背が仰け反った。既に熱を帯びている身体には、僅かな刺激さえも甘い官能を呼び起こしてしまう。震える私の腰を、ギルの大きな両手が掴む。


「ギ、る、ああぁっっ!?」


 そして、後ろからずぷりと奥まで突き上入れられた。擦れた壁から、叩かれた腹の奥から、焔が弾けた。


 目端に、自分の赤くなった長い髪が乱れるのが見えた。


「俺の痕(しるし)だ……っなのに、君はあの時俺を捨てて、あの男の妻になったっ! また、君は俺を捨てようとしたっ。今際の際になってまで!! なぜだ、オリヴィア、こんなに、こんなにも愛しているのにっ……」


「ひぁ、ああ、は、あっ、あっ、ううっ」


 剛直に貫かれる心地よさに、淫らな嬌声が零れる。ぶつけられた激情に焼き尽くされそうで、這いつくばったまま、私は甘く淫らな肉体の快楽に溺れてしまう。


 今の人生で二度。

 私はギルと別れの抱擁を交わした。


 一度目は王妃となる日に。

 二度目は悪妃として処刑される筈だった日に。


 そのどちらの日でも、ギルは私に逃げようと言ってくれた。けれど、私はそのどちらも断った。


 私の『目的』を遂げるためには、そうせざるを得なかったからだ。


 けれどそれを、彼に告げることはない。


 告げれば―――ギルは、この世界から消えてしまうからだ。


 自分が本当は何者であるのか、私は誰にも、ギルにさえも打ち明けたことは無かった。


 胸に抱き続けた想いと共に。


 ずっと焦がれて、手の届かなかった幼馴染み。

 同意無く抱かれてすら、私の心に歓喜の波を寄せる人。


 私が彼を庇ったあの瞬間に、彼は私に心惹かれてくれたのだろう。本来ならば、大人が子供を守るという当たり前の行為だったにもかかわらず。ある種罠にも近い恋の始まりだったにもかかわらず。


 勿論、転生の記憶を思い出してからは私はギルバートから寄せられる淡い恋心を受け流していた。彼の愛情表現は少年らしい可愛らしいものであったし、何より私の中身は二十六歳の成人女性だったから。


 相手は八歳のギルバート。少年嗜好があるわけでも無し、まさか恋に落ちるだなんて思ってもいなかった。


 はじめは母のように、姉のように見守っていたと思う。

 だけど私の内には、まだ他にも【過去の記憶】が隠されていたのだ。

 

 二十六年。


 それが私が日本人女性として生きた年数だった。


 けれど私は、その年数と同じ数だけ【この世界】で転生を繰り返していたらしい。


 六歳のあの日以降、私の脳には―――二十六回分の転生の記憶が、流れ込んできた。

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