第8話 15歳だったシエル

「よいっしょ、と」


 しっかりとした足取りで急斜面を登りきり、小山の頂上に立ったシエルは思いっきり伸びをした。新鮮な朝の空気を吸い込んで、空を見る。


 天気は晴天。雲の割合は二割から三割といったところか。蒼天に浮かぶ雲はどれも高く、色も白い。雲の流れはやや速め。


「んー?」


 スンッと鼻を鳴らせば、少し湿った空気の匂いを感じる。

 シエルは身を翻すと、近くにあった小さな小屋のようなものに駆け寄った。


 しかし小屋といっても、屋根付きの見た目が小屋っぽいだけで、とてもではないが人が入れるような大きさではない。両手で抱えられる大きさの白い木箱に、足を付けて背丈ほどの高さに立てた、と表現するのが一番近いかもしれない。


 シエルは迷いなく木箱の扉を開けて、中を覗き込む。


「温度湿度……っと気圧はやや下がり気味かな」


 これは『百葉箱』というもので、中には温度計や湿度計が入っている。箱は計器を日射や雨雪から守るためのものだ。


 シエルは慣れた様子で数値をノートに書き記すと、百葉箱を閉じて、もう一度空を見た。どこか湿り気を帯びた風が、白銀の三つ編みを揺らす。


 天気が崩れる予感がした。早めに用事を済ませてしまった方がいいかもしれない。


 ――そうと決まれば、早い。


 シエルは急いで山を駆け下りると、中腹にある自宅に戻った。出かける準備を済ませ、玄関の扉を静かに閉める。


「……行ってきます、おじいちゃん」


 零した声に、返事はない。


 しっかりと施錠をし、シエルは山を下り始めた。


 シエルの住むリエーヴル村は、王国の東の果て。小高い山の中にある小さな村だ。木漏れ日降り注ぐ木立を駆け抜けていくと、いくつかの家々が見えてくる。その中の一つ。ある家の前で洗濯物を干している恰幅のいい女性を、シエルは見つけた。


「エレーヌさん!」


 シエルの溌剌とした声に、女性――エレーヌが気付いて振り向く。


「おはようございます、エレーヌさん。この間はお野菜ありがとうございました。とっても美味しかったです!」


 そう言ってシエルが駆け寄れば、エレーヌは大量の洗濯物を干す手を止めて、シエルに向かっておおらかに笑う。エレーヌはシエルの家に一番近い『ご近所さん』で、やんちゃ盛りの子供三人を育てる肝っ玉母さんだった。


「シエルじゃないか。おはよう。美味しく食べて貰えたなら何よりだ。今日は街へ行くのかい?」

「はい! 今日は週一の『お告げ』をお伝えする日なので」


 元気よく答えるとエレーヌは「あぁそうだったね」と思い出したように言った。


「あんたも大変だね。気を付けて行くんだよ」

「ありがとうございます」


 ぺこりとお辞儀を一つして、シエルはまた走り出す。


 ――と。


「あっ、エレーヌさん!」


 一つ言い忘れていたことに気付き、シエルは急制動して振り返る。


「午後は急な雨が降りそうなので、洗濯物は早めに取り込んでおいた方がいいですよー!」


 笑顔のままぶんぶんと、ちぎれそうな勢いで手を振って、また走り出す。

 その小柄な背を見送って、エレーヌは空を見上げた。


「雨、ねぇ……?」


 空は澄んだ青色で、雨雲など一つも見えないが――


「じゃ、お昼ご飯食べたら取り込むかね」


 エレーヌはそう呟いて、残りの洗濯物を干しにかかった。







 ざわざわ、がやがや。


 入り口人がひっきりなしに出入りし、奥の方では社員が印刷作業に追われ慌ただしくしている。そんな麓の街の新聞社で――


「あいよ、今週分はオーケーだ。ご苦労さん」


 カウンターの向こうからニッと歯を見せて笑った新聞社のおじさんに、シエルはホッと胸を撫で下ろした。


 よかった。どうやら、今日も滞りなく仕事をこなせたようだ。


 あとは報酬を受け取って、帰るだけ。いや、帰る前に少し買い物でもしていこうか。

 そう思った時だった。


「そういや、ジュストのじいさんはどうだい?」


 降ってきた問いに、シエルはドキッと心臓を跳ね上がらせた。


「いえ……あんまり……」


 身体まで跳ねてしまうんじゃないか。そう思うほど大きく脈打つ胸を押さえて、傍目にも分かるほど表情を曇らせる。


 そんなシエルに、新聞社のおじさんは「そうか……」と心底気遣うような声を掛けてくれる。


「じいさんも歳だからなぁ。爺さんと孫娘二人じゃ、何かと大変だろ。なんかあったら、気軽に頼ってくれよ。なんせ爺さんには世話になりっぱなし。よく当たる爺さんの『予言』のおかげで、ウチも儲けさせて貰ってるからな」

「……ありがとうございます」


 少しだけ表情を明るくして、シエルは報酬の入った小袋を受け取る。


「じゃあまた来週来ますね」

「おうよ、爺さんによろしくな」


 背を向けて、小袋を開く。そこにはジャラリと、いい額の硬貨が入っていた。思わず頬が緩む。


 シエルは普段、小さな畑を耕し、ニワトリや山羊を飼う生活をしている。自給自足に近いが、人並みに暮らしていれば、何かと入り用だ。


 とはいえ、これだけのお金あれば、少しだけ贅沢もできる。


 今日ぐらいはパン屋さんで焼きたてのパンを買おう。それからお肉屋さんに行って、美味しい燻製も買っちゃおう。それで家に帰って、畑から取った野菜と合わせれば、新鮮シャキシャキ野菜の肉入りサンドの完成だ。


「えへへ」


 と美味しいお昼ご飯を想像して、前をよく見ないで歩いていたせいだろう。

 ドンッと、新聞社の出入り口でフードを被った男性とぶつかってしまった。


「へぶっ。す、すみません……」

「いや、こちらこそ申し訳ない」


 謝ると、目深に被られたフードの中から、思ったよりも若い声が返ってくる。


 少しだけ意外に思いつつも、シエルはぺこりと頭を下げて、青年が開けてくれていた扉から、そそくさと逃げるように新聞社から外へ出る。


 空を見れば、少し前まで晴れていた空は、どんよりとした雲に覆われていた。


「うーん予想より早く降りそう。急いで帰ろう」


 そう呟いて、急ぎ足に歩き出す。


「おい、あんちゃん、いつまでも出入り口に突っ立ってねぇで中はいんな。何の用だい?」

「…………」


 その問いかけに、青年は答えない。

 去って行く小さな背を青年がじっと見ていたことに、シエルは気が付かなかった。







「ひゃあああっ。やっぱり降ってきたああああ」


 増す雨脚の中、泥を跳ねさせながら、シエルは山道を登っていく。鞄を雨よけにしながらなんとか家に辿り着いたシエルは、干してあったタオルで、濡れた髪を丁寧に拭いていく。


 すると突然、コンコンと。玄関のドアがノックされた。


 誰だろう。そう思いながら返事をせずにいると、もう一度、控えめにドアが叩かれる。


「すまない。誰かおられないだろうか」


 その声にびっくりする。それは紛れもなく、数時間前、街の新聞社の入り口でシエルがぶつかった青年のものだったからだ。


 シエルはおそるおそるドアノブに手を掛けると、そっと開けた隙間から顔を覗かせる。

 玄関の外には、やはりあのフードの青年が立っていた。


「すまない。こちらはジュスト・ヴェベール殿の家だろうか」


 その言葉に、先程よりも数段大きく驚く。しかし何とか内心だけに留め、シエルはおずおずと尋ね返した。


「あの……どちら様でしょうか」

「失礼、私はアヴィー。リュクレース王国の使いの者だ。第一王子の命で、空読みの神官ジュスト・ヴェベール殿を探している」

「だ、第一王子……!?」

「近隣の者に、こちらがジュスト殿の邸宅だと伺ったのだが」


 今度こそ驚きを隠しきれないシエルに、青年・アヴィーは外套の下から手を差し出し、徽章を見せてくる。徽章には詳しくないが、確かにそこには、リュクレース王国の紋章が刻まれていた。チラリと見えたローブの下には、あつらえの良い長剣も提げられている。


(国の使い、第一王子の命令。どうしてこんな田舎に)


 告げられた事実に、頭の中がぐるぐると回る。唐突な来訪者がもたらした情報に、シエルの脳はパンクしそうだった。


(空読み……ジュスト、おじいちゃん。――おじいちゃん)


 だがシエルはぐっと息を呑むと、小さな深呼吸を一つ。固い声で告げた。


「お引き取り下さい」


 アヴィーと名乗る青年が、ピクリと肩を揺らす。

 扉に手を付けたまま、シエルは言った。


「確かに、ジュストは私の祖父です。ですが、祖父は病気を患っていて、とても人と話せる状態ではありません」

「……今でも『空読み』の予言は行っていると聞いたが」

「そ、それは……」


 瞬間、空が真白く光り、シエルは飛び上がった。


「ぴえっ」


 頭上を覆う黒い曇天に稲光が走り、地を揺るがすような轟音が響く。それが合図だったかのように、バケツをひっくり返したような雨が降ってくる。玄関の屋根からは滝のように雨水が流れ落ち、濡れていただけの地面は、あっという間にぬかるみになった。


 そんな空を揃って呆然と見上げ――


「すまないが、しばらく雨宿りをさせてくれないだろうか」


 そう言って青年は、既に十分濡れてしまっていたフードを捲り上げ、現れた素顔にシエルは言葉を失った。


 ――綺麗だった。


 現れたのは、落ち着き払った声から想像していたよりも、ずっと若い顔だった。まだ少年の面影さえ残る、線の細い顔立ち。けれど女性が十人居れば十人は見惚れるような端正な顔立ちに、夜のような漆黒の髪。少し癖のあるその毛先は雨に濡れ、ところどころ水滴が滴り落ちている。


 そして、そんな髪の隙間から覗く双眸は、静かにシエルを見据えていた。


 ――綺麗な瞳だと思った。


 夜明け前の空の色だと、シエルは思った。

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