本屋カフェ テック特区
海野ぴゅう
1杯目 水曜日は働かない
水曜日は働かない。
お気に入りのカフェ『テック
名前の由来が全く推測できない喫茶店に入ったのは全くの偶然である。
あれは殺人的夏日だった。
難しい要望を次々と繰り出す得意先から帰社する際、
道路の角には
この辺りでキッチンカーはよく見かけるが、涼める場は少ない。
路地に足を踏み入れると、地面は地獄のアスファルトから優しいインターロッキングに切り替わり、異世界じみた違う空気が僕にまとわりついた。
その喫茶店の佇まいは『ザ・昭和』そのもので、ムラのある焦げ茶色のレンガ張りの壁に重厚な木製のドア、細長い縦の窓には分厚いすりガラスがはめ込まれて中が見えなくなっている。
ドアの上には『coffee salon テック特区』という深緑色の渋い小さな看板があるきりで、メニュー表などは一切出していない。一瞬ためらったが、暑さには勝てない。
僕は勢いで店のドアを開けた。ドアベルがチリリンと透明な音をたてる。
出迎えた店員は30代半ばくらいの化粧気のない女性だった。メンズの白シャツに黒ベスト、蝶ネクタイ。腰で膨らんで足首ですぼまった黒のパンツは意識的に色気を排除しているよが
姉妹がおらず母親も男前だったせいで過剰な女性らしさが苦手な僕はほっとした。
彼女はこちらを見、小さいがよく通る声で「おかえりなさい」と言った。「いらっしゃいませ」の代わりのようだが照れ臭くなって軽く頭を下げる。
店内は適度に明るく清潔だが、外観も名前も怪しいせいか人がまばらだ。音楽は流れていない。
対面で4人座れる空席が5つある。今は昼の3時過ぎで、これで商売が成り立つのかとお節介な心配をしてしまう。
5席ある低いカウンターには僕と同じくお一人様の客が3人いた。
彼らは皮製の大き目の椅子に深く座って熱心に本を読んでいる。自宅にいるがごとくリラックスした彼らはめいめい好きな恰好で座っていた。一人の老婦人は床に靴をきちんと
僕はまた一段と深い異世界に落ちたかのような感覚に襲われた。
「あ、アイスコーヒーを…」
「アイスコーヒーですね、お好きな席にどうぞ」
僕は店員に注文をしてカウンターの横の大きめの本棚を見た。普通の雑誌は見当たらず、僕が今まで見たことのない種類の本が表紙が見えるように立てかけられていた。
アリスの飛び出す絵本、かなり古い装丁の漱石『夢十夜』、世界の蟻図鑑、ツリーハウスの作り方等、お洒落というわけでもないが気になるチョイスである。ここらへんがブックカフェの
僕は目についたアフリカ民族写真集を手に取り、カウンター席から一番遠い4人席に座った。
涼しさに人心地を取り戻すと、先ほどの店員がお絞りとグラスに入ったアイスコーヒーと昭和な意匠のガラスの小皿に盛ったチョコを運んできた。どうもセットらしい。
コーヒーを一口含むと酸味のない優しい味が口に広がった。1センチ程の立方体に成形されたチョコレートは少し苦くて飲み物によく合った。
巻末の民族ごとの歴史が書かれた箇所を読み終えた頃には4時近くになっていた。
僕は慌てて常温になったアイスコーヒーの残りを飲み干し、写真集を棚に戻して代金を払いドアノブに手をかけた。
しかし糸に引っ張られた人形のようにレジに戻った。
「あの写真集、売ってもらえませんか?」
店員は黙って頷き、レジの後ろに用意してあった新品の写真集を紙袋に入れて僕にそっと渡した。
まるで僕が買うとわかっていたかのようだ。
「3740円です」
重いし結構な金額だしこれを払うと手持ちの現金が心細くなる。ちなみに支払いは現金のみだ。
「ありがとうございます」
僕はなけなしの現金で支払っていた。
店から出る時「いってらっしゃい」と背中に抜群のタイミングで声掛けされた。外は灼熱地獄なのに、しばらく背中が涼しかった。
僕はテック特区に通うようになった。
気に入った本を購入し、僕のがらんどうの部屋の床に積まれていった。とうとう本が雪崩をおこしたので本棚を購入した。
(そういえば、自分の本棚は初めてだな…)
本を並べていて気が付いた。
実家では本棚は家族のが雑多に並べてあり、各自勝手に読んで共有していた。本棚は皆の本棚だった。
しかしこれは僕の本棚だ。僕だけの本棚。
家族の本棚とは違う。そこには本を読む経験を分かち合う幸せがない。
ふいに僕の本棚が誰とも共有できない行き止まりの哀しい知識の詰め合わせに見えた。
テック特区に通うようになり、僕は少し変化した。本もそうだが、年齢が様々な取引先と一歩深く話すように心がけたら視野が広がった。
そこには違う世界線が広がっていた。
しかしテック特区には重大な問題がある。
(長居してしまうんだよな…)
考えた僕は、共同経営者である友人に談判して水曜日を休日にした。テック特区は土日祝日が定休日なのだ。
僕と友人はトレーラーハウスの設計・販売の会社を経営している。
顧客の希望に沿ったトレーラーハウスの設計は副社長である僕が担当し、内装外装と付帯するデッキや屋根のデザイン・営業を社長が担当している。
近年の需要増大に伴い、会社は成長して僕らは多忙極まりなかった。ひっきりなしに簡易店舗の見積依頼が来る。
どうせ休日出勤するのだから、水曜日を休みにしてもなんてことはない。僕と彼で始めた小さな会社なので融通が利く。
水曜日に入り浸るようになり、『テック特区』は僕にとってますます特別になっていった。
「最近の佐藤さん、生き生きしてますね。フリーズドライみたいだったのに、誰かお湯をかけてくれたんですか?」
取引先から帰社してすぐに、最古参の経理の女性に冗談を言われた。
僕らが会社を立ち上げてすぐに入社し、不安定で給料が払えない時も会社を支えて続けてくれた恩人だ。男性たちをざわつかせるとびきりのアラサー美人でもある。
(フリーズドライ…?)
「ええ、ちょっといい店を見つけたので通ってるんです」
「へえ、今度連れてって下さい。佐藤さんの好きな店って興味あります」
僕は彼女と『テック特区』にいるのを想像してみたが、うまくいかなかった。
「また機会があったら」
「お誘い待ってます」
にこりとして去る彼女の後姿を見ていたら、ふいにじっとしていられなくなった。
「悪い、早退する」
僕は社長に言った。
「わかった」
彼は即答した。
彼と起業して10年、僕は一度も遅刻や早退、欠勤をしていない。
会社より思い付きを優先させた自分に驚きながら外に出た。
いつの間にか空気が軽い。春が近いのだ。
その足で僕は一年前の春に別れた彼女の働く本屋に向かう。
彼女が以前のように水曜日が休みなら『テック特区』に誘おうと思った。
読書虫の彼女に「読書なんて意味ない。そんなに自分を賢く見せたいの?」と言って嫌われた。
僕は本に嫉妬していたのだが、彼女は「あなたは私を馬鹿にしてる」と言って出て行った。
その時僕は彼女に「馬鹿になんかしてない。ただ僕を見て欲しい」と言えなかった。
でも今なら言える。
「本に恋している君に恋した僕は、君を占領する本が嫌いだった。でも僕も進化して読書の良さがわかったんだ。あの時ひきとめなくてごめん」と。
『やっぱり馬鹿ね』と彼女は笑ってくれるだろうか。それとも新しい恋人がいると断られるかもしれない。
でも『テック特区』に一緒に行きたいのは君しかいない。
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