❖ 恋愛 ❖

見えない糸

 父が母の介護を始めて三年経った。

 仕事一筋だった父が、母の世話をしつつ、家事をこなしだしたのには、正直驚いた。

 しかし、今は元気でも、もう八十を超えている。母は小柄とはいえ、体力的な負担を考えて、私はひとつの提案をした。

「施設を探そう」

 俺は仕事が遠方のために一緒には住めない。母さんだけじゃない、父さんに何かあったら大変だ。だから、息子を安心させると思って……。

 ところが、父は激怒した。

「わしが母さんを看ると言ってるんだ。余計な口を出すな!」

 年なりに頑固なところが出てきたのだろうか。しかし、はいそうですかと引き下がれる問題ではない。俺は何とか説得して、週に何度か、介護ヘルパーに来てもらうことを納得させた。


 定期的に父に、そしてヘルパーさんに連絡を取る。父は少し穏やかになったようだ。やはり、プロのサポートがあるというのは、心理的なものの軽減にもなるのだろう。

 その礼を言いつつ近況を聞く。ヘルパーさんは笑いながら答えた。

「お父様、本当に奥様を愛しておられるんですね」

 今は満足に言葉も出ない母だが、父は若い頃の惚気話をしながら、母の頭を撫でるらしい。俺はそんな父を見た事がなかった。無口で、糞が付くほど真面目で、子供ながらに何を話せばいいか分からない、そんな人だった。

 子供である自分には見せない顔を、他人であるヘルパーさんには見せるのかと、複雑な気分ではあったが、父が変わった事は嬉しくもあった。


 ──そして、母は逝った。


 通夜の晩。

 棺の前で、俺と父は向かい合い、酒を酌み交わした。何杯か無言であおり、父はようやく口を開いた。

「母さんは、再婚だったんだ」

 知らなかった。驚きと同時に、なぜ急にそんな話を始めたのか不審に思った。父はそれを察して苦笑した。

「認めたくなかったんだ。母さんが心から愛していた、その人の存在を」


 ──戦時中。母は、愛する夫を戦地へと見送った。そして、それきり再会する事はなかった。

 周囲の強い勧めで再婚したものの、母は父に、決して心を開こうとはしなかった。

 新居に、かつての夫の物はひとつもなかった。それは父への最低限の敬意だろうが、唯一、箪笥の引き出しの奥に、赤紙に包まれた写真が一枚、そっと隠されていた。

 母は時折、真っ暗な部屋で写真を眺め、声を殺して泣いていた。

 父はそれを知っていた。許せなかった。嫉妬した。

 やがて、母は俺を身籠った。その期に、父はこっそり写真を捨てた。母は何も言わなかった。


「……だけど、そんなもので、母さんの思いを断ち切れる訳はなかった。母さんの中にはずっと、あの人がいた。

 死んだ人間に勝つなど、できる筈がない。俺が唯一やれるのは、仕事をして生活を豊かにして、あの人を忘れられるくらい幸せにすること。そう思った」

 だがそれは、余計に母を孤独にする結果となった。俺も覚えがある。時折、ぼんやりと窓の外を見ていた。その視線の先にこんな物語があったのは、今日、初めて知った。

「母さんには、謝りたい事だらけだ。わしが不甲斐なかったせいで、幸せにしてやれなかった。

 認知症になってからは、よくあの人の名前を呼んでな。わしの手を握って……」

 父は言葉を詰まらせた。

「せめて最期だけは、片時も離れるものか。あの人が迎えに来たら、わしの大事な妻を連れて行くなと、追い返してやるつもりだった」

 震える手が握るグラスに、俺は酒を注いだ。

「ありがとう、教えてくれて」

 俺は財布から、一枚の紙切れを取り出した。

「その写真って、これ?」

 父は目を見開いた。

「父さん、嘘が下手だな。捨てたんじゃなくて、隠したんだろ」

 幼い頃、父の書斎を探検するのが好きだった。本の山を探っている時にたまたま見つけて、子供心に宝物のような気がして、それからずっと持っていた。

「捨てられなかった。失くしてからは、捨てたと思うようにしていた」

 父はそっと写真に、皺だらけの手を置いた。

「ありがとう……ありがとう……」

 父は写真を棺に添えた。

「これで、一緒に行けるな」

 父の背中は、晴れ晴れとしていた。


 葬儀が終わり、途端に父は体調を崩した。

 休日には病院に見舞いがてら、母の遺品の整理に実家に寄る。

 几帳面に畳まれた衣類、使い込まれた化粧道具。箪笥を覗く度に、母の人柄を思い出す。

 そして、引き出しの奥に帳面を見付けた。ボロボロの表紙を開くと、母の字が書き連ねてある。日記帳のようだ。

 紙面に目を通す。そこには、父への感謝の言葉が綴られていた。

『こんなに優しい人は他にいない。なのに、あの人を忘れられずに心が痛む』

『ありがとう、ありがとう、私は幸せです』

 俺はすぐさま病院へ走った。意識が朦朧とした父に、一字一句、全てを読み聞かせた。


 ──そして、父の棺に、それを添えた。


「お義父さん、いい顔してたわね」

 妻がハンカチで目を拭う。

「ああ、天国で母さんに会えたんだろう」

 そして、あの人と酒でも飲んでいるに違いない。幸せに微笑む、母さんの横で。

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