ゆめが墜つ

花村渺

 妻ははこべらのたましいがじぶんのなかにあると言った。はこべらを燃やしたときの灰が目に入り、それによってはこべらはすっかり彼女と混ざってしまったとのことだった。それを聞いたとき、僕はいよいよ妻がおかしくなってしまったのだと思った。

 はこべらは僕たちの飼っていた白くうつくしい毛なみの猫で、つい先日病気で死んでしまった。こどものいない僕たちは彼女のことをほんとうにかわいがっていた。それだけに喪失のかなしみは深く、とくに妻はひどく落ち込み、ちいさな遺体を冷蔵庫に入れたびたび顔をながめていた。腐敗臭がとびらから漏れ出すようになっても業者への連絡を嫌がり、せめてじぶんたちの手で送りたいという願いのために実家の畑で火葬した。

 妻が言うには、そのとき舞いあがった灰のひとつぶが目に入り、彼女の精神をつくりかえてしまったとのことだった。僕は妻を病院に連れていくべきかとかんがえた。しかしそう思いこむことではこべらの死を受け入れようとしているのかもしれず、ひとまずようすを見ることにした。

 猫となった妻は仕事をやめ家事もせず、言葉にならない音を発し、四つ這いですごすようになった。床で食事をとりペットシーツで排泄した。服も着なくなり、どうにか着せてもすぐに脱いだり引き裂いたりしてしまうので僕もはやいうちにあきらめた。はこべらも服をきらう猫だった。はじめはさらけだされたやわらかな肢体にとまどったが、徐々になにも感じなくなった。

 はこべらのたましいをやどしたということばのとおり、妻のしぐさははこべらを想起させた。干したばかりの布団に鼻をすりつける、稼働している洗濯機をながめる、おなかがすくと僕の足首をなめる……。猫と人間ではからだのつくりが違うのでこまかい動きまでまったくおなじというわけにはいかなかったが、やがて妻のすがたにはこべらのすがたがかさなるようになった。とはいえ僕にわかるはこべらの癖はもちろん妻も把握していたはずで、彼女がそれを真似しているだけの可能性のほうが高かった。

 そのような生活をはじめてひと月が経った頃、妻は食事を残すようになった。猫の真似をしているとはいえ人間である妻にキャットフードを食べさせるわけにはいかないので、彼女には肉やくだものや、人間のたべもので猫が食べても問題のないものをあたえていた。それまでは人間のときとおなじくらいの量を食べていたが最近は三分の一ほど残し、その量は日ごと増えていった。しかし妻の体格は変わらず、週に一度計測している体重も大きな変化はなかった。

 この機会にくまなく診てもらおうと思ったが、人間か動物かどちらの病院にゆくべきか悩む僕のまえで当の妻があまりにすこやかにほほえむので、人間のときほど活動していないのだからすくないくらいがちょうどいいのかもしれないと思いなおした。

 次いで異常があらわれたのは排泄物だった。人間は猫より量が多いのでペットシーツの消費は比にならないほどはやかったが、ふと気がつくと交換する頻度が低くなっていた。その回数はうすれゆくはこべらの輪郭を鮮明にし、食べる量がどんどん減っていることもあり、妻はほんとうに猫に近づいているのかもしれないと思った。僕は猫であったはこべらと妻となったはこべらをくらべ、人間であったときの妻と猫であるときの妻をくらべた。どの彼女もたいせつでいとおしかった。

 ある日、妻がそれまでと違う声で鳴いた。雨に濡れた靴底が床に擦れるときのような、けれどもっとあまくせつない声だ。僕は妻がゴムのおもちゃで遊んでいるのだと思いそのままりんごを切っていた。猫は肉食ではこべらもほかのたべものより肉への食いつきが良かったが、最近の彼女はくだものにしか口をつけなかった。

 ちいさく切りわけたりんごをうつわに入れ、リビングのとびらをあけると妻はまだあの独特の声で鳴いていた。僕はそのときはじめてその音が彼女から発されていることを知った。どのように喉や舌を使えばそんな音が出るのかふしぎだった。

 うつわを床に置いたとたん、彼女はいきおいよく僕の手に噛みついた。それまで彼女が僕を噛んだことはなかった。おどろいて反射的に手を引いたが歯は離れず、それどころか食いこんだところから肉が裂けた。バランスを崩し背中から倒れ、そこへ覆いかぶさった彼女のひらかれた口が首に向かうのを察し、とっさに血まみれの手を噛ませた。防がれたことにいきどおったのか歯はいっそう強く突き刺さり、自由な両手は僕の首を絞めた。十のするどい爪がぶつぶつと皮膚を破った。必死にからだをよじり、自由になる左手で彼女の腕をひっぱったがびくともしなかった。このほそい腕のどこにそんな力が隠されていたのかわからなかった。

 どれだけ時間が経ったのか、視界が暗くなり全身の筋肉がゆるんだ頃、彼女はすべての攻撃をやめた。僕は咳きこみすこし吐いた。妻は僕の手の傷をなめ、首の傷をなめ、涙や唾液でぐちゃぐちゃになった僕の顔をなめた。かすんだ視界におさまる彼女はふだんと変わらず、真っ赤なくちびるで無邪気にほほえんだ。

 以降、あのふしぎな鳴き声は毎日少なくとも一回は発されるようになった。聞いてすぐ彼女のもとに向かわなければ歯や爪やしなやかな四肢に傷つけられた。そのルールは僕が仕事や買い物で留守にしているときにも適用され、長く放置してしまうぶんあたえられる罰も過激だった。どれだけ言い聞かせても理解してもらえず、しかたなく僕は仕事をやめ、自宅でできる仕事をさがしはじめた。買い物は鳴き声に応えたあと急いですませるようにしたが、帰宅すればまた鳴いていることもあった。彼女は僕がそばにいないときほど鳴いた。それでも罰を受ける回数はずっと少なくなった。

 妻は日に日にひとから離れ、半年後には水とひとかけのくだものしか口にしなくなっていた。排泄は週に三度しかせず、そうでないときは寝具の上でねむるかただ座っていた。もうずいぶん長いあいだ外に出ていないせいで肌は不安になるほど白く、皮膚のうすいところには青い血管が透けていた。

 僕は人間の暮らしというのものがよくわからなくなっていた。彼女を見ていると僕の生活はあまりにも無駄が多く、けがらわしいもののように感じた。僕もすこしずつ食事を減らし、食べるものも野菜やくだものを中心とした。僕はみすぼらしくなる一方だが、妻はいつまでもうつくしかった。

 いつも利用しているスーパーマーケットが前日の火事で営業しておらず、もうひとつ遠くの店へゆき帰ってくると、案の定妻はあの声で鳴いていた。食材を袋のまま冷蔵庫に入れ、僕はリビングへ向かった。

 愛らしく鳴く彼女に「ただいま」と声をかけ、寝具のまえに膝をつくと同時に衝撃が襲った。飛びかかった彼女は僕を押し倒し首を噛み肩をえぐった。僕は全身の力を抜きじぶんをささげた。抵抗すれば抵抗したことに対する罰が加わることを学んでいた。ふいに見える彼女の顔はおさない笑みにいろどられ、その口や爪が痛みをあたえているとはいまだ思えなかった。

 彼女のつむじをながめているうちに気をうしなってしまったらしく、足首のかすかな刺激でもやのようだった意識はしだいにかたちをとりもどした。僕ははこべらの空腹のサインを思い出した。はこべらのえさを準備しなければと思ったが、はこべらはもう死んだはずだった。

 きしむからだをどうにか起こすと彼女が僕の足首に顔をうずめていた。どうやらひっかき傷をなめているようだった。そのようすを見るともなく見ていると、気のせいかと思うような緩慢さで肉が盛り上がり皮膚が伸び、じわじわと傷がふさがっていった。はっとして首に手をやると歯型はなく、それどころか数日前の骨折もゆびのひきつりもなくなっていた。

 足首の傷が完全に癒えると、彼女はしばらく駄目押しのように舌を這わせたのち寝具の上へもどっていった。そしていつものあどけない笑みを浮かべ催促の鳴き声を発した。朝食の時間だった。

 たとえば買い物へゆくため玄関に鍵をかける一瞬、自室でねむりに落ちるまぎわ、じぶんはいったいなにを世話しているのだろうとかんがえる。彼女は水とくだものの蜜を吸い、僕に罰をあたえ、あとはずっとほほえんでいる。いつからか排泄はまったく行わなくなったのでペットシーツは捨ててしまった。一日中寝具の上に座し、ねむりもせず、ときおり僕の知るどんないきものとも異なる声で鳴く。それは僕を呼ぶもので、僕はその声に決してあらがうことができない。

 あまやかな鳴き声でめざめ、僕は彼女のもとへと向かう。闇に浸かる部屋のなかでカーテンからにじむ月あかりが彼女を浮かびあがらせている。その肢体は日射しのなかにあるときよりも白く、いっそうすきとおって見える。

 うすいくちびるがかすかにふるえ、あの声がこぼれ落ちる。僕はひざをつき、命じられるまま彼女の腿へ頭をのせる。するどい爪をそなえたゆびがそっと僕の頬をなでる。慈愛に満ちたまなざしがふりそそぎ、そのうつくしさのまえではなにもかもが色褪せ、ただ幸福で、今日もまたなにもわからないまま自我が融解する。



2022.5

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