無題

青豆

第1話

 もしも十九世紀の革命家なら救いもあるけれど、僕は大学三年生で、地下の薄汚れた書庫で埃かぶった本のページを捲っていた。もちろん、閉架の本を探すのを友人から引き受けたのは、他でもない僕で、文句は言えないのだけれど、それにしたって惨めな気持ちだった。古い本というのはどうしてこうも、死にかけの老人の肌みたく、乾いてパリパリなんだろう。おまけに臭いだって、インクが酸化しているからだろうか、最悪だった。僕は本が好きだけれど、こういうのは苦手だ。本って女の子と同じなのだ。僕は女の子が好きだが、歳を食ったのは好きじゃない。外したマスクの下にほうれい線を見るだけで、うんざりとしてしまう。もちろん、僕だって、そういうことをみだりに宣言したりはしない。でも内心の自由というか、少なくとも考えること自体は罪じゃないのだ。もちろん、今ここで内面を吐露していたら、そんな権利も意味ないわけだが。

 とにかく、目当ての本を見つけて書庫を出ると、もう十九時になっていた。こればかりは文句を言う権利があると思うけれど、僕はさらにこれから友人の家に、この本を届けなくてはならなかった。僕はスマホを取り出し、メッセージを入れた。「本を見つけたから、今からいくよ」、そして付け加えた。「飯奢りだからな」。この短い文書を書いている間に、僕は7回くらい惨めな気持ちになった。友人の、それも男の頼みなんて、きかなければ良かったのだ。女の頼みとは、見返りにセックス一回か、ラーメン一杯かの違いだが、それには大きな差がある。セックスは場合によって、ウン万になったりするが(もちろん無料の場合もあるから、随分ムラのある時価だ)、ラーメンにはそんなことあり得ない。そうなると、僕が引き受けるべきは、自然と女の子の頼みということになる。男ってみんなそうだ。

 地下鉄の改札を抜けて、エスカレーターの床を足で踏んだ。僕はエスカレーターが嫌いだ。下から上ならまだいいにしても、上から下へと自動的に運ばれるなんて、なんと皮肉じゃないか、と思う。つまり、そういうのが僕の自身のメタファーに感じてしまって、うんざりしてしまうのだ。馬鹿らしいって自分でも思うが、とにかくそれが僕だ。好きなものは両手の指に収まるが、嫌いなものは陰毛の数くらい多い。思い込みの激しさが、中学二年生のそれで止まっているのだ。かくして僕は、友達なんてまるでいない人間になってしまった。だから、同い年の男の頼みさえ断れないのだ。そう考えると、僕の心の内部で、ガラスの破片が触れ合うような、鋭く嫌な音がした。時々こういうことってある。

 地下鉄がホームにきて、扉が開き、何人かの乗客が降りた。僕と同じくらいの歳の男と肩がぶつかり、舌打ちをされた(なんだか水分を含んだ、ねちっこい音だった)。人に馬鹿にされるのは慣れっこだが、それでもなんだか嫌だなと感じた。きっともう夜だからだ。六時までだったら、僕だってすんなりと受け流せただろう。僕は思うのだけれど、六時と七時の間に、昼と夜はバトンタッチするのだ。

 こういう話を一度誰か(名前なんて覚えてないけど、それが女の子だったことだけは、何故か明確に覚えている)に話したのだけれど、彼女は鼻で笑ってから、「あなたってロマンチックなんだね」と言っただけだった。僕のたとえ話は絶妙に伝わらないということが、そこで悲しくも証明されたわけだが、僕としては今も、そのような考えを捨てきれていない。だって、図書館から出た時、バトンと手のひらが触れ合う、ぺちん、という音さえ聞こえたのだ。そういうアホみたいな音が僕の感覚には充ちているから、なんでもない時だってスラップスティック的に感じてしまって、笑ってしまう。そして気持ち悪がられるのだ。こういうのって、なんだか病気みたいだなと思う。

 しかしまあ、地下鉄は発進するわけで、僕はその瞬間の、グラっという揺らぎに倒れそうになった。僕は、どうやら地面に深く根差したような立ち方が出来ないらしい。いつも、発進の時にすっころびそうになるのだ。そしてその度に冷ややかな目を向けられて、扉は閉まったばかりだけど降りたいな、なんて思ったりする。うんざりしてしまう、全くの話。

「明日さー、一時間目から数学なの、ほんとに嫌だわ、むりー」

 向かいの女子高生(だと思うけど、もしかすると中学生かもしれない)が言った。嫌だわ、という言葉の響き自体は刺々しいのだけれど、そういったかったるさも、彼女たちの青春の一部なのだと言わんばかりに、顔は晴れやかに見える。僕も何年か前はああだったのだ、と思ったけれど、僕はそんなじゃなかったような気もする。ただ黙々と学校に行き、誰とも話さず、やることと言えば自慰行為程度の青春(?)くらいしか味わったことがない。

「で、その次は……あ、体育だ。うわー、マット運動だよ、嫌だな」と、もう一人が言った。

「ほんとに。跳び箱やって何になんだよって感じだよね」

「そんなこと言ったら、うちらなんも勉強しなくなるけど」

「確かに」

 きゃはは、と二人が笑った。跳び箱は僕も嫌いだったから、思わず頷きそうになり、寸前で戒めた。こういうなんでもない会話に耳を澄ませるのも、僕のささやかな趣味の一つだった。そして、なんだか自分まで会話に加わっている気になり、口角が上がったりして、女の子に「何こいつキモ!」と思われるのだから、僕のような人間は救われない、本当に。

 スマホを見ると、まだ友人はメッセージを読んでいなかった。そこで僕は、たまらなく惨めな気持ちになった。利用されるのはまだいいとして、メッセージまで無視されると、いよいよ僕はどこへいけばいいかわからなくなってしまった。場所ではなく、つまり精神的な行き場がわからなくなるのだ。遷ろう僕の魂は、迷いながら、苦しみながら、吊り輪の中を通り抜けたりして、居場所を求め続ける……こういう妄想を始めた時、きまって僕は酷く落ち込んでいるのだ。

 

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