「第8章 ありがとう」

「第8章 ありがとう」


 あの朝から、一ヶ月が経過した。


 抜け殻となった灰色の本は捨てずに今も本棚にしまっている。

 一度も手に取った事はなく、置いているだけだ。由香も美咲と同じように部屋の掃除をしてくれているので、ココにある事は知っているだろう。


 だけど何も言わないのは、自分を信頼しているからだ。

 なら、こちらも応えなくてはいけない。


 翌日からの朝は生まれ変わったような気分だった。


 灰色の本がなく、自分の判断で動く一日。何年振りだろうか。覚悟はしていたけど、何も分からない中で過ごしていたので、判断力が著しく低下していた。

 まるで地図がない状態で飛行機を操縦している気分だった。


 数日だったある日、大樹は服部係長に呼び出された。


「島津君、大丈夫か?」


 ミーティングスペースに大樹を呼び出した服部係長が開口一番にそう尋ねた。


「大丈夫とは仕事の件ですか?」


「うん。最近、君らしくないミスをしているから、何かあったのかと心配してね……。和田君と高木君からも報告を受けている」


 服部係長が言うように、仕事のミスは明らかに増えていた。至急案件に臨機応変に対応出来なくなっており、その穴埋めとして残業も増えた。

 進捗問い合わせのミスだって増えた。客先に打ち合わせの度に前回は悪かったと謝罪する日々だ。


 未来が分かっていないと、こうも大変なのか。


 ミスを重ねる日々で大樹は、そう痛感した。けれど、失敗の積み重ねを経験していく事で、ちょっとずつではあるが、ミスを減らそうと努力している。

 残業を増やして、時間を費やして、未来が分からないのなら、自分自身で予測しながら動き始めた。すぐに前と同じにはいかないが、出来る事を精一杯行っている。


 和田も高木もそんな大樹を心配して、服部係長に報告したのだろう。その気持ちは素直にありがたい。


「最近、プライベートが大きな変化があったので、それが仕事に影響してしまって、申し訳ありません。ですが、少しずつではありますが、持ち直そうとしています。本当に申し訳ありません」


「そうか。まあ、プライベートなら会社がどうこうする問題ではないけど、何か困った事があったら、いつでも相談してくれ」


「はい、ありがとうございます。失礼します」


 ミーティングスペースを出て席に座ると、不安そうな顔をした高木がこちらを見ている。流石に無視は出来ないので「何?」と聞いてみる。


「あ、すいません。服部係長に呼ばれていたので、大丈夫だったかなって」


「大した事じゃないよ。最近ミスが多いから。呼び出しって感じかな」


「あっ……、なるほど」


 高木は自分が服部係長に話したから、こうなったのが伝わったようだ。


「いや、別に高木君が気にする事じゃないから。ミスが増えたのは誰が見ても明らかだし、自分自身も自覚はある。ちょっとプライベートでゴタゴタがあってね。それが仕事に影響が出てるんだよ。申し訳ない」


「そうなんですか」


「そうそう。まあ、以前の流れを取り戻すまでは、もうちょっと時間がかかるかも知れないけど、それまでフォロー頼める?」


「はい。何でも言ってください」


 大樹の頼みに高木は素直に頷いた。


「悪いね。俺もなるべく気を付けるから」


 大樹は、仕事を少しずつ取り戻していた。

 プライベートな問題で仕事に支障が出ていると話したので、凄い怒られるかと思ったが、意外にもそうならなかった。これまでの信頼の貯金が活きているのだ。

 貯金がある内に少しでも頑張らなければ。


 生活面では、由香が全面的にサポートをしてくれている。灰色の本の事情を知っている分、彼女のサポートは完璧だった。


 夕食後、由香が洗い物をしながら声を上げる。


「お父さん。学校からの保険の書類に書いてくれた?」


「部屋に置いてくれてた紙は書いたよ。ほらっ」


 大樹は予め置かれていた必要事項を書いた紙を由香に渡す。


「よろしい。あと、明日の朝は可燃ゴミの日だから。朝、会社に行く前に部屋のゴミ箱を廊下に置いといて。寝る前にまとめて、玄関に置いておくから」


「了解」


 指示をくれる由香。書類もゴミの日も今まで灰色の本に書かれていた事で無意識に行っていた。それが無くなったので自然と頭から抜けてしまう。

 その事情を知ってくれている由香がサポートしていた。


 洗い物を終えた由香がエプロンを脱ぐ。リビングのソファで残った缶ビールを飲む大樹に話しかけた。


「お酒はそれで最後?」


「ああ。最後」


 大樹がそう言うと、由香は納得して頷く。


「私、部屋で勉強してるから。飲み終わったら、缶は水で洗ってから潰してね」


「はいはい」


「はいは、一回」


「はい」


「よろしい」


 バタンとリビングのドアが閉まり、由香が自分の部屋に入る。


 最近、言い方が美咲に似てきたな。

 そんな事を思いつつも、それは思うだけに留めておいた。


 ソファに座って残ったビールを飲みながら、テレビで流れるニュースに目を向けていた。今日一日のあらゆるニュースが流れて、最後は天気予報で終わる。


「明日の東京は午後から雲り、一部でにわか雨が降るでしょう。お出かけの際には、折り畳み傘を忘れずにお持ちください」


 若い女性アナウンサーが天気図を見ながら、そう説明する。こんな天気予報すらまともに見るようになったのは、つい最近だ。


「色々、変わっていくよな」


 酔った勢いで大樹は、そう呟いた。口から離れた言葉は空気に触れて霧散していく。缶ビールを飲み終わったので、由香に言われた通り洗い潰してからゴミ箱へ入れた。そして電気を消して、リビングを後にする。

 洗面所で歯ブラシを終えてから自室に戻り、MacBook Proの電源を入れた。


 ログインパスワードを入力して、ディスプレイからブラウザを立ち上げて、適当なサイトを巡回する。それも一時間ぐらいで飽きると、明日も仕事なのでそろそろ眠ろうかと考える。


 システムを終了して、画面が暗くなるのを確認すると、ワークチェアから立ち上がり、固まった体をほぐす。その際、ふっと本棚が目に入った。


 下段にはシングルモルトウイスキーが数本並んでいる。あの日以降、ウイスキー自体も飲まなくなっていた。結局、元からウイスキーが好きだったのではないのだ。

 いつまでもあっても飲まないし、処分を考えた方がいいかも知れない。


 まだビールのアルコールが若干残っている頭で、そんな事を考える。そして、視線は自然に灰色の本へと向かった。


 自然な動作で、スッと抜き取る。


 戻してからは一度も手にしていなかった灰色の本。正直、何度か抜こうとした事はある。だけど、その度に体にブレーキがかかっていた。


 それは動画で美咲が言った、ズルしてこっそり見るなら枕元に立ってやると言われたからだ(もっとも、本当に出てくれるなら、むしろ開きたいぐらい)


 だけど、一歩ずつ前進する毎に自信が付いて、大樹のブレーキが少しずつ弱くなり、今夜初めて手に取るところまで戻れた。


 もし、未来の事が再び書かれていたら?


 大樹の心に葛藤が生まれる。


 本の重さは何も変わらない。由香が切り取ったページは捨てたけど、この本の事だ。再生されている可能性もゼロではない。

 もしそうなら……。沢山の人にフォローされて、未来を知らない毎日を過ごしている。


 実際に読むまではしない。切り取られたページが再生されたか確認するだけ。


 大樹の心臓が熱くなる。この熱さは久しぶりで、由香の事故の時以来だった。


 当時の感覚を思い出して、大樹は一瞬息を止めた。そして、灰色の本を開く。


「……っはぁ!」


 止めていた息を吐いた。ほんの一瞬しか息は止めていなかったのに緊張のせいで頭がクラクラした。開いた灰色の本を確認すると、そこには何も書かれていなかった。ページは再生などしていなかったのだ。


 全部、自分の杞憂に過ぎなかった。一気に全身の力が抜ける。


 本当に未来は分からなくなったんだ。


 そう思いながらパラパラとページを捲っていると、ヒラリと間から一枚の紙が落ちた。何だ? 大樹は落ちた紙切れを拾う。


「ふっ、」

 

 それを手に取って見た途端、思わず笑顔が溢れた。落ちた紙切れにはこう書かれてあったのだ。




 “ズルなんてしてはいけません! お父さん、頑張れ! 由香より“




 由香の応援が書かれたメッセージ。これの方が本に書かれた未来より、よっぽど頑張れる。

 メッセージを再び、本に挟んだ。


「ありがとう」


 誰も聞いている部屋の中、感謝を告げて、大樹は灰色の本を閉じた。






 ホワイトハニーの未来へ(了)


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