「第5章 お願いしていい?」(6-2)

(6-2)


 病院までの最後の道のりを歩いている時、何度も胸が痛くなったが、それでも前を向いて一歩一歩を大切に歩いた。


 病院に到着し受付を済ませて、いつものように美咲のいる病室へ向かう。


「おはよう、美咲」


「あっ、おはよー大樹」


 美咲は今朝もMacBookで何やら作業をしており、大樹の方を見ずに挨拶を済ませた。近くにあった丸椅子に腰を下ろす。


「ふぅ」


 一息付いたらしい美咲がMacBookをパタンと閉じる。


「ごめんねー。ずっとパソコン触っちゃって」


「気にしないでいい。思う存分やればいいよ」


 今日で死んでしまう未来の美咲に止める事など出来るものか。すると、彼女はキョトンとした顔を見せた。


「変なの。いつもは体調は大丈夫か? とかあんまり無理はするなよ? とか言ってくるのに」


「今日は流石に止めないよ」


「ちぇ。止められるのをコッソリするのが好きだったのに」


 美咲が口を尖らせて文句を垂れる。


「おいおい。じゃあ程々に気を付けて」


「はーい」


 大樹の注意を受けた美咲が嬉しそうに返事をして再びMacBookを開く。

 やっているのは例の小説の執筆だろうか。気になった大樹は、丸椅子から立ち上がり、横から画面を覗き込もうとする。


 だが、彼女が画面に手を当てて、見えないようにした。


「覗かないでよ。スケベ」


「ごめんごめん。もう覗かないから」


 大樹は謝り、大人しく丸椅子に座り直す。


「例の小説の執筆?」


「うん。今、最高に筆が乗ってるとこ」


 パチパチとキーボードの打鍵音が病室に響く。美咲は大樹が来ると、いつもは手を止めてくれたけど今日は違う。


 美咲のかけがえのない時間を邪魔したくなくて、大樹は彼女が一生懸命にキーを叩く姿を傍で目に焼き付ける。


「うん」


 やがて、美咲が小さく頷いて手を止めた。


「良い感じ?」


「うん。結構、良いところまで来た」


 満足そうにこちらを向いて頷く美咲。彼女がこれ程小説を書くのが好きだと知っていたら、もっと早く環境を用意してあげるべきだった。

 最後の最後になって、後悔の念が生まれる。


「大樹、」


「ん?」


「大樹が考えてる事、当ててあげようか?」


 得意気に美咲がそう聞いてきた。胸を張ってそう話す彼女に、大樹は少し笑いながら、「当ててごらん?」と答える。


「もっと早く私にMacBookを買ってあげれば良かったと思ってる」


「当たり」


 当たった事を素直に認める。すると美咲は少し頬を赤くして「へへ」と声を漏らす。


「今日は一位だから何でも出来ちゃいそうな気がする」


「そりゃ良かった」


 大樹は煌びやかな美咲を嬉しく思った。最後の日に苦しまないでいてほしかった。


 それからいつもみたいに仕事や由香がもうすぐ期末テストだから、晩御飯がお弁当中心になる事といった、他愛の話で時間を埋めた。

 どんな話をしても明日が来る前提で二人は、精一杯未来を無視して話す。


 そして気付けば、大樹が出勤する時間がやってきた。


「あ、そろそろ行かないと」


「えー。行っちゃうの?」


 いつもなら行ってらっしゃいと言ってくれる美咲が引き留める。


「本当は、今日一日有休を取ろうと思ったんだけど、仕事的にそれが難しいんだ」


 灰色の本にも今日は出勤すると書かれていたが、本当の事を言うと休もうと思っていた。これ以上、悪くなる事なんてないんだから、休んだって良いじゃないかと思った。しかし、休んで修正された未来が他の誰かに迷惑をかけたとして、それを美咲が喜ぶかと考えた時、大樹は会社に行く事にした。


「そっか。寂しいけど頑張ってる大樹が好きだから。お仕事が大変なら頑張ってほしい」


「ありがとう。頑張るよ」


 大樹はそう言って、丸椅子から立ち上がろうとする。

 ところが丸椅子の引力が強くて上手く立ち上がれない。足に力を入れて腰を支えて、体を動かそうとしても、丸椅子の恐るべき引力に逆らえない。


 苦戦している大樹に美咲が口を開く。


「どしたの?」


「……椅子から立てない」


 誤魔化さずに正直に起こっている現象について説明する大樹。それを聞いて途端に美咲が嬉しそうな、何かを企んでいるような顔を見せる。


「そっか〜立てないのか。それならしょうがないなぁ」


「しょうがないな、実際」


 痺れや痛みは足にはない。それなのに本当に立てないのは、自分自身の心の問題なのだろう。大樹はそう分析する。


「頭では分かっていても体が拒否をしてるみたいだね」


「ああ。俺もそんな事を考えてた」


 見透かされてる。そんな事を思いつつ美咲に同意していると、彼女がふっと言葉を漏らす。


「……大樹がそんなんだと、こっちまで拒否し出したじゃん」


「何を言ってーー」


 るんだ? そう返そうと思った大樹の声が途中で止まる。美咲の顔を見ると、彼女が涙を流していた。


 美咲は病気になってから、涙を流した事は一度も無かった。元々、明るく強い彼女だったが、いつの間にかそれが当たり前になっていたし。大樹も受け入れていた。


 だけど、そんなのは大樹側の勝手な視点でしかない。彼の視線に美咲は照れながら、指で涙を拭う。


「もぉ〜、恥ずかしいなぁ〜。涙なんて出ないと思ってたのに。出るもんだ」


「そりゃ、そうだよな。当たり前だ」


「正直、実感が無くて。今日で死ぬって言われても……。だって、今私はこうして息をして大樹と話をしてる訳で。そりゃあ体は悪いけど、病気だって確実に快復に向かっていて、毎日話す伊東先生にも経過は良くなっているって言われて。それなのに……。それっ、なの、にっ……!」


 嗚咽を交えながら、美咲は必死で話す。大樹は丸椅子から弾かれるように立ち上がり、彼女を抱きしめた。


「分かってるからっ!」


「うんっ……!」


 抱きしめられた美咲は、点滴が繋がっていない方の手を大樹の背中に回す。


 二人はそれから無言のまま抱きしめ合った。仕事なんてどうでもいい。灰色の本なんてどうでもいい。今、美咲が死ななければ何でもいい。その強い感情が体中を駆け巡る。美咲の細い体でも密着すれば、ちゃんと鼓動を感じる。


 時間なんて無視して、しばらく抱きしめ合っていると、美咲が大樹の背中をトントンっと叩く。


「……会社、大丈夫?」


「大丈夫じゃない。でも行きたくない」


 大樹は美咲を抱きしめたまま感情を吐露する。

 すると、彼女がそっと彼から離れようとする。それが本当に最後のような気がして、余計に力を入れ、離れないようにする。


「どおどお」


 美咲が大樹の背中を叩いて宥めだす。それが急に面白く感じて吹き出してしまう。そのお陰で硬直していた力が解れてゆっくりと彼女から離れた。


「もぉ、力強いって」


「ごめんごめん。どうしてもたまらなくなって」


「ばか」


 大樹がストレートに言った言葉は美咲に思ったより刺さったらしく、彼女は顔を赤くしていた。


 そろそろ行かないと会社には遅刻してしまう。予想される仕事の忙しさを想像して自動で口が開いた。


「あ〜、面倒」


「何言ってんだ大樹。頑張れ、男ならしっかり稼いでこい」


「はーい」


 体が自由に動くようになった大樹は立ち上がり、その場で背伸び。体をこの後の仕事に切り替える。すると美咲が「よしよし。頑張って仕事に行く大樹にご褒美をあげましょう」と言った。


「何をくれるんですかー?」


 少しズレたネクタイを直しながら、尋ねると美咲は両手を広げて目を閉じた。


「チューしてあげましょう」


「えー」


 付き合っている時もした事ないような甘え方をする美咲。そんな彼女に戸惑いつつも大樹は広げたその輪に入り、彼女の口に自分の口を重ねた。数秒間、唇を合わせてから、彼はゆっくりと離す。


「よし。これで頑張れるだろう。頑張れ」


 唇を離した美咲が満足そうに大樹の肩をポンポンと叩く。大樹は軽く笑って「ああ」と頷いた。


 大樹は病室を出て、そのまま仕事に向かう。出る時に彼女はずっと手を振っていた。


 それが生きている美咲を見た最後だった。

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