「第5章 お願いしていい?」(5)

(5)


 翌日の日曜日。大樹は由香と二人で朝から美咲のお見舞いに行く事にした。


 土曜の夕食時に、二人でお見舞いに行こうと由香を誘った。家事があるから、午後に一人で行くと由香は最初断ったが、家事は帰ってから二人でやれば良いから今日は行こうと少し強く言って、嫌がる彼女と二人で行った。


 朝から地下鉄に乗り病院へと向かう。日曜の朝という事で人は少なく、すんなりとシートに座れた。彼女は座るなりiPhoneを触っている。大樹はトートバッグから読みかけの文庫本を取り出した。


 文庫本を開く前、ふと大樹は薮川に言われた事を思い出す。


 ――娘はどうするんだ? 二十歳になったココに連れてくるのか?


 その答えは今も分からないままだが、もし由香をホワイトハニーに連れていくとしたら、行く時はこんな感じなのだろう。

 実現不確定な未来の輪郭をぼんやりと考えた後、大樹は文庫本を開いた。


 病院のある駅に到着して、二人で駅を降りる。駅前のロータリーから病院行きのバスに乗った。ココも平日と違って人は少ない。


 美咲の病室に入ると、彼女は今日も起きてMacBookで作業をしていた。


「お母さ〜ん。おはよ〜」


 由香が元気良く彼女に向かう。美咲はMacBookをパタンと閉めて「おはよう、由香」と笑顔で彼女の頭を撫でた。


「おはよう。美咲」


「うん。おはよう、大樹」


「体調は大丈夫なのか?」


 ベッドの横に置かれている丸椅子の一つに座る。


「ええ、大丈夫。おかげで執筆が捗る捗る」


 MacBookの表面を美咲が撫でる。由香も空いている丸椅子に腰を下ろした。


「お母さんが教えてくれた肉じゃが上手に出来たよ。ねえ、お父さん?」


「ああ。あれは美味しかった」


「やったじゃない由香。お父さんに褒められたのなら、もう免許皆伝だ」


 由香は美咲に褒められて「えへへ」と笑顔になる。美咲と由香の笑顔は、とても似ていた。


「でも何で、二人してお見舞いに来てくれたの? いつもは一人ずつなのに」


「お父さんがね、今日は二人で行こうって、しつこく誘ってきたの。いつもはお母さんが疲れるから一人ずつでって言うのに」


 大樹の代わりに由香が経緯を説明する。その説明を聞いて、美咲はじっと彼を見た。思わず目を逸らしそうになるが、逃げずに見返す。


「そうなんだ。ありがとう大樹」


「いや、どういたしまして」


 美咲が死んでしまう前に家族揃って楽しく話がしたかった。だがそんな事を由香の前で言ってはいけない。美咲も理解しているようだった。


 家族三人が一つの部屋に集まったのは、本当に久しぶりだった。大樹と由香は、病院ロビーにあるスターバックスで購入したコーヒーを飲み、美咲は常温水を飲んだ。本当は彼女もフラペチーノが飲みたいと言っていたが、体の事を考えて飲めなかった。


 部屋にあるテレビを流しながら、家族で話をする。場所こそ病室だが雰囲気は家の中と変わらなかった。


「ちょっとトイレ」


 大樹はそう言って部屋から出る。すっかり場所を覚えたトイレから出て、再び病室に戻ると、美咲はMacBookを開き、由香が覗き込んでいた。


「おいおい。二人して何見てたんだ?」


 そう言って、大樹がドアを開けると、美咲はパタンとMacBookを閉じる。


「お父さんには秘密ぅ〜」


 覗き込んでいた由香が得意気な顔でそう話す。その顔が何だか面白くて大樹もつい、笑ってしまう。


「何だよ〜。それ」


「お母さんが教えていいって言うなら教えてあげる」


 由香が美咲に話を振る。

 話を振られた美咲は「そうだねぇ」と腕を組み、思案している風を装う。


「大樹には教えてあげない。女同士の秘密だから」


「はいはい。分かりました」


 観念したように両手を上げて、丸椅子に再び腰を落とす。自分が来た事で何かの邪魔をしてしまったかと心配していたが、二人の様子を見るに問題なさそうだ。


 それから家族で他愛のない話を繰り返した。主に大樹と美咲が聞き役に回って、由香が話役だった。学校の事、家事の事。二人に向かって話し続ける彼女は、次第に疲れたのか。

 テレビを観ていた時にコクリコクリと船を漕ぎ、次第には寝息を立てて眠ってしまった。丸椅子のままだと危ないので、大樹がソッと彼女を持ち上げて、美咲のベッド近くのソファに寝かせる。


「寝ちゃった。いっぱい話してくれたから、疲れたんだね」


「家事も頑張ってくれてるからな。いつもより早起きしてるし、眠たくなったんだろう」


 そう言って二人して由香の寝顔を見つめる。


「あっ、そうだ。大樹。由香だけに家事をやらせないでちゃんと分担してよ?」


「分かってるよ。俺も何度も手伝うって言ったんだけど、覚えたいからって台所に入らせてくれないんだ。由香が寝た夜中にこっそり掃除してるよ」


「そうなの? それなら良かった」


 大樹の話を聞いて納得する美咲。そして、僅かな間を置いてから再び口を開く。


「大樹、今日は由香と来てくれてありがとうね」


「どうした? あらたまって」


「だって、私が明日、死んじゃうから悔いのないように二人で来てくれたんでしょう?」


 首を傾げてそう聞いてくる美咲。確かに彼女の言う通りだが、何もそれだけが理由ではない。


「それだけじゃない。単純に寂しかったから」


「寂しかった? 私が家にいないのが?」


 美咲の質問に大樹は首を振って否定する。


「美咲だからじゃなくて、三人で同じ場所にいない事が。本当はもっと早くに二人でくれば良かった。今日、この病室で他愛のない話をしているのがとっても楽しかった。まるでーー」


 まるで美咲が病気になる前の時みたい。そう言いかけて大樹は口を止める。話してる途中で急に黙ってしまったので、美咲は顔に疑問を浮かべていた。


「まるで?」


「まるで、家にいる時みたいだった」


 少し言葉を薄めて大樹はそう返した。その気持ちに嘘はない。彼がそう話すと、美咲はクスっと笑う。


「そうだね。私も二人が来てくれて本当に楽しかった」


「美咲……」


「なに?」


「本当にごめん」


「もぉー、またそれ?」


 大樹が謝ると美咲はそう言って、頬を膨らませる。


「お願い聞いてくれるんだから、別に謝らなくていいって。他ならぬ本人が言ってるんだからさ」


「……あっ、うん」


 本人が謝らなくていいと言ってもどうしても謝ってしまう。そんな彼の手を美咲が握った。


「大丈夫。私は大丈夫だから」


「うん、うん」


 美咲と自分を納得させる為に大樹は二回頷く。しかし、その頷きは彼女を心配させるだけだった。


「私からしたら、大樹の方が心配なんですけど大丈夫? これから」


「分からない。もしかしたら一生大丈夫にならないのかも知れない」


 美咲のいない生活なんて大樹には欠片も想像出来ない。確実に訪れる未来なのに、知らないフリをし続けている。


「ちゃんと約束覚えてる?」


「もちろん。一生忘れないよ」


 美咲との約束。由香の事をお願いされている。元々、彼女の事はこれからの人生でも親として、責任を持って育てるつもりでいた。


 しかし、美咲との約束で彼女の想いも込めて育ててみせる。そう新しい決意が生まれていた。


「良かった。それなら安心だ」


 美咲はそう言って微笑む。陽の光に照らされた彼女の笑顔は、とても綺麗でこの笑顔を大樹はいつまでも覚えているだろうなと思った。

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