第一章③
うどん屋が教えてくれたのは、両国橋を渡った先にある
なかば傾きかけた
(こんな寂れた長屋に善太郎が……?)
部屋のそばにある
だが、
「たのもーう!」
声を張りあげる。返事はなかった。しかたなく入り口の腰高障子を引くと、思いがけず勢いがついた。ガコッという音とともに障子が溝から外れ、
「いかん、力加減がよくわからんぞ……」
薄暗い室内では、善太郎があぐらをかいた姿勢のまま凍りついていた。「なっ」と我にかえり、手のひらに載せていた小さな
「なんだ、なぜ先ほどの娘がここに……それより、なぜ戸を壊した!?」
「ゆるせ、壊すつもりはなかった」
菊乃は障子をひょいと持ちあげ、溝にはめる。
「なんの用かも、どこで俺の幼名を知ったかも知らんが、さっさと去れ!」
幼名。やはり善太郎でまちがいないのだ。元服し、どのような名をもらったのかはわからないが、まぎれもなく本人。──なんという、体たらく!
「これはいったいどういうことか。おぬしの父は、おぬしがこのようなところにいることをゆるしはしないはず」
「俺の父がなんだと言うのだ。おのれまさか、まだ俺の母などと言うのではあるまいな」
「母だっ」
善太郎は土間に下りてきて、菊乃の
「どうしたわけで、そんな馬鹿げたことを言っているかは知らぬが。いいか、俺に母はいない。俺は木の
「母はいない? 木の股? なにを言っているのだ、善太郎」
「気に食わないか。なら、これならどうだ。──母は卑しい畜生だ。畜生の子たる俺もまた畜生だ! わかったら消えろ!」
ぴしゃりと鼻先で障子が閉じられ、菊乃はただ
裏長屋をあとにした菊乃は、
(卑しい畜生とはずいぶんひどい……)
じわりと涙がにじみ、驚く。頰をぺちっと叩くが、涙は引っこむどころか、よけいに盛りあがって垂れてくる。どうやら
(母はいないなどと。私とともにすごした日々は思い出にすらなっていないのか)
まるで菊乃の生きた年月を、まるきりなかったことにされてしまったようだ。
「う……、ひぅ……ぐふっ」
二
生まれは、江戸城の北、
第四代
父の働きぶりは上の覚えもめでたく、暮らしは豊かだった。葛川家にとっての唯一の悩みは、母が嫁いで八年、いまだ
「側室は持ちとうない」は父の口癖だった。それほど母に
「このまま男が生まれなければ、菊乃がわしの跡継ぎだ」
それが、そもそもの始まり。
菊乃にほどこされるようになった「嫡子教育」は、父としては口やかましい周囲に対する憂さ晴らしのようなものだったのだろう。だが、母が病をわずらい、他界すると、押しよせる現実から逃れるように、ますます菊乃の教育に力を入れていった。
幸か不幸か、菊乃にとって男としてふるまうことには違和感がなかった。むしろ、しっくりきた。琴を習うのではなく、師について武芸や
十四歳を迎えた年、第五代征夷大将軍に徳川綱吉がつき、徳川家の治世はいよいよ盤石となった。一方、戦乱の世には勇猛さを求められた武士は、剣を握る意義を見失っていった。町では浪人による
そして、菊乃が十七歳となったとき、その騒動は起きた。
その日も、菊乃は兄弟子たちとともに、自警団として町を練り歩いていた。
年の近い兄弟子たちが近頃好む話題はといえば、嫁取りについてだ。中には婚姻の決まった者もいて、菊乃に対しても「男姫の嫁入りはいつだ」、「男勝りの菊乃が嫁入りというのは想像がつかん」と親しみのこもったからかいを向けてきた。
そのたびに、菊乃は苦笑するとともに、深い困惑を覚えた。
父が後添えを迎えたのは、四年前のことだ。妻を亡くした悲しみも
もちろん不満はなかった。さすがに十七にもなって、自分が本当に嫡子になれるとは思っていなかった。
ただ、すこし困っていた。父に言われるまま男のように生きてきてしまったが、これから先、自分はどんな立ち居ふるまいで歩んでいけばいいのだろう。
武家に生まれた女の行く末はただひとつ。親が決めた相手──同格の家に嫁入りすること。男姫などと呼ばれる「悪評」はあっても、菊乃は直参旗本の姫だ。持ちこまれる縁談は多い。十七歳ともなれば、いつなんどき家を出されてもおかしくはなかった。
けれどそれを思うと、どうにも気持ちが沈む。
嫁いでしまえば、もう男のなりはできない。剣術もたしなむ程度ならゆるされるかもしれないが、悪漢退治などもってのほかだろう。
(私は、どこかおかしいのだろうか)
べつに男になりたいわけではない。男に生まれていたら楽だったろうにとは思うが、女のこの身に不満があるわけでもない。
ただ、なにかちがうと思うのだ。
(私はどうやって生きていきたいのだろう)
そのときだった。悲鳴が聞こえた。ずっと先の掘割端で、
「不届き者め」
菊乃は走りだした。兄弟子たちもともに駆けだす。娘を抱えあげた男がこちらを振りかえった。その顔に見覚えがあろうはずもなく、菊乃は袋竹刀を振りあげ、叫んだ。
「菊乃、参る!」
「あなたに縁談を用意しました」
それからしばらくして、菊乃に冷たく告げたのは父の後妻、菊乃の義母だった。
あの日、町娘に
「夫となるのは、宇佐見家の嫡男、
義母の厳しい態度を前に、菊乃は見開いた目を観念して閉じ、両手をついて平伏した。
「承知つかまつりました」
婚礼は半年後となった。義母の花嫁修業は実に熱心で、ありがたく思うと同時に、自分がどれほど「女」から外れた存在かを痛感させられた。久しぶりにまとった女物の
なぜだろう。女に生まれながら、どうして女として生きることがこれほど苦しいのか。消しても消しても浮かんでくる思いが爆発したのは、よりにもよって婚姻の夜だった。
宇佐見家嫡男、兼嗣。兼嗣にとっても「男姫」との婚姻は本意ではなかったのか、その鬼神のような
覚悟を決めろ、と菊乃は己に命じた。この男の妻として立派につとめを果たすのだ。与えられた命運を生ききってこその真の強さではないか──。
だが、兼嗣が菊乃の肩に手をかけたその瞬間、猛烈な拒絶感が全身を貫いた。そして、気づいたときには兼嗣を全力で突きとばしていた。
途方もない失態だった。即刻、離縁されてもしかたのない所業だ。
当然、兼嗣は烈火のごとく怒った。その後どれほど
だが、意外なことに離縁を告げることもまたなかった。
あとで知ったことだ。宇佐見家は祖父の代の道楽が
以来、夫婦仲は最悪なものとなった。兼嗣はあからさまに菊乃を軽んじた。武家の妻の役目は
子が生まれれば、すこしは立場もよくなっただろう。だが、三年たっても子はできず、さらにその頃から体調を崩しがちになり、奉公人の目はいよいよ厳しいものとなっていった。
そこに変化が現れたのは、宇佐見家に嫁いで六年目となったある日のこと。
赤子が、菊乃のもとにやってきた。
宇佐見家待望の嫡子──善太郎である。
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