第6話 追憶
「日本一周をヒッチハイクでしたことありますか?」
と聞いて「はい」と答えられる人は殆んどいないだろう。
私は「はい」と答える。
前置きとして、このヒッチハイクの旅は褒められたものではない。
ただし、経験としては非常に大きなものを得た手応えはある。
それをしようと思ったのは、死のうと決めた時だった。
望まぬ離婚を経験し最愛の息子と離れ、何か人生の絶望とドン底に突き落とされたような気持ちになっていた。
私は地元に戻るも実家には帰らず、1ヶ月ほど姉のアパートに仮住まいしていたが、ご飯も殆んど食べず、布団から一切出ずに廃人のようになっていた。
姉の紹介で、神戸の中心地にある高級な居酒屋で働くことになった。元フランス料理の調理師であることが採用されるきっかけとなったようだ。
しかしここが妙な組織だった。
『接客の極意はどんな人が来ても満足させられる手腕が必要である』と、どういうわけか風俗店へ連れていかれた。
誓って私はこの時まで、純粋な人間であったと言いたい。
私は見ず知らずの女性を抱くこととなった。
悪夢のような詳細は割愛させていただきたい。
この日を境に、心の中で何かが壊れた。
気付いた時には手元に500円玉一枚だけ握りしめ、地元からその姿を消した。
運とは何か。
結果的に天寿を全うできるかどうかではないだろうか。
私は自分の運が尽きるまで、このクソッタレな命を使いきってやろうと決めた。
食べ物も飲み物もなく、どこかの雑木林の中で野垂れ死ぬ。そんな未来を想像していた。
何も恐れず流れに身を任せ『最期の旅』を続ける。
終着するその地まで私は様々なプロフィールを20以上使い分け、どういうわけか全てが上手くいった。
『ヒッチハイクで日本一周している学生』などと当たり前のように嘘をつき、人様の温情を喰らい尽くして次々と車を乗り換えた。
自分を証明するものを一切持っておらず、当然携帯電話などもない。
500円だった所持金は数千円になり、犯罪に手を染めて数十万に膨れ上がり、ますます調子に乗って北海道から鹿児島へ到着した。
私はふらふらと歩いて本屋のような場所に辿り着いた。
中へ入ると受付に女性が一人。
適当に中を歩いていると、ふとある本棚の前で立ち止まった。
【罪と罰】
私はそのタイトルを凝視して、そしてその分厚い本を手に取った。
そうしたら、受付の女性が声をかけてきた。
おそらく人生にはいくつもの分岐点がある。
自分が選択したその結果、とある可能性の未来が消え、あるはずのない未来が構築される。
度々、そういったことを肌で感じる時がある。
いずれも『全てを賭けた』時に起こる。
余力を残して決断したことに、新しい未来は拓かれない。
私は【罪と罰】を手に取ったことで、キリスト教会の牧師家族と3ヶ月、共同生活をすることとなった。
初日には近くのお祭りに行き、日曜日には礼拝にも参列した。真夜中には教会のピアノを弾いて、日本最古のパイプオルガン演奏も聴いた。
日中には聖書を読み、夕方にはバイトを斡旋してもらった。
そうして月日は経ち、別れの朝がきた。
私は黙って鹿児島から沖縄への旅客船へ乗った。
途中、与論島に寄った。
別れの前夜、あの本屋の女性から新品の聖書を渡された。中には電話番号の書かれたメモが挟んであった。
私は島の公衆電話から女性に電話をかけ、約一年の旅について、ありのままを大泣きしながら話した。
女性は「あなたが『あの本』を手に取った時から、贖罪を胸に秘めていることはわかっていました」と言われた。そして「大丈夫です、あなたには(キリスト教とは関係なく)神の加護がありますよ」と言った。
この3ヶ月間、私は一度たりとも勧誘されたことはない。
この本屋の女性に関しては「いまのキリスト教会に神はいません」と、なかなかクレイジーな発言をする人だった。
それだけにこの女性の「神の加護」という言葉はとても重かった。
私は今現在においても卑屈で、自身を過小評価する傾向にある。
心のどこかで「自分には人並みの幸せを願う資格はない」と思っている。
一方でこんなエッセイ擬きを書き連ね、なかなかなご高説をのたまう側面もあり、何がしたいのかわからなくなってしまうことも多い。
私は「死なないから大丈夫」
という言葉をよく使う。
この基準は「実際に命をかけたことがあるかどうか」で決まる。当然余力など一切ない状態から起死回生をした経験がその言葉を発するに至るのだが、私からすると、余力も逃げ道もあるのに危機迫った表情をされるとどうにも腑に落ちない。
私はいつでも全てを賭ける覚悟はできている。
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