百者語
白原 糸
一人目 神様
「信心しているものの正体を知らぬまま祈るのはおやめなさい」
それは曾祖父が自分に繰り返し言っていたことだった。曾祖父は今、地図に名の記載されていない村の生まれで、戦争で出征したのを最後に村に一度も帰ることはなかったのだそうだ。その理由を家族のだれもが知らない。知っているのは私だけだった。
一年に一度だけ、曾祖父の家に帰る。その時、私は朝早く起きて縁側に座る。それは私が八つになった頃から曾祖父が亡くなるまでの十八年間、続いた。
私が八つになった頃、曾祖父は縁側に座った私を見て、穏やかに微笑んだ。
「ようやく神様の手から離れたか」
その時、私にはそれが何のことか分からなかった。しかし曾祖父は不思議そうな表情を浮かべる私を前にゆっくりと語り出した。
「私の生まれた村は、山の神様を信仰していた。産土神様。そう。その時はね、そう思っていた。ここではね、山の神様としておきましょう。皆、朝から晩まで神様を信仰していた。いついかなる時も祈っていた。神様の為に。私はその神様がなんなのか知りたくて、母に聞いた。でもね、母は困った顔をした。
神様ってのはね、神様なんだから、正体もなにもないでしょう。
でもね、私は神様を知りたかった。どのような姿をして、どのようないわれがあって、どのような恵みを与えてくれる神様なのか。
だけど、母は教えてくれなかった。だから、他の人に聞いた。でも、他の人も同じ答えだった。
神様は神様だと――詳しいことを知っている人はいなかった。私はそれが恐ろしくてたまらなくてね、それから祈らなくなった。そんな私を母は悲しみ、村の人はけなした。
村八分っていうのかねえ。私に話しかける人はいなくなってしまった。だけどね、私はそれでもその村の神様の為に祈ろうとは思えなかった。なんせ、正体の分からない神様だったからね。祈るのをやめてしまったのさ」
曾祖父はふう、と息を吐いた。
「祈るのをやめたからといって、何か変わった訳じゃない。いつもと変わらず私に何の変化もないし、なにか特別なことが起きたりもしなかった。ただ、私に話しかける大人がいなくなっただけ。そうして戦争が始まった。
でも、不思議なことに食べ物に困った記憶はない。そもそもがね、貧しい村だったから、食べ物がないのが当たり前の村だった。なんせ作物を作っても痩せた土地だ。必要以上の実りがない。それなのに毎日、朝晩と神様に食べ物をやってしまうんだから、余計に食べるものがなかった。それだけだったんだよ。
だから戦争が始まっても、ひもじいことに変わりはなく、配給が入ったことで食べるものがほんの少し増えたのさ。まあ、神様にあげてしまうから、ほんの少しだけ口に入るだけだ。
そんなことが二年続いて、村に男が少なくなった頃、私もとうとう、出征することになった。村から三人、私と同じ年の男が出征した。その時だけだね。村の人が喜んでくれたのは。私も嬉しくてね、あの村で良い思い出が、私が出征する前日の祝いだった。その時は腹いっぱい食べることが出来た。
次の日、私以外の男二人は村の神様に祈りに行った。私は祈らないことを分かっていたから誘われなかった。
でもあの時、祈ろうと思った。もし、誘われていたら祈っただろうね。もう帰れないかもしれないと思っていたから、せめてもの情けというのだろうか。
結局、私は祈ることなく、村を出た。
……その後のことはね、あまり覚えていない。悲惨な戦争だったからね。戦争……いや、あれは戦争なのかね。うん。でも、戦争だ。はは……何をしているのかも分からないまま、前に前に進むんだ。もうね、酷いものだよ。風呂にも入れないし、炎天下だから、そりゃあもう悪臭さ。今も昔もね、あんな悪臭を上回る臭いを、嗅いだことはないよ。ああ、ごめん。ごめん。食事前に悪かったね。
でね、結局、日本は負けた。負けたんだ。……私はね、日本に帰れたけどね、村の男達ははね、一人も帰れなかったんだ。
なんでって? はは。……帰れる訳が、なかったんだよ。私はね、遺骨を頼まれたんだけどね、申し訳ないけど、持って帰らなかった。遺骨はちゃんと、丁重にとあるお寺さんにお願いして、供養してもらったんだ。
その時ねえ、住職にね、青ざめた顔で言われたんだ。人間の顔があんなに青ざめると思わなかったから、覚えているんだよ。
――あなた、故郷に絶対に戻らない方が良い。
言われなくても、戻らないつもりだったから、そう伝えたんだ。そうしたらその人、安堵してね、実は報告だけでもしようと手紙は用意していたんだけど、手紙も燃やしたんだ。
まあ、ねえ。彼らが死んだ時のことをね、聞いたら、村に持って帰ろうと思わなかったんだ。村に帰ったら私はきっと、殺されるだろうから。神様に? 違うよ。村に残った人間たちに殺されるから、かな。
可哀想になあ……。戦争で死んだ方がマシだったかもしれないよ。
彼らはね、戦争で死ななかった。どうして死んだのかって? そうだね……。食事前に言うことじゃあないからね。ただね、彼らは戦争がなければ、あの村で生きられたかもしれない。
私は、祈らなかったから今日まで生きられて、お前みたいな優しいひ孫に恵まれたんだよ。ああ、幸せだなあ」
曾祖父との話は私が十八になるまで続いた。
曾祖父は最後までしっかりとしていて、苦しまずに逝ったそうだ。幸せな一生だったと、祖父に残して眠るように死んだそうだ。
私はたまに曾祖父の話を思い出す。
曾祖父は結局、肝心の所は話さなかった。知らない方が良いと言われたからだ。
――神様に祈るなら、何の神様か、ちゃんと理解しなさいね。
曾祖父に言われた言葉は今も私の中にある。だから、大学に入った時、どきり、とさせられた出来事がある。
「ねえ。君、サークルに入らない?」
声をかけられた私は、何のサークルだろうと話を聞いてみた。民俗学研究室で、あちこち地方に赴いては話を集めているのだそうだ。
彼らのサークルの看板を見ると、夏休みは聞いたことのない村で勉強会をするらしい。どうやらとある産土神様を信仰しているようで、如何に素晴らしいかを語っていた。
曾祖父に何度も繰り返し言われた私は何の神様かを聞いたが、彼らは答えなかった。
「神様ってのはね、神様なんだから、正体もなにもないでしょう」
そう言って彼らは微笑んだ。
私は背中が粟立つのを感じながらも、やんわりと断った。どうして、彼らは、正体不明の神様に対して、祈れるのだろう。不思議に思いながらも口に出すことはしなかった。
大学に入って一年後、そのサークルは姿を見なくなった。噂によれば、彼らは卒業旅行で外国に行き、旅行先で謎の変死を遂げたという。
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