【ホラー】求明会話(ぐめいかいわ)

バークシー

本文

    0

 あることないことカタコトママごとごと色事いろごとさらもの



    1

 平凡な小学生を三年間惰性だせいで続けているまさにその絶賛真っ最中な衣子無いみなし 平太へいたという個体名を持つ昭和六十一年生まれの僕ではあるけれど、周りのクラスメイトという、入学した時期が同じというただそれだけの理由で一緒にいるこの上なく無益な関係の連中が総じて夢中になっているオカルト……いわゆる幽霊とか怪談などといったものには全く全然つゆほども興味がない。

 とは言っても、僕がいくら興味がなくとも、関心を示さなくとも、四六時中そんな話が教室で飛び交っているのを聞いていたら僕の脳内領域を我が物顔で無駄に占拠する迷惑以外の何物でもない情報の一つや二つや三つや四つは嫌でも生じてしまうわけで。

 例えばその中の一つに《かたかげ》という都市伝説がある。

 僕の伝え聞くところによると、僕の及び聞くところによると、それは黄昏時に現れるらしい。全てが赤く染まった夕暮れの世界の中、背後から誰かの呼ぶ声がする。返事をして振り向くと、そこには異様に長く伸びた自分の影が、ケタケタと不気味に笑いながら手を伸ばしてきて、そのまま腕を掴まれ影の中に引きずり込まれてしまうんだとか。

 語り影に狙われる条件にはいくつか細かい点があり、さらわれるのは決まって小学生のみ、それも直近で家族と喧嘩けんかをして精神的に不安定になっている子供が狙われる。そして追い打ちとばかり、語り影は一ヶ月以内に、連れ去られた子供が家族以外で一番大事に思っている子供の前にも現れ、そいつを一緒に闇の世界へ引き入れる。

 被害者が被害者を呼ぶシステム。

 ちなみに、犠牲を一人で済ます方法もある。二人目に選ばれるのは、最初の犠牲者の大事な存在。もう少し詳しく言うと、お互い好意を持っている仲良しこよしの相手である必要がある。つまり、同性だったら親友、異性だったら両思いの相手ということになり、要するにその当人に親友も両思いの相手もいなかったら、自らの犠牲のみで事は終了する。

 孤独による救命。

 孤高による延命。

 これは人と関わらないことが、言わば人と助け合わないことが人命を救うという皮肉な結果を僕達に突きつけている。

 別に僕は孤独でもいいと思うけれど、社会は無駄に群れることを強要してくるから、やっぱりそれは皮肉な結果と言えるんだろう。

 まあそれは置いておき。

 この話が現実味を帯びているのは、実際にいなくなった人間が身近にいるからだ。少なくともこの都市伝説を語っているやからはそれを根拠に本気で信じているようだった。

 例えば隣のクラスの田飯丹ためしに 信花しのかという女子。僕は話したことはないけれど、彼女は数ヶ月前に突然行方不明になった。他にも別の学年で別のクラスで、あいつがいなくなった、こいつが消息不明になったという話はチラホラと出ている。そっちについては確認しに行ったわけじゃないから、真偽の程は不明だけれど。

 以上が語り影の概要、そのロジック。

 この話を聞いて僕が思うことはただ一つ。

 くだらない。

 実にくだらない、実にみのりない、実に無駄でしかない、ただの噂。

 噂は噂でしかなく、噂以上であるはずがなく、噂以上の何かになれるはずもない。

 そんな与太話を面白がって積極的に広めようなんて、頭が悪いとしか言いようがない。

 だから僕はそんな無意味なことに時間を費やさない。

 かと言って、他に費やしたい時間が特にあるわけじゃなかったけれど。

 つまるところ、僕にはどうでもいいのだった。

 馬鹿らしい噂話も。

 つまらない日々の繰り返しも。

 鬱陶うっとうしいだけの人間関係も。

 何もかも。

 全部。

 全部どうでもいい。

 僕には関係がない。

 僕には。

 全て。

 どうでも。

 どうなろうと。

 どうであろうとも。



    2

 日曜のうららかな午後、午後と言ってももう三時をとっくに回っていて、太陽も徐々に傾き始めてきた頃。

 僕は二階の自室で窓際に寄りかかり、開け放った窓から外の景色を眺めながら物憂ものうげな表情をしてクレオパトラの鼻の長さについて思索を巡らせていた。

 クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていたと言ったのはフランスの思想家パスカルだけれど、もしそれが本当だとして、では人類の歴史はどれほど変化するだろうか。

 変わることは変わるだろう。でも、それほど大きく変化したものにはなるまい。

 そう、今と同じように、どこかしこで争いの火種はくすぶり、人が殺され、差別はなくならず、戦争は止められず、奪い合い憎み合いねたみ合いそねみ合い、それを繰り返しながら世界は回り続けるのだろう。

 人間の本質は変わらないのだから。

 本質とは行動規範のことではなく思考様式のことでもなく主義主張思想信念信条などでもなく、もっと普遍性のある概念的なもののことだ。あるいは魂と言ってもいいかもしれない。それが変わらない限り人は変われないし、変えられない。

 少なくとも僕の知っている人間は誰も彼もみんなそうだ。

 僕自身も含めて。

「へーちゃんあーそーぼー!」

 ふと聞こえてきた馴染みのある声に、僕は思索を中断する。

 目線を落とすと、玄関前から僕の方を見上げている女の子がいた。

 僕は面倒臭そうに応じる。

「この家にはへーちゃんなんて人物は半ダースたりとも存在しておりません。お引き取りください」

「じゃあわたしが今話してるのは誰なの?」

意斗無いとなし 凡太ぼんた

「そっかー。でもわたしはへーちゃんに会いたいんだよねー」

「残念ながら現在、衣子無いみなし平太は外出中で会うことはできません」

「えー、ならしょうがないなぁ、帰ってくるまで待ってるよ! わたし待つの得意なんだ!」

「…………」

 玄関先に永住されても敵わない。仕方なく僕は「ちょっと待ってろ」と言い残し、手近にあったクッションを引っ掴んで階段を下りていった。

 僕が玄関の扉を開けると、明梨あかりが待ちかねたように目を輝かせて「うりゃっ」と言いながら抱きついてくる。

 僕は用意していたクッションを素早く尻に敷き、そしてそのまま押し倒された。

 明梨の身体が僕に密着する。

 シャンプーの良い匂いがふわっと香った。

 明梨が僕と会う度に抱きついてきて尻餅をつく羽目になるのはいつものことなので、このあたりの対応も手慣れたものになっている。

「へーちゃんつーかまーえた!」

 僕に覆い被さるような体勢でこっちの目を覗き込む明梨はとても楽しげで満足気で嬉しそうだった。僕の方は尻の骨が折れるかもしれない危険に晒されたというのに。もしかして、明梨には人をいたぶって楽しむ嗜虐的しぎゃくてきな趣味でもあるのだろうか。

「お前さあ、いつも言ってるけど、いきなり抱きつくなよ。危ないだろ」

「えへへ、ごめんね。我慢できなくて」

 全く反省の色を見せずに言う明梨に呆れつつ、僕はため息をつく。

 輝州てらす 明梨あかり

 近所の幼馴染で、幼稚園の時からよく一緒に遊んでいる。遊んでいると言っても、明梨の方から一方的に絡んできているだけなのだが。

 くりっとした瞳に人懐っこい笑顔。ポニーテールがよく似合っている。身長は僕とそう変わらない。性格は根暗な僕とは正反対で明るくて人付き合いが良い。

 そして明梨はやたらと僕に構ってくる。

 僕に関わろうなんてどんな変人奇人変質者でもしないだろうに、明梨はそれをやってのける。つまりとびきりの変わり者だ。

 加えて、明梨は僕との距離の取り方がおかしい。

 他の人間が相手だとそんなことはないのに、なぜか僕には妙に馴れ馴れしいのだ。いや、それどころかベタベタとくっついてくるし、無駄に抱きついてくる。

 一度気まぐれを起こして理由を聞いたことがあるけれど、本人いわく『へーちゃんは特別』だとか。

 僕には意味がよくわからない回答だった。

 特別。

 特別って。

 明梨にとって、僕は何がどう特別なんだ。

 何が。

 そもそも特別とは何だろうか。

 特別というのは、他とは違うこと。

 その差異が際立っていて、普通ではないということ。

 普通の基準がどこにあるのかは知らないけれど、普通は皆と同じ、多数派であるということ。だから特別な存在というのは、違いが突出していて目立つ、通常とは異なる何かなのだと言える。

「…………」

 僕は。

 僕は、どうなんだろう。

 僕にとっても、特別なんだろうか。

 明梨が僕を特別だと思っているように。

 僕も明梨のことを特別だと思っているんだろうか。

「…………」

 まさか。

 僕にとって特別な人間なんていない。

 他人は総じて他人でしかない。

 他と違う特別な誰かなんて存在しないし、存在するはずがないし、そんな存在の存在を僕は拒絶する。

 僕は一人でいい。

 わずらわしいだけの人間関係なんて、こっちから願い下げだ。

 こっちから。

「…………」

 じゃあ。

 じゃあ何で。

 何で僕は、明梨と関わっているんだ。

 積極的じゃなくても、消極的にであっても、関わっているんだ。

 何で。

「…………」

 それはやっぱり、どっちでもいいと思っているからだろう。

 自分からは絶対に人間関係を作らないけれど、相手が近づいてきたら状況に身を任せる。

 追い払うのも億劫おっくうだから。

 相手が原因なのに僕の方が余計なエネルギーを消費するのも馬鹿らしい。

 流れに任せて流される。

 それが僕のスタイル。

 そんなことを考えていると、不意に唇に柔らかいものが触れた。

 目の前に目を閉じた明梨の顔がある。

 キスされているんだと、どこか遠くの出来事のように分析する。

 別にそれに対して何かを感じるわけでもない。

 ああ、またか。

 と思っただけだった。

 最近はハグに加えてキスもするようになってきた。

 至極しごくどうでもいいけれど。

 明梨の唇が触れている間、僕はただぼんやりとしていた。

 しばらくして、唇を離した明梨はいつものように屈託のない笑顔を浮かべる。

「へーちゃん、どうだった?」

「どうもこうも、普通だよ」

「そっかー、へーちゃんはいつもそう言うよね」

 つまらないなぁ、と明梨は頬を膨らませる。僕は明梨をひっぺがしながら立ち上がり言った。

「それならもっと面白いことをやってくれ」

「お? ひょっとして今日は乗り気? めずらしいなー、いつもはかなり面倒そうなのに。わかった、それならわたしのとっておきの足使い見せちゃう!」

「ほう、まずはかけっこか。いいだろう、別に特に望んでいないけれど望むところだ」

 僕達は玄関から外に出ると、並んで位置につく。スタートの合図は当然のように明梨が出した。これは合図をする方が有利だけれど、男に逆境はつきものだというからまあ良しとしよう。

「位置について、よーい……ドン!」

 その声が終わると同時に、明梨が地面を蹴った。

 土煙が巻き上がる勢いで、ぐんぐん加速していく。

 まるでミサイルのようだった。

 あっという間に小さくなっていく背中を目で追いながら、僕は呟く。

「……相変わらず足だけは速いな」

 僕がマイペースにゴール地点の公園まで走っていくと、得意げな顔をした明梨がピースサインで出迎えてくれた。



    3

 公園でかくれんぼをしたり砂場で山を作ったり、他愛もない遊びをひとしきりした後、僕達は並んでブランコに座りながら黙って茜色の空を見上げていた。

 他の遊んでいた子供はみんな帰ってしまっている。夕暮れに染まる世界は僕達の影を長く伸ばしていた。血のように赤い太陽が地平線の彼方に沈もうとしている。

 隣の明梨あかりはさっきまでの騒がしさが嘘のように静かで、どこか寂しそうだった。

 いつもならそろそろ帰る頃合いだったけれど、珍しく明梨は立ち上がらないまま、僕の隣でまだ遊んでいたそうにしている。

「帰らないのか?」

 僕が聞くと、明梨は曖昧にうなずいたあと、おもむろに口を開いた。

「……ねぇ、へーちゃん」

「うん」

「今日の朝ね……お母さんとケンカしたんだ」

「そうか」

 理由は聞かない。

 聞いたところで何かが変わるわけじゃないし、取り立てて興味もなかった。代わりに僕は質問する。

「腹立たしいか?」

「え?」

「母親が鬱陶うっとうしくて目障りで、憎くて憎くて仕方ないか?」

「…………」

 明梨は何も言わない。僕はそれを肯定と仮定した。

「そんなに憎いなら、喧嘩するほど恨めしいなら、顔も見たくないほど苛立たしいなら、いっそ殺してしまえばいい。そうすれば問題は全部解決するよ。明梨をさいなんでいる問題は全部消滅する。明梨の母親にお前を産んだことを後悔させてやれよ。実の子供に殺される不幸に、実の娘に害される不運に狼狽させてやれ」

「へーちゃん、それ、無責任な発言って言うんだよ」

 僕のひねくれた態度はもう慣れっこだとばかりに軽く受け流す明梨。それに、と、彼女は続ける。

「へーちゃんの言う通りにしても問題は何も解決しないし。むしろ悪くなってるし」

「当然だね。僕もそんなこと本気で思っちゃいない。タチの悪い冗談だ」

「そういうの、他の人に言っちゃダメだよ? わたしにならいいけど」

「ああ」

 何で明梨にならいいのかわからなかったけれど、とりあえず頷いておいて話を進める。

「明梨、親と顔を合わせづらいなら家出でも何でもすればいいじゃないか」

「家出はしないよ。だって、家族だもん」

 家族。

 それは、そんなに大事なものなのだろうか。

 そんなに尊ぶべきものなのだろうか。

 僕には理解できなかった。

 その時ふと、あの噂のことが頭に浮かび、僕は何となく付け加える。

「それはともかく、今のお前の状態だと語り影の格好の的だぞ。連れて行かれないように気をつけろよ」

 家族と喧嘩した子供は語り影に狙われる。

 どこにでもある、陳腐ちんぷな都市伝説。

「あ、オカルトに興味ないへーちゃんでも知ってるんだ、それ。当然か、みんな噂してるもんね。でも……えへへー」

「何ニヤニヤしてるんだよ」

「ううん、へーちゃんもわたしの心配してくれるんだなって、嬉しくなった」

「ただの社交辞令しゃこうじれいだよ」

「はいはい、そういうことにしておくね!」

 そう言うと明梨はパッと立ち上がる。ついさっきまで悲しげだったのが嘘のように。

「何だ、もう立ち直ったのか、早いな」

「わたしにはへーちゃんがいるんだって思ったら元気出た!」

「そいつは結構なことで」

僕は適当に相槌あいづちを打つ。

「ねえ、へーちゃん」

「ん?」

 明梨は改まって。

「わたしたち、これからもずっと一緒にいられるよね?」

 と言った。

 それは。

 まるで。

 もう永遠に会えなくなるみたいな言い方で。

 永久に離れ離れになるみたいな口ぶりで。

 二度と会えない別れの言葉みたいで。

 どうして。

 どうしてお前は。

 そんな真剣な口調で。

 真剣な瞳で。

 急に。

 そんなことを。

 そんなことを、問うんだ。

 ギシリ、と。

 噛み合わせの悪い心が、音を立てた。

 何かが引っかかっているかのように、きしみを上げた。

 僕は咄嗟とっさにいつもの軽口が出て来ない。

 だから少し間を開けて言った。

「……それは神様に聞いてくれ」

 すると明梨は嬉しそうに微笑む。

「うん! そうするね、へーちゃん!」

 言いながら、タッと走り出し、僕の方を振り向いて。

「わたし、お母さんと仲直りするよ。このままじゃ嫌だから!」

 と宣言するように言った。

 それから大きく手を振り、僕をしっかり見て、輝州明梨てらすあかりはハッキリと、僕に気持ちを伝えてきた。

「へーちゃん、大好き!」

 そう言って、まぶしいくらい純粋な気持ちをぶつけてきた。

 それに対して。

 僕は。

 その想いに対して。

 僕は。

 僕は、ただ。

「そうか」

 と、返しただけだった。

 そして。

 明梨は。

 明梨は僕の答えを聞いて。

 純真無垢じゅんしんむくで真っ直ぐで、僕を疑うことなんて微塵みじんも考えていない、混じりっ気のない好意をありったけ込めてにっこり笑うと。

 そのまま。

 そのまま、僕に背を向けて駆け足で。

 影を伸ばして。

 消えていった。




 それ以来。

 明梨は帰ってこなくなった。

 僕の前から、いなくなった。



    4

 幼稚園の頃、僕は家の近くの雑木林ぞうきばやしに一人でよく遊びに行っていた。

 理由は誰も訪れる人間がいなくて静かだったから。

 僕だけの秘密の隠れ場所。

 僕はその当時から好んで孤独であろうとし、孤独と共に生きようとし、実際に孤独以外の何物にもなることはできなかった。

 でもそれで良かった。

 僕はそれで満足していた。

 そんなある日、いつものように僕は憩いの場で一際ひときわ大きな木にもたれかかり、ヒットラーが台頭した理由について思考していると、どこからか人の泣き声が聞こえてきた。最初は無視しようと思ったけれど、僕のいる場所に接近しているらしく声のボリュームが大きくなってきて、しかもいつまでも止むことはなかったので、静寂を邪魔された僕はため息をつきながら声のする方に向かっていった。

 泣いていたのは僕と同い年くらいのどこかで見た気がする女の子で、後から思い出したけれど、一緒の幼稚園に通っている奴だった。

 彼女は僕に気づくとこっちに寄ってきた。

 どうやら迷子のようだった。

 何でこんな人気ひとけのないところをうろついているのかはわからなかったし知ろうとも思わなかったけれど、このまま泣かれているのは耳障りだったから、僕は彼女の家を聞き出し、手を引いて連れて帰ってやった。

 それが明梨あかりと仲良くなったきっかけだった。

 いや、僕の方は別に仲良くしたいわけじゃなかったけれど、それ以降、明梨は機会があるごとに僕を見つけ出してはそばにいるようになった。

 初めは周りをウロチョロされるのを迷惑に感じていたけれど、いつしか違和感がなくなり、そのうちそれが当たり前の光景になっていた。

「…………」

 僕は何でこんなことを思い出しているのだろう。

 こんな、どうでもいい記憶を。

 僕は何で、まだ覚えているのだろう。

 黄昏の公園。

 明梨と最後に遊んだ場所で、あの時と同じようにブランコに座りながら、僕は一人で考えていた。

「……今日でちょうど一ヶ月か」

 明梨がいなくなってから。

 ちょうど、一ヶ月。

 大人達は明梨が誘拐されたのだと言っているけれど、僕には不思議と確信があった。

 これは語り影の仕業だと。

 あの時。

 明梨が走り去って行く時。

 僕は背伸びをして、明梨からほんの少しだけ、目を離した。

 そのわずかな時間。

 僅かな瞬間で。

 次に明梨に視線を向けたら、彼女は忽然こつぜんと消えていた。

 隠れられるような場所はない。

 角を曲がったにしてはあまりにも早すぎる。

 どう考えてもあれは奇妙だった。

 不自然すぎるほどに、不自然だった。

 僕は別に超常現象を片っ端から全否定するタイプじゃない。

 自分の見たものしか信じないだけだ。

「…………」

 明梨が行方不明になってからというもの、僕は頻繁ひんぱんにこの場所を訪れていた。

 何で僕は、こんなことをしているんだろう。

 僕にとって明梨は何か意味を持つ存在だったのか?

 未練がある?

 いなくなって初めて気づいた?

 僕は明梨に執着しゅうちゃくしている?

 この僕が?

 まさか。

 そんな馬鹿なこと、あるわけがない。

 明梨が僕に好意を寄せることはあっても、その逆はありえない。

 僕と明梨は幼馴染だけれど、それ以上でも以下でもない。

 たまたま家が近くて、たまたま幼稚園と学校が同じで、たまたま僕が助けただけの、それだけの関係だ。

 一緒に遊ぶことが多いだけの、取るに足らない、塵芥ちりあくたにも劣る関係だ。

 実際。

 実際、明梨は勘違いをしていただけだ。

 僕に勝手なイメージを抱き、勝手に恋心を抱き、勝手に特別な感情を抱いてしまっただけだ。

 本当は何も特別なんかじゃないんだ。

 あの日偶然迷子の明梨を僕が助けたから、不本意ながらも手を差し伸べたから、明梨は僕を好きになっただけ。

 それはつまり。

 僕じゃなくても、良かったってことだ。

 明梨の特別に選ばれるのは。

 僕である必要は、なかったはずだ。

「…………」

 ……選ばれたかったのか?

 僕は明梨の特別になりたかったのか?

 違う。

 僕は他者に興味を持つことができないのに。

 そういう人格をしているのに。

 今更人間らしく振る舞おうなんて、人間のフリをしようなんて、人間の皮を被って生きていこうなんて、虫が良すぎる。

 他人は鬱陶うっとうしい。

 人間関係は面倒臭い。

 他者は信用できない。

 だから、自分の貴重な時間を使ってまで付き合う価値もない。

 ――ねぇ、へーちゃん。

 代替だいたい不可能な時間を使ってまで。

 ――へーちゃん、わたしね。

 付き合う価値も……。

 ――わたし、へーちゃんのことが。

 価値も……。

 ――へーちゃんのことがね。

「…………」

 ……いや、違う。

 そうじゃない。

 そうじゃなくて。

 そう。

 本当は。

 僕は。

 本当は……。


 ……。


 …………。


 ………………。


 …………………………ああ。


 もう、いいか。

 もう。

 もう、疲れた。

 本心を埋没させることに。

 根本を偽ることに。

 少しだけ、疲れてしまった。

 僕は。

 僕は人間に無関心なんじゃなくて。

 とどのつまり。

 ただ、怖かっただけなんだろう。

 他人との関わりの中で。

 傷つくことが。

 痛みを感じることが、怖かった。

 仲良くなろうとして嫌われることが。

 仲良くなってから裏切られることが。

 たまらなく、恐ろしかった。

 だから、最初から誰にも興味を持たないように振舞った。

 先天的にそういう性質なんだと思い込んだ。

 そうすれば傷つかなくて済むから。

 痛みを知らないままで生きていけるから。

「…………」

 ……そうか。

 結局。

 全部、そういうことだったんだ。

 僕は初めから、わかっていたんだ。

 わかっていたくせに、見ない振りをしていただけ。

 それなのに、それでもいいと思っていたはずなのに。

 自覚してしまったら、もう元には戻れないじゃないか。

「…………」

 初めてだったから。

 誰かから好意を向けられたのは初めてだったから。

 それを。

 僕は。

 最初。

 不快な感情だと判断した。

 明梨の何の疑いもない眼差まなざしで見つめられると全身がむずがゆくなるのを、不可解な感情だと判定した。

 だから押しやった。

 明梨のことも他の人間と同じように遠くに押しやってしまえばいいと思った。

 そうすれば、この訳のわからない感情も消えていくのだと信じて。

 でも。

 僕はできていなかった。

 僕は。

 心のどこかで、興味を持ってしまったのだろう。

 僕が今まで出会った人間に一度も向けられたことのない、好意を持って接してくる明梨に。

「…………」

 人が人を好きになる理由を、何かの本で読んだことがある。

 他者から好意を持たれること。

 それはとても嬉しいことだから。

 だから好意を寄せられた方も、相手のことが好きになっていく。

 他者から好意を寄せられること、それだけで自然と相手のことも好きになれる。

 明梨の溢れんばかりの好意にあてられて。

 僕は。

 無意識のうちに。

 心の底の底では。

 とっくに。

 とっくの昔に。

「…………」

 僕は立ち上がる。

 自分の気持ちを認識してしまった今、ここにはもういたくなかった。

 明梨を思い出してしまうこの場所には。

 全てが手遅れになってから自分の想いを認めるなんて、いかにも僕らしい。

 遅かった。

 何もかもが、遅すぎた。

「……帰ろう」

 そう呟いて、僕は無機質な日常へ沈んでいく。

 明梨。

 僕は。

 いや、僕も。

 僕も、お前のことが……。

「へーちゃん」

「…………え?」

 突然。

 僕は背後から。

 呼びかけられた。

 懐かしい。

 もう何年も呼ばれていない気がする愛称で。

 そう呼びかけられた。

 僕と同い年の、コロコロとよく笑う明るい女の子の声で。

 親しみを込めて。

 そう、呼びかけられた。

 ドクンと。

 動機が激しくなる。

 まさか。

 明梨は、いなくなったはずじゃ。

 語り影の、犠牲になったはずじゃ。

 犠牲に。

 もう永遠に、会えないはずじゃ。

 会えなくなった、はずじゃ。

 …………。

 ……勘違いを、していた?

 ひょっとすると、それは間違いで。

 僕の勘違いで。

 明梨は僕が知らなかっただけで、旅行にでも行っていて。

 何食わぬ顔で帰ってきて。

 当たり前のように、また、僕のそばに。

 僕の隣に。

 隣で、屈託のない笑顔を見せてくれて。

 見せて、くれて。

 もしかしたら。

 僕は。

 やり直せるのか。

 僕は。

 もう一度。

 もう一度だけ。

 やり直せるのか。

 やり直せる、機会が。

「明梨……!」

 僕は振り向く。

 もう聞けないと思っていた声に、返事をして振り向くと。

「あ……」






 影が、



(終)



 ………………。

 …………。

 ……。



 ――語り影に連れていかれちゃった子はね、それから一ヶ月のうちに、その子が一番大事に思ってる子を道連れにするんだって。



 ………………。

 …………。

 ……。


 一番大事。

 親友。

 両思い。

 両思いの子。

 ああ。

 明梨。

 僕の大事な存在は。

 僕の大切な存在は――。

 ……全く。

 僕はなんて無駄な時間を過ごしてきたんだろう。

 生きている時に、どうしてそっけない態度ばかり取ってしまったんだろう。

 後悔しても、し足りなかったけれど。

 悔やんでも、悔やみきれなかったけれど。

 でも。

 今は。

 今はまた。

 また、明梨が隣にいる。

 僕の手を握ってくれている。

 だったら。

 だったら僕のやるべきことは一つだけだ。

 今度はもっと、素直になろう。

 今度はちゃんと、会話をしよう。

 僕の心を常に照らそうとしてくれていた、あの笑顔に応えるために。

 何も見ようとしなかった僕に、ずっと話しかけてくれた彼女と向き合おう。

 さあ。

 それじゃあ、会話を始めよう。

 合縁奇縁永遠放免あいえんきえんえいえんほうめん、その手を離さない会話を。


 気分は穏やかだった。

 僕の心はいでいた。

 こんな自分にも。

 こんな欠陥だらけの自分にも、大切なものが。

 かけがえのないものが。

 確かに。

 確かにあったのだ。


 最後に。

 僕は最後に。

 最後に自分も人間だったのだと。

 そう知って。

 そう自覚して、終わっていった。

 闇の中へ、彼女に手を引かれて。




 彼女と一緒に、終わっていった。



(完)

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