発達障害者の苦い出来事

正体不明の素人物書き

精神障害というものがなかったころ

このエッセイを掲載した2023年から約10年ぐらい前になるだろうか?

ニュースで精神障害に関する内容が報道されたことがあった。

それからやっと、アスペルガーや発達障害といった精神障害に関心がもたれるようになったと思う。

だけど、実際に生まれつき発達障害を抱えてる自分から見たら、精神障害に関心を持つのが遅すぎたと思う。

これが原因で、自分の過去は散々だった。


簡単に言えば、小学校に入ってから中学を出るまでの9年間の義務教育期間を無駄に過ごしていた。

学校はサボることなく通ったし、授業中に暴れたりもしなかったが、その代わりに、文字通りのだ。

宿題も出されても全く手を付けなかった。

これが原因で、成績最悪で地元で一番の劣等生だった。

一番きつかったのは、映画を見終わった後で、感想を書くことになった時だった。

内容はある程度覚えているが、いざ感想を書こうとすると、頭の中は真っ白で、どれだけ考えても何も書けなかった。

これが原因で、教師からはふざけてるように思われたこともあった。

音楽の授業でも、クラシックなどを聴いて、その感想を書いてほしいと言われても、みんなはいろいろ書けるのに、自分だけたった一言で済ませてしまったこともよくあった。

「どうしてみんないろいろ書けるのに、自分だけ…」と劣等感を抱いたこともよくあった。

正直、学校に自分の居場所はなかった。

その当時の自分には学校をサボるという知識がなく、しかも何のために学校に通ってるのかもわからなかった。

なぜかは覚えてないが、学校に行くのはもちろん、放課後になって家に帰るのも苦痛だった。


それだけならまだしも、いじめもあった。

しかもそれを親に言っても取り合ってもらえず、それどころか、いじめられることをした自分が悪いようなことまで言われた。

何もしてないのにどうしてそんなことを言われなければいけなかったのか、未だにわからない。

小学6年の夏休みに学校行事でキャンプがあり、その前の年にあったキャンプで怖い思いをしたこともあって行きたくなかったのだが、学校行事だからという理由で無理やり連れていかれた。

「これから先、生きていても何もいいことない」と絶望し、空の向こうに行こうとしたほどだった。


中学に入ってからも、いじめは続いた。

本当に逃げ出したくて仕方がなかった。

しかし、自分には逃げ場がどこにもなかったのも事実だった。

辛いことしかない毎日で、「あのとき、死んでおけばよかった」と何度も思ったほどだった。

授業で当てられても、静かな教室でものをいうのが苦手だった上に、何をどう言えばいいのかわからなかったのが原因で、何も答えられず、無駄に時間が過ぎるだけだった。

部活は最初のころは楽しかったが、だんだん面倒になってよくサボるようになった。

学校から帰ってから唯一の楽しみだったゲームも、成績最悪なのを理由に取り上げられてしまった。

「頑張ったら返してやる」と言われ、普通は頑張るのかもしれないが、その時の自分は「どれだけ頑張っても、二度と返ってこない」と諦めてしまい、それまで以上に何もしなくなった。

これが原因で、部活を家族に黙って、仮という形でだが退部したほどだった。

今思えば、頭が回ってなくて正解だったかもしれない。

もし普通に回っていたら、間違いなくサボっていただろう。


3年になり、卒業後の進路を考えなければいけない時期になった。

それと同時に、部活はつまらなさに耐えられなくて家族に黙って正式に退部した。

みんなはどこの高校に行こうかとわいわい騒いでいたが、自分だけ蚊帳の外だったような気がする。

そもそも、どこの高校に行けばいいのかわからず、しかも高校生としての自分の姿を想像しても全く思い浮かばなかった。

「成績最悪な自分に行ける高校なんてないだろ」と思ってたのも理由だった。

同級生から「〇〇高校に行ったらどうだ?あそこは単純な計算ができれば通るぞ」と言われたこともあったけど、普通はそこに希望の光を見つけるのかもしれないけど、自分にはピンとこなかった。

2か月に一度、模擬試験があったが、そのときのプロフィールカードに希望高校を書いたことが一度もなかった。

これ以上学校に通う気になれなかったこともあり、就職を本気で考えたほどだった。

進路が決まらないまま、その年の夏休みに入った。

担任が「できるところまででいい」とプリントに書いてあるにも関わらず、親は無理やり全部やらせようとしてきた。

この時に思ったのは、「高校に行くようになっても、こんなことになるぐらいなら、就職してこの家出てってやる!!」と怒りを覚えた。

結局は、全部やることなく提出したのは余談だ。

進路相談もあったが、はっきりしたものがなく、しかも何を相談したらいいのかわからなくて、無駄に時間だけが過ぎたこともあった。

家で「新聞配達でもやろうかな…」と独り言を言ったら、「高校だけは出ておけ」と言われたこともあった。

結局、県内で一番レベルが低いと思われる私立に進むことになり、かなり迷ったにもかかわらず、しかも推薦だったこともあって、クラスで一番早く進路が決定したのだった。


高校生になったが、中学を出るまでの学生生活を考えると不安しかなかった。

部活も親には何か入れと言われてたが、中学の頃のことで何も入る気にならず、それを理由に何も入らなかった。

いざ、授業になったとき、実はこれが一番不安だったが、それでも受けてみると、内容が小学校高学年ぐらいのレベルだったことに拍子抜けしてしまった。

そのおかげで、周りに遅れることなく済んでいた。

入学して1か月ぐらいしたころだったか、2泊3日のキャンプが行われた。

小学校時代の苦い思い出がトラウマになっており、それが原因で行きたくなかった。

それでも渋々ながら行ったが、青少年センターを借りてのキャンプだったことで、過去みたいなことにならずに済んだことで安心した。

キャンプ2日目に映画を見ることになった。それだけならよかったが、見終わった後で感想を書いてほしいと言われ、小学校時代の何も書けなかった頃のことがフラッシュバックしてしまい、本当にどうしようかと焦った。

でも、その映画の内容が、以前に漫画で見た内容とほぼ同じだったことで、そのおかげで原稿用紙の半分ほどだったけど書くことができた。

ただ、友達はできても、その輪に馴染めなかったのも事実だった。

心のどこかで、いつも「早く帰りたい」という気持ちがあり、学校が終わるとすぐに帰っていた。

周りからは「お前は付き合い悪い」と言われたこともよくあったが、特に気にしたことはなかった。

高校を出たら、今度こそ就職しようと入学したころから考えていたが、目の病気で断念することになった。

どうしようかと考えた結果、親の助言もあって専門学校に進学することになった。


2年制の専門学校に進んだものの、高校の時と何ら変わりない学生生活を送っていた。

いじめに対する不安があったが、そのいじめが全くなかったことが救いだった。

だが、付き合いの悪さは相変わらずで、学校が終わるとすぐに帰っていた。

授業内容は追いつけないほどのレベルではなかったが、ビジネス関係のビデオを見たときに、その感想を書いてくれと言われたときは、「またか」と思ったほどだった。

たった一言ぐらいで済ませたが、書かないよりはいいだろうと自分に無理やり納得させたこともあった。


専門学校を卒業し、普通なら就職してるはずだが、働く気がなかったのを理由にニートになってしまった。

たまにだが、アルバイト面接を受けても、どこを受けても決まらず、しかも落ちる原因がわからないので対策も立てられなかった。

そんな日々を送るうちに、いつからか「何がやりたいのだろう」と思うようになり、どれだけ考えても答えが出なかった。

そしてある日、「これだけ考えても答えが出ないということは、何もないということか?」と思ったとき、それが答えだと気づいた。

そして、それまでの迷いが吹っ切れたかのように、あちこち受けたものの、落ちてばかりだったが、やっと一つ決まった。

それが、詳しくは省くが接客業だった。

最初のうちは四苦八苦しながらもなんとかやっていたが、一つのことをやりながら他のことにも気を回さなければならず、でも人一倍不器用な自分はそれができず、シフトに入ると必ず注意されていた。

しかも、1から10までどれだけ丁寧に説明されても、そのうちの1と10しか頭に残らず、それで怒らせてしまうこともよくあった。


結局、その接客業は半年でクビになってしまった。


それからしばらくして、工場のアルバイトをすることになった。

接客業の苦い思い出もあり、うまくやっていけるか不安だらけだったが、接客業とは違い、目の前のことに集中できることもあり、やりやすい仕事だった。

それでもきつさに耐えられず、半年で辞めてしまった。


それからまた職探しをして、別の工場で働き始めたが、覚えなければいけないことが多すぎて、それに頭が追い付かず、それでも何とか続けたものの、入って2か月後に社長直々にクビを言い渡されてしまった。

社会人には向いてないことを自覚していて、それを痛感させられながらも、働かずにはいられないこともあり、仕事を探すしかなかった。

数日後には、ハローワークから応募した工場に短時間のパートで入社した。

それまでとは違い、力仕事もあり、重いとわかってても「仕事だからやるしかない」と自分に言い聞かせて無理やり持ち上げることもあった。

ただ、計算がうまくいかず、そのことで注意されて危うくクビになりかけたこともあった。

重苦しい気持ちになりながらも、逃げ場はどこにもなかったことで、仕事は行くしかなかった。

合間を縫って、失敗した計算を見直して、どうすれば正解になるかを考えて、答えが出てからは失敗はなくなった。

だが、一部の人と人間関係がうまくいかず、その人から距離を置きたくても部署の都合でできなかった。

ある日、別の仕事を任され、それをやってみた。上司からは「この仕事ができなかったら、ここにはいられないからな」と言われ、頑張るしかないと思った。

その仕事は、本当に目の前のことに集中できて、自分に向いた作業だった。

それどころか、周りから「自分たちよりうまくなったな」と言われるようになるほどだった。

しばらくして、家庭の事情でフルタイムで働くことになった。

朝が早くなったから大丈夫か?と不安な気持ちもあったが、すぐ慣れるだろうと思った。

だが、その気持ちに反して、逆にしんどく感じるようになった。

おまけによく体調を崩すようになり、余計に辛くなった。

この頃、いろいろ頼まれるようになったのだが、1から10まで丁寧に説明をされても、その中の1と10しか覚えられず、そのせいで怒られることもあった。

それでも何とか続けたが、ついにはすぐにでも仕事を辞めたいぐらい気が滅入るようになった。

これが原因で、心療内科に通うようになった。

しかも、精神状態を安定させるためとはいえ、仮病で休むこともよくあった。

上司は薄々感づいていたらしく、そのことで注意されたこともあった。

そのときに自分の思考能力が追い付かないことや精神的にかなり辛いことを話したが、上司の返事は「それはただの思い込み。君はまだ十分働ける」・・・。

ある日、出勤したものの、体調がかなり悪く、すぐに早退したこともあった。

その翌日に、同じことを繰り返して、会社に迷惑をかけたくないのを理由に辞めようとしたら、急に辞めようとしたことで注意された上に引き留められてしまった。

知人にこの出来事を相談し、心療内科に行ったら、神経症で1週間休んだこともあった。

その半年後には、いろいろな部分で無理がたたって、鬱になったことで辞めることになってしまった。

鬱状態と診断されたことを親に話したら、その返事は酷いものだった。

「仕事、クビにならないか!?」とそっちの心配しかしてない感じだったうえに、「何が鬱だ!?ただ仕事行きたくないだけだろ!?」とまで言われた。

その時は言い返す気力もなかったので黙っていたが、気力があったらこう言ってたと思う。

「仕事に行きたくなくなって、それでも我慢して何年も続けたから、無理がたたって鬱になったんだ!」と・・・。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る