第十話 逆光
頭が痛い。息を吸う度、吐く度、激痛が走る。毎秒、眉間周辺に熱せられた針を刺されているような感じで吐き気がした。頭が霞が掛かったみたいにボヤけている。激痛の波が治ると同時に、快楽的な成分が分泌されているのか、口元が緩む。思考と時間がゆっくり流れ、視界が歪んでいた。僕は村本の部屋の隅でゴミと一緒に転がっている。歪んだ視線を上に向ける。ベッドの上に複数人の誰かが居る。良く見えないけど、村本も居るんだろう。
僕はしばらく、この快楽を孕んだ激痛に耐える事に決めた。混濁する意識下でも村本にまた薬を盛られた事は理解している。神下と日阪はこんな感じで連続投与であの様な事になったんだ。って事は僕も危ない。連続で薬を盛られれば、正気が保てずに彼女達と同じ道を辿る事になる。
どうすれば良い?
運良く、まだ奴等に気付かれていない。
ん? そういえばなぎさは何処に行ったんだ? 煙突から突入したと思うけど、なぎさも捕まった?
僕は聞き耳を立てる。ベッドから声を慎重に聞いた。
「橘氏には幻滅でござる。色々と教えて上げたのに結果がコレでござる。薬も無駄に使わせ、本当に無駄でござる。男はジャンキーにしても生産性が無いでござる。でも女は利用性があるから最高でござるよ! なぁみんなでござる!」
「あぁー」
「うぅう」
返事をしているのは多分、神下と日阪だ。かなりヤバい状況だ。2人を早く救わないと取り返しが付かなくなる。下手をすれば死ぬ可能性だってある。
「それにしても、あのOLも死ぬのはウケるでござるよ。なぁ日阪殿。薬を欲しさに自殺とか意味不明でござるよ」
どういう事だ? OLさんの自殺も村本が原因なの?
頭は段々とクリアになっていた。
ひとまず、僕は自分の事を把握する事が先決だ。
えっと。手足は自由だ。動く。頭は激痛だから、後ろから殴られたんだろう。あと腕は………注射痕がまた増えている。
僕も警察に捕まるのは免れない。
あとはカメラは………やはり手元に無い。村本に所有されているみたいだ。カメラは絶対に奪還したい。このまま放置は嫌だ。
作戦を考えよう。なぎさの事も心配だ。
僕はベッドの上の村本をそっとまた観察する。奴は僕に背を向けて座っている。振り返ったら終わりだけど、見える位置に居ないのは助かった。村本はベッドでグッタリしている2人をニヤニヤした顔で見ていた。神下は虚ろの目で仰向けになり、その神下の腹を枕代わりに日阪が寝転がり、ブツブツと何かを言っている。
完全に壊れているのは理解出来る。そういえば、もう1人女の子が居たが、今は居ないみたいだ。
控えめに言って地獄絵図だ。村本はハーレム気分でこの状況を作り出しているなら、狂気に沙汰ではない。僕にも薬を投与して、女の子も薬漬け。やっている事が高校生の域を軽く超えている。マフィアだ。
彼には監獄へ入って欲しい。そうするには、僕が動くしか無い。こんな薬漬け一歩手前で何が出来るか分からないけど、なぎさと合流してこの状況を打破しよう。
なぎさは煙突の侵入した。でも今も姿を現していないという事は、煙突から脱出出来ていないと考えて良いだろう。つまり彼女は煙突の中。で、煙突はこの家の中の何処にあるんだろうか? 普通に考えればリビングだ。つまり1階だ。気絶する前に大きな音がしたけど、煙突から落っこちたのかもれない。煙突の下に暖炉がある筈。そこに行けば分かるけど、部屋から出るのは至難だ。
「トイレに行くでござる。レディたちは大人しくしてるでござる」
チャンスだ。とてつも無いチャンスだ。僕は再度、気絶しているフリをして、村本をやり過ごす。村本が完全に部屋から出た隙に起き上がった。
神下と日阪が僕を呆然と見ていた。
なんてボロボロなんだ。2人共、青痣だらけで腕には無数の注射痕。分かっていたけど、酷い。そして臭いも相当だ。普通に呼吸をするだけで、吐き気がする。尿の臭いや汚物の臭い。汗の臭いもあるけど、全てが合体して異臭を放っている。なぎさが腐っている時の臭いも相当だったが、彼女たちはその比ではない。
彼女たちは汚れている。村本の好き勝手にされてしまった。
神下は僕の彼女だった。日阪はスクールカーストでは上位。あのOLさんはどんな役割で生きていたんだろう。
もう救えない。汚れた者を救えない。失った者も救えない。結果、僕には何も出来ない。
僕は彼女たちが目を離し、机の上に戻された一眼レフのカメラを取った。隣、村本のカメラもある。自然と手に取り、部屋を出た。部屋の隣にトイレがある。その中で村本は鼻歌を混じりでご機嫌だった。
僕はそのまま、下へ向かう。彼がトイレから部屋に戻れば、僕が居ない事に気が付くだろう。そうなればヤバい。また女の子たちを使って、僕を追い立てるに違いない。その前になぎさと合流だ。彼女が居ないと僕は何も出来ない。
1階に着くとリビングに向かった。広いリビングだった。暖炉を囲む様にチャコール色の高級感溢れるソファがあった。村本はお金持ちみたいだ。それにしても両親は居ないんだろうか? いや居たらこんな事になっていないか。半裸の女が複数、薬漬けで徘徊しているんだ。まともな親なら発狂する。
ソファを躱して、暖炉に近付くと心臓が出る程、驚いた。ソファの影で見えなかったが、先程まで村本の部屋に居た女の子が暖炉の前に座っていた。正気の無い表情。彼女も薬漬けみたいだ。彼女は暖炉を見て「あーあーあ」と言っている。何を見ているんだ? と覗き込む。するとそこには骨があった。もう驚きはしないけど、これには声が出そうになった。しかも結構な量だった。2人? 4人分くらいはある。村本は人を普通に殺して、自宅で焼いているのか。なんて奴だ。完全に犯罪者じゃないか。こんな奴にカメラのセンスが負けているのか。
僕は自分のカメラを暖炉に向けた。一応、証拠として撮影する。一通り撮影し終わると、暖炉に首を突っ込み、上を見上げた。空は見えない。ススだらけの鉄板があった。その鉄は四隅に拳サイズの切り欠きがある。ここを通れるのは、ネズミくらいだ。
僕は声を最小限に抑え、なぎさを呼ぶ事にした。
「なぎさ?」
反応はない。
もう一度、呼ぶ。
「なぎさ!」
「橘?」
反応があった。
「何してるの? 僕、また薬打たれたんだけど」
「知らない。私もここで動けなくなってる」
「なんで? どうしたの?」
「下に鉄板があって、私の力でも取れなかった。上に戻ろうとしても、上がれない。下からあーあーあー不気味な声がする。最悪」
「………」
同情の言葉も出ない。意見を言うなら何故、煙突侵入を試みたんだと言いたい。でも今はそこを議論している暇は無い。村本がトイレから出て、部屋に戻れば、僕が逃げ出した事が判明する。そうなれば、また薬漬けの彼女たちが僕を襲って来るだろう。
「なぎさ。早く出て来れないの? 本当にヤバいんだよ」
「分かってる。でも出れない」
「手と足を煙突の壁に突っ張って、登れないの?」
「ススだらけで滑る」
「………下の鉄板は破壊出来ないの?」
「無理。橘、ロープとか上から吊り下げて」
「………」
なぎさの家にはビニール紐があった。村本の家にはあるか分からないけど………近くにいる薬漬けの女の子を見て、ありそうな気配はある。女の子を拘束する時に奴なら使いそうだ。
「ちょっと待ってて」
煙突に声を掛け、室内を見る。ザッと見て、見つかる訳が無い。ここは手っ取り早く、この近くに居る女の子に聞いてみよう。
「ロープってある?」
「あーあーあー」
女の子は指を指す。
それはキッチンの方だった。僕は急いで、キッチンへ向かう。
「うっ」
キッチンは凄い臭いだった。キッチンシンクのは、汚れた食器が山積み。ゴミ箱の上には、小蠅が飛んでいた。4人掛けにキッチンテーブルの上も相当、汚れている。食べ掛けのピザやカップ麺にはスープが入っている物もある。でもその中に針金の束を見つけた。針金は新品で長さの記載もあった。
「10メートル。ギリギリ足りるかなぁ?」
針金を手に僕は玄関に向かった。その時だった。2階が騒がしくなっていた。僕の脱走に気付かれたんだろう。おちおちしている暇はない。僕は玄関の扉に手を掛けた時、背後の気配に気付き、振り返った。あの女の子がこちらを見ていた。
薬漬けで意識が朦朧とする中、助けてくれた。彼女に出来る事はあるんだろうか? いや、玄関の扉に鍵は掛かっていない。つまり、いつでも逃げ出せた事になる。依存性というのは、厄介だ。彼女もそれを理解しているんだろう。僕と一緒に外に出れば、薬の依存性と戦う事になる。その決意をするのは、僕ではない。たとえ、僕がここから強引に逃しても結果は、また薬にハマる日々に自ら選択する。
僕に出来る事は、カメラを構える。
彼女を撮影した。設定もデタラメで、良い作品とは言えない。決して、彼女の承諾されないとこの写真を公開出来ないけど、撮影した。彼女の為ではない。僕の為だ。僕が関わった人を撮影する意味が今、分かった。
僕は外に出て、扉をそっと閉じた。彼女は最後まで「あーあーあー」と言い続けていた。その言葉の意味は分からないけど、頑張ってと言われている様に感じた。
相変わらず熱帯夜の外で煙突に登れる場所を探す。なぎさも登った筈だから何処かにあると荒れ荒れの庭を探した。意外にも屋根にハシゴが掛かっており、煙突に到達するのは容易だった。でも夜だから一歩一歩慎重にハシゴを登る。僕は先程、薬も投与されているんだ。精神的にも肉体的にも健常時とは違う筈だ。
やっと屋根に足を踏み入れた。かなり滑る。少しでも体勢を崩せば、滑り台の様に落ちて行くだろう。煙突がある所為なのか、屋根の勾配が強い。なので屋根の縁を掴みながら上を目指す。その間も家の中から騒がしい声が漏れ出していた。神下や日阪がまた無駄な暴行を受けていると思うと心が痛い。けど、今はなぎさだ。登ってて、思ったが、一眼レフカメラの2台を首から掛けているんだけど、かなり邪魔で重い。何故、下に置いて行かなかったんだと今更後悔する。
煙突に到達すると僕が息切れしていた。この程度で息切れするのはおかしいが、全て薬の所為だと思い当たる。
「はぁはぁはぁ。最悪だよ」
僕は独り言を言いながら、煙突に針金を巻き、針金を煙突に放り込んだ。
「なぎさ? 聞こえる?」
持っているスマホで煙突の中を照らす。中を見るとなぎさが煙突の中で体育座りして、仏頂面で見上げていた。顔にはススが付き、身体も汚れている。
「ロープは、無かったけど針金はあったよ。これで登って!」
「細い!」
「いや分かってるよ。仕方ないし。村本もヤバいんだから早く! 腰に巻き付けて、足を煙突に突っ張って登ってよ!」
一応、イメージを伝える。手で細い針金を掴んで、登るのは無理だ。滑るし、掴む面積が小さ過ぎる。なぎさみたいに腕力がバグっていたとしも難しい筈だ。故に身体を支える助けにかならない。僕が上から引っ張り上げるのも現実的ではないし、多分不可能だ。結局の所は彼女に委ねるしかない。頑張って上がって来るしか無いんだ。
彼女は暗い煙突の中で、針金を腕に巻き付けている。僕のアドバイスは度外視にする気だ。でも針金というアイテムを得た事で脱出出来そうな兆しだ。
彼女は針金を掴めない分、針金を腕に巻き取り、上に上がる作戦みたいだ。
「大丈夫?」
「ん」
スマホで煙突内を照らすが、針金が彼女の腕に食い込んでいる。そこそこグロテスクな事になっている。何とか、彼女は煙突から脱出する。
「大丈夫?」
「大丈夫ではない」
若干、怒っていた。ススだらけで、かなり汚れている。まるで灰を被った魔女だ。手にも顔にも、ススが付き黒魔術をしような感じだ。これはこれで、絵になる。煙突もあるので、良い写真になる。僕がカメラを構えて、撮影した。
「面白い? 惨めな私を撮影して?」
「いやいや撮影しないとこんな事、記録に残らないでしょ? 記念みたいなもんだよ。写真って」
なぎさは登るをやめて、不思議そうにこちらを見る。
「……何かあった?」
何かを察したみたいに言う。何も無い筈なのに、ちょっとだけ躊躇している。神下と日阪の姿が結構、グロい事になっていたのが原因だ。あと薬。
僕は気を取り直し、笑顔で対応する事にした。
「大丈夫だよ。早くここから脱出して、警察を呼ぼう。ここに警察を呼べば、終わりだよ。僕等が頑張る必要も無かったよ」
本当に何をやっているんだろうか?
なぎさに思春期を体験して、ゾンビ化を止めれる筈だったけど無駄だった。村本はとんでも無い奴で、僕は無駄に薬を投与されただけ。何も得られる物が無い。
情け無いよ本当に。
「そう。で、私はどうする? ゾンビになって終わり?」
「………」
何も言えない。
ゾンビになって終わりという言葉、とても遠くで聞こえる様に僕の耳を通り過ぎる。
「橘。警察に任せるなら、私に任せてよ」
「何もする必要無いんだよ? ゾンビ化だって、止まっていないんでしょ? やる意味無いよ?」
「ゾンビ化を止めなくても、友達が悲しんでいる」
「友達?」
「橘。とりあえず行く。あの油デブはちょっと殴ってストレス解消したい」
彼女はそう言うと煙突から軽々脱出し、屋根を降りて行った。僕も続く。彼女は迷う事無く、村本の家の玄関へ来た。戸に手を掛けるとそのまま、開いた。
先程、玄関に居た女の子は、まだ座っていた。
僕の時は「あーあーあー」と不気味に声を発するだけだったが、なぎさを見ると飛び掛かって来た。
女の子はなぎさの腕に噛み付く。しかもゾンビ化が進行している方の腕だった。
なぎさの腕に女の子の歯が食い込む。そして膿と血が溢れ出し、床に落下する。女の子もその血に狼狽えたのか、噛むのを止めた。
「こういう時、怖くないとか言えばいい?」
ジブリ?
ナウシカの名シーンを言っているんだろうか? ってか、なぎさがジブリを観るのは、親近感が湧く。って言ってる場合か! なぎさは本当に痛覚が無いみたいだ。見ているこちらが、血の気が引き、倒れそうだ。
僕がオドオドしているとなぎさは「めんどい」と本当に面倒くさそうに言い、女の子をぶん殴った。力を相当入れたのか「ゴツっ」と言う音と共に女の子は飛んで行き、壁にぶつかりグッタリして動かない。下手をしたら死んでいる可能性もある。
「うーん。手加減って難っ」
「これで?」
思わず、思っ切り、突っ込んでしまう。
「うん。歳下っぽいから9割の力でヤッた」
「ほぼ全力だよそれ?」
「全力は10割。数字の意味も分からない? 薬の所為かやれやれ」
自己完結する様に、額に手を当て、困った演出する。が、その時だった。殴った方の手、つまりゾンビ化が進行している深刻な手がボトっと柿が地面に落ちるみたいに床へ直撃した。
「ううわぁ!」
「うっさい」
死ぬ程、驚く僕を死ぬ程、冷静に嗜める。ある意味、世界中で1番、クールかも知れない。
「どどどどどうするの?」
「持って帰って、ホッチキス」
「ホッチキス? それで良いの?」
「うっさい。あと糸で縫う」
「ええええー」
コントの様な遣り取りだけど、なぎさの顔は大真面目だった。宣言通り、家に帰ってホッチキスを有言実行しそうだ。
僕もそれ以上は突っ込まない。よくよく考えれば腕が落ちる状況は、普通ではない。それを普通の僕が騒ぎ立てるのは、普通じゃ無い彼女をバカにしていると同じだ。彼女がそうするなら、それで良い。僕はとりあえず、彼女の腕を抱き抱えた。
腐った臭いがする。もう慣れたと思ったけど、至近距離だとダイレクトに臭いが鼻腔を刺激する。吐き気を覚えるけど、吐くわけにはいかない。それにこの手は彼女の手だ。そう思えば、幾分か楽だ。
彼女の家で彼女に触れた時、とても柔らかいと思ったが、彼女から離れた手は硬く、少し重い。二の腕から千切れた腕だったけど、見た目以上に重い。命の重みと思い、噛み締めカメラを構えた。
「撮る?」
驚いている彼女を置き去りにして、シャッターを切った。
腕の無い彼女。ミロのビーナスは不完全な彫刻だ。それ故に駆り立てられる。無い腕を。まさになぎさもそれだった。千切れた断面に綺麗では無い。紙を破ったみたいに歪だ。膿が垂れ、血が滴る。
でもそれが何だ? 死んでいたら、グロいかも知れない。けど彼女は生きている。鮮度のある肌。艶やかな髪。腕が欠けて尚、美しさに磨きが掛かる。僕が満足するまで撮影すると2階から村本が降りて来た。
股間が黄ばんだブリーフを着衣し、腹に赤子でも入っているんじゃ無いかと思う程の丸々した腹部を揺らしながら、降りて来た。
「パチパチパチパチ」
乾いた拍手が部屋に響く。流れていたレゲエはいつの間に消え、不気味に拍手だけが響いていた。
後ろのには半裸の神下と日阪が、階段の手摺りに縋る様に身体を預け、降りて来る。その姿は可哀想を通り越して哀れで、見るに耐えない。人は薬に依存するとここまで落ちる事を証明するみたい。
彼女たちの為にも早く解放させて上げたい。
「橘氏。思うでござるよ。凡庸な人間の写真などゴミだと。被写体がいかに優れていても、撮影側が凡庸なら写真もまた凡庸でござる」
「………」
何も言えない。僕が凡庸なのは1番、僕が知っている。被写体が素晴らしいのに活かせないのは僕の責任だ。
「言い返す?」
なぎさが僕を煽る。
「いいよ。早く神下と日阪を助けようよ」
「そう」
彼女は階段をゆっくり登り、村本と対峙する。
「海向殿。薬は要らないでござるか? 療治と思えば良いでござる」
「はぁ」
なぎさはため息を吐き、下を向く。片腕が無いので、少しバランスを崩しつつ、村本の腹に拳をねじ込んだ。村本は声にならない悲鳴を上げ、階段という狭い場所に関わらず、転がった。
「ふぅ。あ!」
なぎさは殴った勢いで、階段から転がり落ちた。
「普通、受け止めない?」
「いやいや腕も持ってるし、カメラもあるし。無理だよ」
「ださっ」
「………」
色々と言いたいが、ここは黙る。ご最も意見だ。男の僕は受け止めれば、良いのに動かなかった。こういう時に自分の弱さとダサさが露呈して、悲しい。
「で、あれはどうする?」
とりあえず、彼女を起こすと指を指して言う。その先には神下と日阪が居る。彼女たちは口から涎を垂らし、こちらを睨んでいた。
「一発くらい、喰らわす?」
「………大丈夫。僕が話すよ。村本を見てて」
「はいはい」
「2人とも? 今の状況は、君等にとって幸せなの? 苦しく無いの? 村本に好き勝手されて、良いの?」
「「………」」
2人は話さない。僕を睨むだけだ。
「日阪さん。村本が君の大好きお姉さんを自殺に追い込んだの知っているのかい?」
日阪は少しだけ反応する。
「君まで犠牲になって良い様に、利用されるのかい?」
「うるさいでござるござる! 2人とも橘氏と海向殿を殺せば、薬をいっぱい上げるでござるよ」
「橘。デブ、元気みたい。殺す?」
なぎさは相変わらず好戦的だった。腕が無い事などお構い無しに拳を振り上げる。村本は階段に座り、腹を抑えている。ダメージがまだ残っているみたいだ。
村本の後ろの2人がゆっくりと近付いて来る。薬の魔術にハマったまま、村本に使用されている事も考えらない。
哀れだよ。神下、日阪。
僕はカメラを構えた。なぎさの腕が重いけど、しっかりカメラを構え撮影する。
「無駄でござるよ。橘氏の写真は誰にも認められず、誰にも感動もされずに朽ちるのみでござる。写真なんてさっさと辞めて、薬の依存症のなった方が楽でござる。才能は誰しも与えられるモノではないのでござるから」
村本の言葉が思った以上に刺さる。カメラが自然と下がってしまう。
「うっさいデブ。橘。私を撮るんでしょ? 誰を撮るの? 誰が撮るの? 橘は何を信じるの? 私は橘を信じる」
なぎさの言葉が思った以上に重い。才能が無いと言われるより僕を信じるという言葉がここまで強いなんて。
分かってる。
分かってるんだよなぎさ。僕は大人しくしていたんだ。自分にはカメラがある。撮影技術があるって静かにナルシストをしていんだ。
でも、才能が無い事なんて1番、僕が知ってる。彼女である神下を撮影する事を辞めた時も分かったんだ。相手に失礼だと。
でも海向 なぎさだけは、綺麗に撮影していると自信がある。その本人のなぎさが信じてくれている。じゃ、僕が信じないとなぎさの失礼だ。
「なぎさ。行こう」
「え?」
「僕はキミを撮りたいんだよ。キミが1番綺麗だった所で撮影したいんだ」
「それは何処?」
「あの山でキミに見惚れてたんだよ。だからあそこで撮影させて」
「橘氏? 頭がどうかしたでござるか? この状況から逃す訳無いでござる」
村本が呆れ顔で言う。
「僕は大丈夫だよ。村本くんは大事な事を教えてくれたんだ」
「何でござるか?」
「才能だけではない。信じられる事に意味があるって事にだよ。さぁなぎさ、行こう」
「あ、うん」
僕はなぎさの手を握った。冷たい。だけど柔らかい。でも腐った臭いがする。それが少しだけ心地良かった。
僕が玄関に向かった時に、後ろで声がした。
振り返るとその声は神下だった。
「なんで私じゃないの?」
泣きじゃくる声が部屋に響く。村本が「うるさいでござる」と髪を鷲掴みにする。酷い事をすると思いつつ、僕は何も言わずに玄関の扉を出た。
住宅地を駆け足で脱出する。
気付かなかったが、あの山がとても近かった。日阪はこの辺に住んでいると言ってた。あのOLさんも近所だ。だから狙われたんだろう。不運過ぎる。
時間を見ていなかったけど、今は深夜だろうか? 家が建っている所の明かりが消えている。僕は闇の中、あの山に入った。
「キミはここに1人来たんでしょ?」
「うん」
「怖く無いの?」
「別に」
「別にって。僕は怖いかなぁ」
山に入っただけで、気温が少しだけ下がった様な気がした。蒸し暑さは変化無いけど、街ではアスファルトが日中吸収した熱が夜でもカイロみたいに発熱している。ここはその熱が少ない様に思う。地面が土だとここまで違うみたいだ。虫がいっぱい居るのだけは勘弁だ。何の昆虫か分からないけど、顔や身体。露出箇所に飛んで来るのは最悪だ。そういう意味でも夜の山は怖い。
「虫とか平気なの?」
「分からない。でも生き物って良いなぁって思う。私は半分だけだし」
月明かりの下、彼女の手が強張った。弱音を吐いたと数秒後に気付いた。
「橘、なんで今なの?」
「………」
理由はあった。
刑事の秋山の件だ。国家権力もバカではない。僕等なんて明日にも捕まる。村本を警察に早く突き出せば、こんな事になっていなかった。
なぎさの腕が千切れる事も想定外だ。
何を先行して、何を捨てるか、その結果がここだ。
僕は彼女を撮影したい。
コンテストなんてどうでも良いんだ。信じてくれた人を撮影する。
捕まるまで全力で彼女を撮影するんだ。これが僕の選択だ。
「ごめんね。なぎさ」
「謝る理由が分からない」
「キミのゾンビ化を止めれなかった。全部、僕の所為だよ」
「そんな事か」
「え? そんな事って。キミにとっては生死の問題だよ」
「良いよ。そんな事。私は楽しかった。橘と一緒が面白かったから」
彼女は笑ってくれた。僕の撮影した笑顔だ。
「橘。笑ってる」
「またか。何故か笑顔のキミを見ていたら僕まで笑顔になるみたいだよ」
「何それ? 幸せかよ」
「だと思うよ。キミのお陰だよ」
「………」
彼女は少し黙った後に言葉を続ける。
「ちょっと傾いた」
「何が? 腕無いから? バランスが取れないの?」」
「違う。想いが橘に傾いた」
「ん?」
「良い。早く私を撮影して。フラッシュは辞めて。虫が集まるから」
「なんだよそれ!」
僕は笑った。彼女も笑う。夏の山で、僕と彼女は笑った。虫たちが嫉妬するみたいに飛んで来る。それがまたおかしくて笑う。
この空間には幸せだけが溢れていた。
でも幸せは続かない事も彼女は知っていたみたいだ。繋いでいた手が急に重くなった。下に引っ張られるみたいに。
「え?」
「こっちもか」
彼女は冷静に取れた腕を見る。草木と夏独特の匂いが充満する山の中、僕等の周りだけが獣の死骸を掻き集めた様な臭いがしていた。僕はこれで腕を2本持つ事になる。流石に写真は撮れない。両手が塞がった状態ではカメラを構える事が不可能だ。しばし葛藤していると彼女はポツリと言う。
「腕なんて捨てて良い」
「何、言ってんだよ。手が無いと何も出来ないじゃないか!」
「もう失った」
「そ、そうだけど。そうじゃなくて、腐敗性を上回る成長率で………元通りだよ。絶対………」
彼女の顔を見れなかった。多分、腕は戻らない。千切れた部位が戻る生物なんて、僕は知らない。単細胞生物には存在するのかもしれないけど、哺乳類では絶対に無い。折れた歯は、牛乳に入れて歯医者へ持って行けば治るとか聞いた事があるけど、あの腕は僕でも分かる。ダメだ。腐って、崩れ、断面が壊死している。腕が生え替わるくらいに奇跡が怒らない限り、あのままだ。
「行こう橘。私にはまだ足がある」
「……うん」
分からない。彼女の発言は強がりなのか。本当の強さなのか。判断は出来ない。でも失った事は確かなんだ。
僕は村本のカメラのストラップになぎさの腕を巻き付けた。それを僕のカメラのストラップに繋いだ。これで両手が空く。カメラはストラップから取り外して、ストラップ同士で繋げば、写真だって撮影出来る。
「行こうなぎさ」
「ダサっ」
本当、なぎさは容赦無い。でもそれが今は何だか、嬉しい。
月明かりの下、僕は再び戻った。OLさんが自殺していた広場。この前、来た時と何も変わらない。警察が来た痕跡と言えば、立ち入り禁止の虎柄のテープが貼られていた。
なぎさはそんな事、無駄と言わんばかりに身体でテープを千切る。さすがに両手が無いので、バランスを崩し、顔から地面に突っ込んだ。
「大丈夫?」
「大地の味がした」
「意外に余裕なの?」
「と、思う? だったら手は貸さない奴なんだ橘」
「手は4本あるから一本くらいは貸すよ」
「最高に笑えないけどありがとう」
僕は座り込み、彼女の身体を抱き起こした。
腕が無いだけなのにとても軽い。なぎさはずっと軽かったけど、もっと軽くなったみたいで怖かった。
「離して。立てるから」
「ご、ごめん」
僕はゆっくり地面に彼女を置いた。
「ここで人間って死にたくなる?」
不思議そうに訪ねて来る。広場で月明かりが差し込み、ちょっとしたステージだ。周辺のゴミを見なければ綺麗な所だ。星だって見えているんだ。僕なら死なない。
「私は死にたく無い。こんな身体でも」
広場の中心でクルクル回る。手が無いなぎさ。不恰好で、月夜で見ればそれはそれで、ホラーの対象だ。僕にはキラキラ光る名画だ。ここで撮影しよう。決める。最大級に力をここで出し切り、彼女を芸術として昇華させてみせる。ゆっくりとファインダーを覗く。彼女にアレコレ指示はしない。自然のまま。彼女のまま。それが優勝に繋がる。コレで入賞出来る。自分を納得させる様に、シャッターを押す。光加減や、ロケーションは僕が動く。アクションヒーローみたいに地面を転がる。泥だらけになり、汗だくになっても止まらない。止まりたくない。今ここで芸術が産まれていく。産まれ落ちているんだ。
「橘? 泣いてるけど。しかも笑いながら」
「え? あれ? 何でかなぁ?」
「橘が分からないなら、私も分からない。どう? 私を撮れた?」
「最高なのが、いっぱい撮れたよ。入賞で優勝だよ」
「そっか。なら良かった」
次の瞬間、彼女は地面に崩れた。砂上の城の様に。グシャリという耳障りの悪い音と共に。
「次は両脚だ」
月夜の下、彼女の両脚が腐って、爛れていた。左脚は太ももから。右脚は膝から。
こんな短期間で腐った? 何で?
「悲しい顔しない」
「でも……」
「撮影して。最後まで撮って。私が生きた意味を橘が残してよ」
真っ直ぐした瞳だった。恐怖なんて微塵も無い。後悔なんて1ミリも無い。そんな目だった。
「分かったよ」
僕は撮影した。ずっと。一眼レフの電源が落ちるまで撮影し続けた。彼女はその間、ずっと腐り続けた。速度増し、範囲を広げ。
もう僕の声は届かず、朽ちていく。
もうキミの声が聞き取れず、腐敗する。
いつの間にか、ファインダーを覗いても、キミが見えなかった。僕の涙が溢れ返り、涙で濁った世界は、歪で何もかもを隠している。
「なぎさ?」
カメラの電源が落ちているのに、僕は臆病で、見れなかった。現実を。
なぎさを。
でも、見ないとダメだ。
受け入れないと。
僕は彼女を見た。いや、彼女だった物を。プラスチックの様な黒い糸は多分、髪の毛だ。そして腐った肉塊。虫が集まっているのは彼女だった物。衣服はそのまま残っている。
「………」
言葉に出来ない。骨も残さないで彼女は腐って行った。そして土に還った。そこに感情は生れなかったけど、ただただ涙だけが流れて、夏の暑さがウンザリだった。
僕は彼女の両手をその場に置いた。持っている時は、腐っていなかった腕だったのに、彼女を失った瞬間、腐敗が始まった。もう彼女はいない。
それだけは確かだ。
もういない。
行き場を失った僕は、立ち上がり、家に帰る事にした。彼女をそのままで帰るのは、気が引けたが、何も出来ない。
なので、僕は「さよなら」と一言、言いその場を後にした。
しばらく家に帰り着いた。鍵も掛かっていない我が家は真っ暗だった。そうだった。秋山から逃げて、そのままだ。1日が長過ぎて、遠い過去に感じる。秋山の事なんて若干、霞んでいた。
壁に掛かっている丸い時計を見た。
時刻は3:04だ。
あの出来事が昨日………。はっきり言って、信じられない。濃厚だったし、忘れられない日だった。僕は色々な事をすっ飛ばし、リビングのソファに飛び込んだ。長年使い込んだソファはスプリングなんて、ぶっ壊れているけど、どの高級ベッドも快眠させてくれそうだった。汗だくでこのまま、寝るのは嫌だったけど、程なく睡魔に負けた。
「ん?」
何時だ? 僕は瞼を開けず、覚醒する。自分が何時間、寝ていたのか感覚が喪失するまで寝ていたみたいだ。
とりあえず起きよう。
その時だった。
「おはようでござる橘氏」
「え?」
一瞬の事で脳死状態。少し間を置いて、驚く。だが手足が縛られている事に気付き、驚きは恐怖へ移行した。
「不用心でござるよ。鍵は掛けないとダメでござるよ」
村本はニタニタ顔で、顔全体が油まみれの様に汗を流している。そして何故か黄ばんだパンツのみを着衣して、僕を見下ろしていた。
恐怖で声が出ない。
「橘氏は時々、ヤリたいと思った事があるでござる。でも女体には負けるので今まで敬遠していたでござる。でも今回は憤怒を数回し、ドラッグで頭がバカ状態なので、食わず嫌いを卒業するでござる」
「え? やめろやめろ」
彼が何を言いたいのか、瞬間的に理解したので僕は必死に抵抗する。
「暴れて良いでござるよ。泣いても良いでござるよ。そっちの方が燃えるでござるよ。屈服させた時は最高でござるから」
村本の太い指が僕のスボンを乱暴に脱がした。同時に下着も脱がされる。
ヤバい。本当にコレはヤバい。
「村本くん。本当にやめて。やめて下さい。僕が悪かったよ」
「行くでござるよ! イクでござるよ!」
乱暴にうつ伏せ状態にされ、次の瞬間だった。肉感を肌で感じたと思った後に激痛が走った。僕は声が出せずにカスカスの空気を吐くのがやっとだった。
「良いでござるよ! 良いでござるよ」
村本は激しく、上下する。その度に稲津みたいな痛みが全身に走った。
「………」
もう僕に喋る元気は無かった。
部屋にはソファが軋む音と、村本の荒々しい息遣いが響いていた。
コレは罰なんだ。僕が母さんを神下を大事にしなかった天罰だ。
全部、僕が悪いんだ。父さんが駆け落ちした時も、母さんが死んでしまった事も、神下を彼女として見なかった事も全部、僕の所為だ。結局はカメラに逃げて、なぎさという被写体にも逃げた。彼女は最後、土に還ってしまったけど、最後まで彼女を理由に逃げてしまった。
今もだ。彼女を理由や原因にしてしまっている自分が居る。何処まで僕は愚かだ。写真が下手くそなのも、凡人だからだ。
何も無い。空っぽだ。なのに害悪だ。ごめん。ごめんなさい。僕の所為だ。
僕の懺悔が終わる頃、村本は満足げに家を後にした。縛られ、身動きが取れないまま、僕は気絶した。
「おーい。起きろ? 何があったんだぁ? 説明しろ? あと刑事に暴行すんな」
目の前には秋山の顔があった。
かなり驚いた顔をしていた。
「こりゃ完全にレイプだねぇ。被害届出しとっかなぁ。コレ。で、母さんの事なんだけどね?」
「解いて貰って良いですか?」
「あーすまんすまん。優先順位って生きて行く中では重要だよねぇ。今は、母さんの死が大事でしょう? そう思わないかい? 純平くん」
「いえ、もう犯人も分かっていますし」
「同級生の村本」
「え?」
びっくりだった。国家権力をバカにしていた。僕みたいな素人よりも全然、優秀だ。最初からこの人を頼りにしていれば良かった。
秋山は難しそうな顔をして、僕の手足を縛っているビニール紐を解いてくれた。
「分かったのは、それのおかげ。オレの部下が今、捕まえに行ってるよ」
秋山は指を指す。その先にはカメラがあった。
「これ」
「そう村本のだろ? 君のカメラは知らないけど、それが全部、自白してくれてる。今時って、自分の犯罪を隠蔽するより保存するだねぇ。バカだわ」
秋山は軽く笑った。
すると、ソファに僕を無理矢理座らせ、隣にドッカと座った。お尻がとても痛いけど、雰囲気がそれを言う事を拒む。
秋山は沈黙の後、半袖のワイシャツの胸ポケットからぐちゃぐちゃになったタバコの箱を手に取った。
「いい?」
「どうぞ」
「どうも」
タバコに火を付けて、タバコを吸う。
「人生最悪だけど生きろ。別に良い事が全てじゃない。生きる事が重要なんだ。って、言ってたわ」
「誰がですか?」
「知らないのか?」
「はい?」
「昔のオレ」
「はぁ」
何が言いたいのか分からないけど、多分、元気付けているんだろう。
「あ、秋山さん」
「あぁん?」
「同級生の神下と日阪、どうなるんですか?」
「強制的にドラック中毒になった娘たちかい?」
「はい」
「何かしらの罪になるだろうなぁ。過失とはいえ」
「そうですか」
「そう沈むな。楽に行こう」
秋山はそう言うが、楽になりたいとずっと思っている。
なぎさの様に。
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